晴貞奮戦記〜冨樫再興を駆けて〜
−前編「池の鯉」−

第壱章 野々市の館

天文五年(1536年)10月。金沢御堂。
「証如上人。冨樫殿から代替わり挨拶が届きました。」
「小次郎殿。泰縄殿・・・と申したか。太刀代百疋や馬代百疋の計二百疋か。少々少なく思うが・・・」
「小次郎様は昨年に父を亡くして、今も家中が大変なご様子。」
「そうか。返礼の代は少し多く遣わすのだ。加賀の国主様になられる方だからの。」

私の名前は「冨樫晴友」。今は理由があって「小杉晴友」と名乗っているが、冨樫家の立派な血筋である。我が父・冨樫晴貞の生涯を語ろうと思う。もちろん私が生まれる前の出来事は、父に直接聞いた話ではあるが。

享禄四年(1531年)。私の祖父・冨樫稙泰は、加賀国内の一向一揆の路線対立から、超勝寺・本覚寺方という大一揆と、賀州三ヶ寺方という小一揆に分かれて起こった内乱、いわゆる亨禄の錯乱に小一揆方として参戦した。賀州三ヶ寺は守護冨樫氏と協調路線をとっていたため、冨樫家には小一揆方が勝つことに都合がよかったのだ。しかし小一揆方は敗戦。稙泰は大一揆方に囚われ、かつて小一揆方だった願得寺に幽閉の身となった。しかし、半年後に一瞬の隙を突いて脱出し、越前へと逃れた。越前の協力を得て加賀に再度入国を図ろうと思ったのだが、朝倉からはたいした援助は期待できず、失意のうちに天文4年(1535年)に祖父・稙泰は亡くなったという。そしてその跡を継いだのが私の父・冨樫晴貞。この頃は泰縄と名乗っていた。

「うむ。やっと野々市に帰郷できた。館に帰るのも5年振りか。」
「御屋形様。まずは館の周囲を再度整えることから始めませぬと、これでは客人も迎えられませぬ。」
「三河守よ。冨樫館の堀は掘り返さぬと、超勝寺と約束した。それだけではない。本覚寺とは高尾城を放棄することも約束した。これが私が家督を継承する条件だった。」
「一向一揆と敵対しないという証としてですな。」
「堀は掘れぬ。しかし、池ならば良かろう。主殿から見える庭に加賀の国をかたどった池をこしらえるのだ。」
「御意。」
「・・・・・・本年二月に能楽座の日吉大夫が能登に下向するにあたって、幕府が加賀国の路地安全を指示したのは本願寺の証如だ。今や加賀国の安全を司るのは、守護であった冨樫ではなく、誰もが一向一揆であると思うておる。」
「打開策はありましょうか・・・。」
「それは・・・野々市だ。ここ、野々市は北国街道と白山街道の交点。曾祖父の泰高様の頃の繁栄に比ぶればまだまだかも知れぬ。しかし、加賀国随一の街、野々市。ここに堂々と住むことができるのは、由緒正しき冨樫家をおいて他にない。勝機はまだある。」

加賀国の中で野々市は陸上交通でもそして海上交通でも要所として成り立っていた。だから有徳銭や棟別銭が期待できた。ただ、一向一揆側の台頭によって、今では近くの金沢御堂に人があつまるようになってきた。だからこそ、冨樫に野々市に戻らせても構わないという判断なのであろう。どのような状況であっても、戦いによって全て失われたかに見えた冨樫家にとって、泰縄が冨樫館へ帰陣するということは僅かな光であったのだ。しかし、この頃の冨樫家は私が幼少の頃に過ごした冨樫家とは比べものにならないほど貧しかったという。そして周囲の冨樫家に対する態度もそれなりの態度であったという。

