情報は2019年10月現在

武田氏館〜其の1〜
(山梨県甲府市)
武田氏館01

 歴史お友達のこたつ城主様と小野寺様と行くオフ会での歴史スポット探しをしていたら、「信玄ミュージアム」という歴史施設が2019年4月にオープンしていることを知った。それは甲府開府500年記念事業という一環だそうだ。甲府は永正16(1519)年に武田信虎が躑躅ヶ崎館を構え、「甲斐の府中」すなわち「甲府」としたことから始まっている。調べていくうちにどうしても行きたくなって、オフ会を待たずに行ってしまいました・・・。

 今回の訪問は、歴史資料館としてオープンした「信玄ミュージアム」とその他関連事業について紹介したいと思います。


 最初に「信玄ミュージアム」です。正式には「甲府市武田氏館跡歴史館」というそうですが、公式サイトなどでは「信玄ミュージアム」と言われることがほとんどです。無料の「総合案内」と「常設展示」の他、有料の「特別展示」の施設があります。

 「武田氏館(躑躅ヶ崎館)」を訪れる前に、ぜひこちらの施設で様々な知識を得てから訪問されることをお勧めします。この施設は無料の「常設展示」だけでもかなり詳しく発掘調査の内容を詳しく知ることができます

武田氏館02
上の写真は「常設展示室」です。

武田氏館03
写真撮影可なので、武田氏の歴史をゆっくり後で振り返ることができます。
武田氏館04
最新の発掘調査の様子も、ここで知ることができます。きっと発掘調査が進むごとに情報が更新されると思うので、それも楽しみの1つです。

武田氏館05
 さらに総合案内では、武田氏館の最新の発掘調査を掲載したパンフレットや、周辺文化財や散策ガイドブックが手に入ります。武田神社にも案内看板がありますが、情報が古い(平成初期)のものが多いので、こちらの施設で武田氏館の見る場所を決めて回る方が効率が良いでしょう。

武田氏館06
 次に「特別展示室」です。こちらは有料で、大人一人300円でした。特別展示なので、きっと時期によって展示替えが行われるでしょう。2019年10月当時は、オープン当初から展示されている「発掘調査の出土品とともに戦国時代の歴史の展示」が行われていました。常設展示と違うのは出土品が展示されていたことです。特別展示室は写真撮影不可なので、掲載できませんが、ほとんど欠けることなく出土された陶磁器の皿、たくさんのかわらけや香炉などを見ると、かなりの文化度を誇ったことがわかります。福井市の一乗谷史跡でもそうでしたが、やはり発掘調査が行われると、古文書以上にその当時の様子がわかります。七尾城も早く発掘帳をしてもらいたいものです。

ではいよいよ・・・
武田氏館07
武田氏館跡に行きましょう。跡地には武田神社が建っています。
武田氏館08
この日は、七五三の祝いをする人が神社に多くいました。山梨県の人からすると、ヒーロー武田氏の神社でお祝いすることはとても特別なひとときなのかもしれませんね。

武田氏館09
 武田神社に入るための南側の表門。ここは神社になってから切り開かれたもので、武田氏館があった当時は土塁が続いていたそうです。石垣は後でつくられたのですね。その辺りも「信玄ミュージアム」で確認ができます。つまり武田氏館の主郭への正式な入口は、東側からの大手からとなります。

次に武田神社の東側にある宝物殿に行きます。有料で大人300円でした。
武田氏館10
この時には、特別公開として「風林火山」の軍旗の展示がありました。
武田氏館11
館内は写真撮影禁止ですが、一つだけ撮影可能なのがありました。信玄の銅像です。
ちょっと目が光っていて怖かった・・・。宝物殿には、信玄ミュージアムとは違い、神社に奉納された剣やや鎧、軍配などが展示されています。


では次に武田氏館の遺構を見ていきましょう。

武田氏館12
次は武田氏館の大手門の丸馬出の復元です。こちらは平成21(2009)年に復元が完成しています。
武田氏館13
しかし、この復元は武田氏滅亡後に築かれたものです。武田氏時代の遺構としては、大手門に三日月堀があったことがうかがわれます。

位置関係がわかるように、館の地図の看板の写真を掲載しておきましょう。
武田氏館14

主郭部(武田神社・宝物殿)→大手ときました。大手と主郭の堀沿いに御隠居曲輪方面へ向かいます。

武田氏館15
御隠居曲輪へ続く道は、「スポット緑地」という公園になっていました。
武田氏館16
ここから見えるこの曲輪は「御隠居曲輪」と言い、信玄の母(大井夫人)の隠居所と伝承されているそうです。重機があり発掘調査や整備が行われていることがわかります。令和元(2019)年度の甲府開府500年で一応の整備が区切りとなりますが、館跡は今後も発掘し研究されるようです。

武田氏館17
 御隠居曲輪から主郭へ通じる枡形虎口は、石垣が築かれていました。これが武田氏時代の遺構かどうかはわかりませんが、館内の多くの石垣が武田氏滅亡後に築かれていることを考えると、この枡形虎口の石垣も、滅亡後に改修されたものだと思われます。


武田氏館18
 写真は右が「無名曲輪」で左が食料庫などがあった「味噌曲輪」。ここにもかなりの石垣が使われています。

武田氏館19
 写真は味噌曲輪。味噌曲輪は信玄の嫡男・義信の館があったとされる西曲輪とつながる「北枡形虎口」があり、味噌曲輪に馬出が作られていたようです。ここも発掘調査がされています。

武田氏館20
味噌曲輪から西曲輪へ向かう堀切に作られた土橋を渡ります。
武田氏館21
虎口から西曲輪にいくには、石垣があります。ここに門があったと思われます。おそらく武田氏滅亡後に拡張されて石積み門となったのでしょう。

武田氏館22
 西曲輪には、大きな石がごろごろ。おそらく信玄の嫡男・義信の曲輪だったことから、立派な庭園が築かれていた跡だと思われる。ただ、義信が謀反の疑いで殺害されると、西曲輪にあった建物も破却されて改修されたと考えられます。
武田氏館23
 西曲輪には、大きな白鳥がいました。水堀があるから環境もいいのでしょうね。動物にも人にも、そして歴史学習もできるような史跡公園に整備されるといいなって思います。

武田氏館24
西曲輪から東への通路は、主郭へ続く橋です。ここは神社の主要通路のためにコンクリ−トで固められています。
武田氏館25
西曲輪から南への通路は、武田氏時代では館の外に通じる道で、昔は馬出が外に設けられていたようです。武田氏滅亡後は、梅翁曲輪へ続く橋だったようです。石垣になっているのは、武田氏滅亡後の改修です。

其の2〜城下編〜へ続く


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