『官知論』現代語訳 その六

9 高尾城額口(ぬかぐち)合戦のこと

越中口からの吉報に、一揆諸陣の面々は夜を徹していよいよ互いに競い合い、出陣準備にいそしんだのである。
高尾城の篝火は高きにあって天を輝かし、夜空の星のようであったし、攻め手の一揆軍の篝火は地におびただしく満ちていたのだ。

洲崎慶覚入道が河合藤左衛門宣久に耳打ちして話すには、
「じつは密かに城中の軍議を伝え聞く中で、政親が一族の高尾若狭守が言ったという話で、
『この城が落城してしまえば、我らはみな滅ぶしかない。明日の戦いは搦め手の額方面から一気呵成に押し出せば、一揆どもの陣も手におえなくなるであろうよ。』

そこで老臣である宇佐美八郎左衛門が進み出て、意見を述べたのだ。
『獅子は百獣の王と言えども、巨大な象を相手にしても王の威厳を全うして捕り、小さな虫を相手にしても同じく王の威厳を全うすると言う。
額口は搦め手であるが、侮ってはなるまい。
敵を近くまで引き寄せて堀の際まで来たところに、例のはね橋を堀に懸け下して城の各門から一気に攻めかかり、敵を八方に追い散らし、その勢いに乗じて総攻撃をかけてあちこちの諸陣を焼き払って勝負を決しよう。』

しかし高尾若狭守はこの意見を用いず、初めのとおり額口から出撃することに軍議は決した。」という内通があったのだ。
これは漢の高祖の軍師として名高い張良の書に、
『大将のはかりごとが漏れやすければその軍は勢いを失い、内の秘密が外から窺いやすければその災いは止められない』と言うのではなかったか。
ここは額口を攻める軍に加わり、一気に勝負を決しようではないか。」

この話に河合藤左衛門はもっともなことだと同意して、久安の本陣前には偽軍を残し、夜陰にまぎれて密かに、額口近くに配下の軍勢を集結させたのである。
城中の者は、夢にも思わないことであった。

翌日7日の早朝、一揆の諸陣は合わせて万9500余騎、合図ののろしを上げ、高尾城めがけて押し寄せたのである。
同時に、雲がむらむらと湧き起こるようにときの声をあげ、そのさまは大きな山も崩れ、平かな湖の水も傾いて地の底に落ちるかと思うほどであった。
これに対して城中でも楯を叩き、ときの声をあげたのである。
それはあたかも大音響で名高い、中国は会稽城の雷門の音のようであった。
そして城内から一騎当千の兵2000余人が、楯300張ばかりを揃えて押し出したのである。

これに先立ち、富樫政親は閲兵を行い、次のように下知していたのだ。
「今日の合戦こそ、我ら武士と一揆どもの存亡をかけるものであり、抜け駆けなど、みだりに行なってはならない。
楯を横1面に並べて弓上手の者どもを選りすぐり、5人10人ずつ組になって間断なく射かけ、矢の1本も無駄にしてはならない。
敵陣の楯の隙間が見えたならば、矢よけに鎧の左袖を掲げて、一同揃って切りかかるのだ。
味方の武士が1人でも鎧の背を敵に向けるならば、八幡神もご照覧あれ、われ政親が自ら討ち棄ててくれようぞ。」
侍どもは「承った。」と気勢をあげ、額口近くに軍勢を集め、ときの声をあげつつ一斉に矢を放ったのである。

さんざんに矢を射かけて、互いに矢が尽きたので、一揆勢の石黒孫左衛門正末が進み出て
「日頃の猛々しい言葉を証明するのはこの時ぞ。諸勢も、ともに勝負を決するのだ。」と、楯を投げ捨てて切りかかっていった。
城方では富樫氏の同族・加賀斎藤一族の済藤(さいとう)藤八郎、石川郡安江郷の安江弥八郎を先鋒として、真っ向から切り込んでいったのである。
敵も味方も入り乱れ、ここぞ決戦の場と互いに攻め合ったのだ。

