情報は2020年2月現在
今回の「義綱城館訪問記」は岐阜県大垣市の「墨俣城」をお送りします。
墨俣城は長良川の近くにあり、道が難しいです。近づいたと思っても徒歩では行けても一般のお店の駐車場になったりと、気をつけましょう。写真の橋の前にくるとあとちょっと。この写真を左に車で30m行くと、
「さい川さくら公園駐車場」が、「墨俣一夜城」(大垣市墨俣歴史資料館)の駐車場となっていいます。
墨俣城は巨大な長良川のほとりにあります。そしてさらにもっと近くに
犀川と新犀川という2本の川があります。新犀川の洪水被害を防止するために作られ、この周辺は常に長良川や犀川の洪水被害に悩まされてきたようです。そこで城の前にある橋の側に、
犀川調整樋門などがあり、その門扉が展示されています。
では墨俣城へ参ります。
で…これが墨俣城…なわけないです。では墨俣一夜城の簡単な歴史を紹介します。
墨俣城の築城は、1560(永禄3)年に織田信長が美濃攻略のために墨俣に城を築くよう命令したことから始まります。最初は佐々成政、佐久間信盛らに築城を命じたものの、美濃侵攻の足かがりとなる築城を妨害するために、何度も攻撃され、されに地形的に増水の影響もあり、撤退を余儀なくされた。そこで今度は1566(永禄9)年再び墨俣に築城すべく、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じた。
藤吉郎は、土塁だけの城ではなく、速やかに馬柵や鹿垣を構え防御することで築城可能と判断し、蜂須賀小六や前野将右衛門兄弟、坪内党らの協力の下、2140人の手勢を用意し、斎藤の攻撃を防ぐ一方で築城の準備を進めた。
墨俣が川に近いことを利用し、木材を川から流し、それを墨俣で組み立て上げる、現代でいうプレハブ工法を実施することにより、馬柵を作り上げた。それ楯に斎藤軍の攻撃を耐え城を完成させたという。
従って完成した墨俣城はこんな感じであったという。
さらに資料館に模型もありました。
つまり、墨俣一夜城の現在の姿は、単なる現代における資料館なのです。ちなみに正式名称は「大垣市墨俣資料館」です。この模擬天守は、竹下内閣(当時)の「ふるさと創世事業」による1億円を元手に「地域住民の長年の夢であった一般的な城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)を建設しました。」とのこと。模擬天守(資料館)の完成は1991年(平成3)年で、当時は平成バブル終焉期でもあり、まだ中世的な城のイメージもあまり一般ではなかった頃。仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、残念ながら墨俣の本当の姿を現しているとは言い難い。
しかし、中の展示では先の写真にも使ったように、できるだけ史実から事実を探ろうとしている。
この馬柵は
このように表記されており、史実を意識したもの。この墨俣築城が単なる軍記物の記述だけではなく、一次史料から証明しようという試みもある。
古文書を使用して展示でも実物の墨俣城の築城方法を説明してあり、先に見られた墨俣城のCGの作成となっていると思われる。それだけにもっと中世的にしておけば…と悔やまれる。
しかも模擬天守を作った唯一の良い点は、眺望が良いことである。しかも
岐阜城(稲葉山城)も肉眼で見ることができる。美濃という国の位置関係を把握するにはとても都合がよい模擬天守かもしれない。
ここから岐阜城まで車で30分。ここに織田の城を築かれては、相当斎藤氏にとって嫌だったに違いないことが確認できた。
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