例えば天文六年(1537)の事である。

すでにちらほらと雪が舞うこともあったこの年の10月30日。泰縄は鷹狩りへ出かけた。小松方面の山へ向かうために、その際に本折館へ寄る手はずになっていた。しかし、山川三河守が申すには
「本折、その日の歓待を断り候」と報告してきた。主人が寄るのを断るというのは余程のこと。つまり本折は冨樫家の臣ではないと言っているも同然だった。
そこで泰縄は本折治部少輔の気持ちを探るために、あえて知らせをしないで、小松方面へでかけた帰りに館へ寄った。折しも大雨が降り寄る理由としては至極自然な理由付けになった。
「御屋形様が参りに候」との小姓の言葉を受け、誠に苦笑交じりに迎えた治部少輔。
「治部少輔。急な大雨と寒さが堪えるゆえ、都合が悪いことは承知の上で、宿泊を頼みたい。」
「・・・・・・御意。しかるに用意ままらなぬゆえ、行き届かない程多きこと平にご容赦願いたい。」と心が無く笑みひとつ無い顔で言った。
実際にその応対はひどいものであった。
寝床こそ客間に通されたものの、夕飯として出されたものは「湯漬け」のみ。「事前に用意がないと言うが、この寒さ堪える中、酒のひとつも出さぬとは・・・」と側近の者があきれていた。また夜中にのどが渇き起きた泰縄が井戸へ水を飲みに行くと、偶然出くわした本折の臣の者が
「冨樫の者に飲ます水はない!」と強引に酌を奪った。
暗がりゆえ、おそらく自分を冨樫家当主の泰縄だとは思っていなかったのであろう。治部少輔自身が日頃から冨樫をよく思っていないがゆえ、それが臣下に伝播している証拠である。翌日の早朝。本折治部少輔から「所用のため本日は朝から外出するため、辰の刻(午前8時)までに出立願いたい。」と言われた。泰縄は「憎らしきこと」とは思ったが、冨樫家の現状を考えると、仕方ないとも思った。だからこそ、もっと冨樫家の力を回復しなければと固く誓った。

父は後にこの時の出来事を「死ぬまで忘れず、本折を体の芯から冨樫に仕えるような豊かな家にしたい」と言っておられた。そのためならどんな手段でも構わない。父は冨樫家の再興を本格的に開始していったのだ。

本折館の出来事から半年後

泰縄は、「馬の絵」を描いていた。歴代の冨樫氏は「馬の絵」がうまく、以前の当主であった冨樫政親はその腕前を雪舟にも認められたほどであった。その名声は都にも届き、「冨樫の馬絵」とかつては評判になっており、泰縄は「馬の絵」を売ることによって冨樫家の資金にしていた。また野々市の町からの税や荘園の押領を通じて、徐々にではあるが冨樫氏の勢いが回復していった。しかし、冨樫の勢いは以前に戻らない。
「御屋形様。公方様(将軍)の御台所料に関する下知は、またもや冨樫を通り越し本願寺に命じられました。」
戦国の世においては、幕府の公方様の直轄である京都から遠く離れた幕府の領地の税金が、他の勢力による押領に度々あっていた。それを主に国内の守護に命じて幕府に納めるよう促すのであるが、加賀ではその役目が冨樫家ではなく本願寺に命じられていた。その役目から取り分がもらえるので、幕府から仕事を命じられるということは、収入増加にもなる。
「やはり、公方様へのお眼鏡に叶う冨樫家になるにはほど遠いか。三河守よ。冨樫家にはいくらの用脚が残っておるか?」
「はい。残りは30貫ほど。」
「うむ。やはり入る銭が少ないが、出る銭を少なくする他あるまい。当面冨樫一門の食を半分にせよ。また新たな衣服の仕立てを禁ずる。」
「おやめくだされ。主家がそれでは面目が立ちませぬ。被官の所領から銭を少しずつ献上すればよろしいのでは・・・」
「それでは臣下の者の不平を溜める。冨樫の貧しさは、先代の『両流相論』で家中対立を繰り返したが故だ。臣下の物に不平を溜めれば必ず戦になる。」
「承知しました。・・・・・・これで冨樫家も安泰となるでしょうか。」
「いや、まだだ。まず、・・・・・・武家伝奏を通じて幕府に馬を進上する。」
「恐れながら申し上げます。公方様への用立ては冨樫の財が不足招く愚策にて。」
「本折。御屋形様にその物言い。守護代が山川家の立場として許せん!」
「いいのだ三河守。本折が言う通りでもある。しかし本折。冨樫家の現状を見よ!堀は掘れぬ。高尾城は放棄した。幕府は本願寺へ国主たる命令を出す。旅人の路地安全では野々市の館ではなく、本願寺の金沢御堂に参る。これで冨樫は加賀国主と言えるのか!」
「・・・・・・。」
「早速、公方様への使者を立てよ。もちろん将軍様への使者には新調した衣装を仕立てるのだ。」
泰縄はそう言うと、野々市の町から買ってきた生きた「鯉」を、主殿の加賀の国をかたどった池に放った。
(今はまだ、この鯉のように加賀の国を自由に出来ぬ身。・・・・・・なれどもきっと冨樫はその魅力で再び加賀を手中にする。見ておれ一向一揆の者共よ。)