一揆勢が城方の軍勢をおびき出すために少々引き気味になったところ、城方勢はこれを追いかけて深入りしていった。
そこへ左から洲崎勢、右からは河合勢が城方の退路を絶つ形で囲み、一揆軍の真ん中に取り籠め、火に水をかけるように攻め立てたのである。
徒歩の兵はすでに交戦を始め、あるいは互いに組み合って首を落とされる者あり、あるいは刺し違えて死ぬ者があった。
立ったまま腹を切るものあり、それぞれ思い思いに戦ったのである。
鋭鋒を繰り出し合い、滴る血を流して追いつ追われつし、駆けたり返したりしては刀の鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を断ち割り、切り結んだ切っ先からは火花を散らして、互いにわめき叫んで戦ったのだ。
その声は、上は上天に達し、下は地獄の底、大地の神も驚き給うほどおびただしいものであった。

ここに本郷修理進春親は、一揆軍を数多く討ち取りつつも我が身に痛手を負い、近くにあった小墓に寄りかかって息を整えていたところを一揆勢が数名で取り囲み、首を取ろうとしたのである。
そこで本郷春親もむんずと起き直り、太刀をふるって一揆雑兵を薙ぎ払い、首を3つも討ち取り、そのあと腹を十文字に掻き切って、はかなくなってしまったのだ。

朝から6時間あまりも合戦を続けるさまは、中国史に名高い呉越の合戦、漢の高祖と楚の項羽の戦いを越えるものであった。
城方の軍勢はついに破れ、散々に引き退いたのである。
出撃したときは2000余人であったが、引くときはわずか300余人にまで討ち取られてしまい、怪我人や戦死者の数は、計算機である算木を散らすほど、乱れた麻布の目ほどであった。

攻め手の一揆衆は競うように、この勢いのまま夜襲をかけようと城の堀ぎわまでじわじわと詰め寄り、城方が脱出しないように柵を作り鹿垣をめぐらして十重二十重に取り囲んだのである。
これは項羽が垓下の戦いにおいて漢の高祖に取り囲まれたとき、「愛馬の騅も動けない。愛妃の虞美人よ、お前をどうしようか。」と嘆いたのと全く同様のことになってしまったのだ。

そこで御大将である政親は、
「今日の戦いで討死した者の名前を名簿に記し、冥界は閻魔の庁に捧げよ。」と仰せられた。

名簿に記載された城方の主だった人々には、富樫氏同族の額丹後守、その子の額八郎四郎、石川郡林郷を名字の地とする林正蔵坊、その弟六郎次郎、本郷修理進、高尾若狭守、石川郡林郷月橋の槻橋弥次郎、済藤藤八郎、安江弥太郎、同じく安江三郎、宇佐美八郎左衛門、山田弥五郎、河北郡上山田の広瀬源左衛門、同じく広瀬又七、石川郡山島郷徳光の徳光次郎、松本新五郎、阿曾孫六、霜田伊豆坊、奈良与八郎、松原彦四郎、多田源六、石田帯刀、同じく石田次郎三郎、取次ぎの衆として知阿弥、越前からの衆として越前国坂井郡溝江郷の溝江殿、同じく一の本兄弟殿などがあった。
これらの人々を先手として、名字を持つ侍500人、その他の雑兵は数え切れないほど討たれてしまったのである。

そうこうしているうちに、攻め手の一揆衆は城内に火矢を射かけ、熊手や長鎌を城の板塀や矢倉に引っかけては引き倒し、わめきながら攻め入ってきたのである。
城中の面々は、身分の高いものも低いものも一様に慌てふためき、上を下への大騒ぎとなったのである。
これは敵わないと思われたのであろうか、城中各所に火をかけて焼き払い、山上の郭に逃げ上がったところ、怪しい風がしきりに吹き始めて、猛火は雲を焼こうとするほど高く上り、煙は四方を覆ったのであった。
このような中にわめき叫んで攻め戦うありさまは、八大地獄の最大のものである阿鼻地獄の炎にまかれ、地獄の鬼が罪人を責めるのさえ、これほどではあるまいと思えるほどであったのだ。

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