情報は2009年8月現在

武蔵国衙跡・武蔵国府跡
(東京都府中市)
武蔵国衙01

 江戸時代の史跡っていっぱい残っているので、中世以前の史跡をみたい。「東京で気軽に行ける距離で中世以前の史跡ないかな…」と思ってインターネットで検索していたら…ありました!今日は2008年に復元公開された東京都府中市の大国魂神社のすぐ近くにある「武蔵国衙跡」のご紹介。

 「府中市」の名前からもわかるとおり、府中市は武蔵国の中心となる「国庁」があったところである。「武蔵国衙跡」のパンフレットによると、「国庁」とは国司の中枢施設で現代で言うところの東京都なら「知事部局」。「国衙」とは国の役所郡で、現代なら東京都都庁舎。「国府」とは、国衙を含め役人の館や、兵舎、学校などを含む都市機能のことで、現代で言えば東京都の新宿副都心。ということで「武蔵国衙跡」は、武蔵国の役所であった場所である。

 一番上のの写真の「武蔵国衙跡」は国衙の中心的な建物の跡となる場所である。建物の場所は地面が灰色で平面展示されており、建物の柱が復元展示されている。建物の無い部分は普通の地面になっている。写真の地面をよくみると、建物の側溝が砂利で示されているのもわかる。
武蔵国衙02
 また、公道があるため柱などを再現することができなかったところは、下記写真のように公道に赤丸で示している。


武蔵国衙03
 「武蔵国衙跡」には、発掘調査の内容を展示する「遺構展示館」がある。柱がどのように発掘されたのか、よくわかるようになっている(展示館はクーラーが効いていないので暑かった…)。


武蔵国衙04
 展示館にはこのように、わかりやすいように柱の復元を説明してくれている。展示館には「武蔵国衙跡」のパンフレットが無料でもらえるけれども、こういった専門的説明はなぜか掲載されていないので、ぜひ展示館の説明を写真撮影しておくことをお勧めする。ふむふむ、掘立柱は奈良時代、礎石柱は平安時代かぁ。時代によって建物の建築もずいぶん違っていることがわかるなぁ。

 しかし、この「武蔵国衙跡」非常に小さい範囲の復元に留まっているが、その場所は府中市の中心部であり繁華街である。そういった意味で、これだけの復元施設を作ったというのは、やはり府中市の国府たる意気込みを感じる(と同時に府中市は東京競馬場などの利益で税金が豊かという事情もあるが)。また「武蔵国衙跡」はその発掘調査の内容から大型建物が整然と配備される様子がわかるなど奈良・平安時代の特徴をよく現すものであり、国の文化審議会が「国指定史跡」に指定する見通しを示した。今後の「武蔵国衙跡」の保存・整備が期待される。

武蔵国府01
武蔵国衙から徒歩10分。JR武蔵野線の府中本町駅から徒歩1分にある「武蔵国府」に2019(令和元)年に行ってきましたので、レポートします。国府とは、1300年前に国郡里の地方制度が出来た時にできた国の行政中心地。武蔵野国府はしっかりと発掘調査もされていて、国司館が発見された「国指定史跡」です。国府が置かれていた当時の大きさは、東西2.2km南北1.8kmにも広がる広大な土地だったようです。つまり先日レポートした「武蔵国衙」とは一体的な運用がされていました。

武蔵国府02
 こちらの国府は国司館が置かれ、現代で言う住居兼執務室である知事公館のような役割でした。発掘調査の結果、7世紀後半〜8世紀前半に造営されていたようです。国司館の模型が置かれて、イメージが想像できます。

武蔵国府03
 さらに当時の建物の「模型表示」が行われ、屋敷の形がコンクリートで固められた範囲で、柱穴跡が模型で表されています。これで柱の本数や大きさを体感できるので、その大きさを感じることができます。なかなか見応えがあります。

武蔵国府04
 これが「武蔵国府跡」の全体図です。すぐ横には、駅、大きな商業施設、マンションが建っているので、国司館跡が奇跡的に残っていることが感じられます。都市開発するときの発掘調査で発見されたのでしょうか。芝生広場ではサッカーをしている家族連れもいたので、近隣住民が憩いの場としても使っているようです。この看板には載っていませんが、資料館もあります。

武蔵国府05
 模型の後ろにあるプレハブです。公園の看板に書かれていないところを見ると、恒久の施設では無いようです。四方を道路や駅、大規模商業施設、マンションに囲まれており、遺跡公園を拡大させることは不可能に思えるのですが、どうして恒久施設ではなく、プレハブなのでしょうか?ひょっとするとボランティア団体による運営の資料館なのでしょうか?

武蔵国府06
 中には史跡の変遷を見られる資料があります。図録などは売っていませんが、復元CGを見られるVRゴーグルが無料で借りられました。内容はさほど多くないですが、往事を感じさせる工夫が随所にあるのが嬉しいです。

武蔵国府07
 発掘調査の中から17世紀前半の遺構が見つかり、徳川の家紋である三葉葵紋鬼瓦が発掘されたことにより、徳川家康の府中御殿も置かれていたと推定されました。ただし、掘立柱建物であり鷹狩りなどで使用する休憩室のような位置づけだったのかとも思われます。


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