一向一揆方の幕府へのパイプ。軍事力として、経済力としての門徒の数。寺社勢力を基にした訴訟裁決能力・・・。父・泰縄は軍事力では一向一揆に対抗しうる勢力には冨樫家はもはやならないだろうと分析していた。そうなれば、冨樫家に唯一残された利点は「加賀国主としての伝統と家柄」を置いて他にないと思っていたと言う。それゆえ、幕府に接近することが冨樫の権威復興への近道。幕府の権威を借りることで一向一揆に対抗し、国外の勢力と結び付こうと考えた。泰縄が冨樫家のなけなしの財を使用した真意はそこにあったそうだ。

第弐章 復権への道

天文九年(1540年)6月。野々市の冨樫館。
「治部少輔。確か能登の穴水に諸橋大夫という能楽座があったな。」
「はっ。昨年度も野々市で興行を行いました。」
「穴水の領主・長氏は幕府の奉公衆である。幕府に連絡し、諸橋大夫を召し抱えたい旨の使者となってくれ。」
「御屋形様。わしら被官の知行も微々たるままに、能楽を召し抱えるとはこれ如何に。」
「今後は幕府の使者が館に参る機会も増える。その中で何かもてなしがなければ、心証も悪かろう。」
「・・・・・・はぁ・・・承知。」
と本折治部少輔は足取り重く部屋を出て行った。
「御屋形様。もう少し臣下の者の気持ちまで組んでいただかねば・・・」
「すまぬ三河守。ただ、わしにはやらねばならぬことがある。野々市で祭りを行うのだ。この当たりで踊られている御贄踊り(おにえおどり)を中心にしよう。たくさんの人々が集まるであろう。その場では康平六(1063)年から冨樫ノ郷で続く煎餅を売るのだ。」
「ただの煎餅が繁盛しましょうか?」
「祭りの日だけは、冨樫の御紋である八曜紋を焼き付けるのだ。冨樫公認の菓子として再び流行らせる。その収入もまた冨樫に入る。そして祭りに来た公家達には能楽でもてなす。金沢御堂に対する野々市の繁栄を確保せねば、冨樫に未来はない!」
「承知!」
 冨樫家の被官たちは、冨樫家の財が潤うまでと、自主的に知行のかなりの部分で主家に銭を用立する者もいた。被官の知行が多くない状況で能楽座を養うなどとんでもない・・・という意見が家中の大半であった。たいそう幕府に御忠進。その姿まるで冨樫政親様の如く。」と揶揄するものもいたとか。冨樫政親とは、長享二年(1488年)に「長享の一揆」で一向一揆に討たれたかつての冨樫家当主である。一向一揆や領民の反感を買ったのは、国内の税を高くし、幕府の戦争に加担したためと言われている。その姿を泰縄に重ねていた者が多くいた。私がその話を父に聞いた時、「父上を、一向一揆に討たれた政親様と重ねるとはなんたる不届き者!」と憤慨したが、「政親様は名君だったのじゃよ。冨樫家の名前を公方様に覚えてもらうことで冨樫家の力を示そうとした。その手段は正しい。誤りがあったとすれば、性急にやり過ぎたと言うことだ。わしを政親様に例えるなどとは恐れ多いことなのだ。むしろ有り難い。」と父は話していた。なんたる父の寛容な心。幼子心に私は感動したものだった。

天文十年(1541年)1月。金沢御堂。
「証如上人。冨樫殿から年始の使者が参りました。」
「小三郎殿・・・いや今は加賀介様であったか。昨年は梅染の布など工夫をした品物であったな。・・・今年は太刀代百疋や馬代として三百疋!?一昨年に比べて倍の額・・・。」
「証如上人。いかがしましたか?
「野々市の町には何か変化があったか?」
「『冨樫の馬絵』が流行っており、能登や京からも買いに来る者がいるとか。昨年より野々市で祭りが催され、庶民が大勢参加したとか。さらに冨樫が召し抱えた諸橋大夫による能楽で京より公家が訪れ、公方様への心証もよくしておる様子。幕府より守護請も少し戻っているとのこと。野々市はずいぶん賑わいを取り戻している様子。」
「そうか。加賀介様はご健在だな。」
「して返礼の額はいかほどに?」
「うむ・・・同額でよい。冨樫様と我々は対等になったのだ。差を付けるのは失礼にあたるだろう。」
「もう一つ、冨樫殿から本折の件について、五百疋の礼金が届いています。」
「確か冨樫殿から離反した小松の本折治部少輔を、もう一度冨樫に助力せよ、と言った件だったな。」
「本折は門徒故、ふたつ返事で承諾してございました。」
「冨樫は今後、登るか下るか。どちらに出るだろうか・・・。しかし、加賀の国主である冨樫家とは、先年の享禄の時のように一戦を交えることには避けねばならぬ。」

 天文十一年(1542年)3月。将軍・足利義晴は木沢長政との対立の決着を受け京都に帰還する。その祝いに泰縄は上洛し将軍との面会が実現した。
「冨樫泰縄と申したな。」
「はっ。公方様の帰洛。これで天下国家が安寧となります。ここに祝いの太刀と馬、さらに野々市名物煎餅を持参した次第。」
「うむ。有り難くいただく。時に泰縄。野々市では馬の絵が名物と聞く。」
「よくご存知で。そこで本日献上する馬の絵を用意しました。こちらに。」
「おお!なんと馬の生き生きとした様子。これはわしの館に飾ろう。絵の礼をせねばならぬな。そうだな・・・泰縄よ。我が名の『晴』を授ける。」
「なんと誠に有り難き幸せなこと!公方様の御名と、祖父『泰高』の字を合わせて、本日より『晴泰』と名乗ります。」
「そうか。晴泰。今後も幕府に忠心せよ。」
幕府との関係が回復してくると、冨樫の威厳はますます高まっていった。加賀国内の国人や寺社などで、領国争いや税負担などのへの不満の訴訟について本願寺の裁決に納得いかない場合は、冨樫家に訴訟を持ち込む者が増えた。なかには「晴泰様は、字をもらっただけで、たいそう幕府に御忠進である。」などと陰口を叩く者もいたが、徐々に冨樫家は旧領を回復していくことに成功し、晴泰が家督を相続した頃からの「どん底」からの回復を成し遂げていた。
野々市の冨樫館の池には、今は10匹の鯉が泳いでいる。しかもそのうち一匹は堂々とした体格で、鮮やかな赤と黒の模様で見るものの目を引いていた。
(この鯉のように、加賀の中で輝かしい存在に冨樫は返り咲くのだ。)
と晴泰は意気込んでいた。

 天文十四年(1545年)のことである。妙法院が加賀国南白江荘の収入を幕府奉公衆である安威兵部少輔光脩が押領するのでここが誰の領地であるのか相論となっていた。押領とは「他人の領地からの収益を収奪する行為」である。妙法院からの訴えが冨樫家にあったので、、妙法院と安威光脩の双方を呼び寄せ確認したところ、安威光脩の押領を認め妙法院の勝訴と裁決した。しかし、納得のいかない奉公衆の安威が幕府の問注所に訴訟を起こした。幕府は、妙法院の代理として晴泰に証拠の文書の提出を命じた。これは、冨樫家の訴訟解決能力があると幕府が認めたということ。安威光脩は奉公衆の自分の有利な裁決が下ることを期待していたため、この問注所の命令に驚嘆し、急いで自らの訴訟を取り下げた。つまり、冨樫家の裁決が幕府に追認されたのである。幕府への接近が、中央の政界に「冨樫」を認知させた。それは同時に加賀国内に波及していく。少しずつではあるが、加賀国の中で「加賀国主たる冨樫家の力」が回復していった。
 この時の事を父は好んで私に話して聞かせた。特に酒に酔うて上機嫌の時が多かった。何度も同じ話を聞かされるので、少々飽きたとも思う事もあるが、父がとても嬉しそうに語るので、初めて聞いた振りをしていたのだが、一度くらいは「父上、その話はもう十二度目ですぞ。」とでも言えば良かったのかもしれない。
 野々市の冨樫館の池には、追加で5匹の鯉が放たれた。総じて25匹の鯉が優雅に加賀国をかたどった池で悠々と泳いでいる。
「加賀の国主はこの晴泰よ。加賀の中心は、ここ野々市にあり!」
そう自慢げに話す父にこの当時は困ったものだと思っていたが、今振り返ると、きっと私も笑顔であったに違いないだろうと思う。

中編へ続く

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