情報は2024年8月現在
今回紹介するのは、福岡県太宰府市にある「水城跡」です。この水城は、天智天皇が665年に築かせた朝鮮式山城の大野城の守りを補完する防塁である。663年に起った「白村江の戦い」で朝鮮の旧・百済を助けて援軍を出し、唐・新羅連合軍に大敗したことをきっかけに、百済から亡命した技術者の指揮のもと築城したのが大野城で、「遠の朝廷」と言われる「大宰府」を守るためのものである。
九州は、中国や朝鮮からの入口に辺り、攻め込んでくるとすればまず狙われるのが福岡県。そこで、大野城を築き、山と山の間に水城を築いて大宰府を守ろうと考えた。「水城」という名称は『日本書紀』にも出てくると言う。
この水城跡にある施設は、水城東門跡にある「水城館」である。九州自動車道太宰府インターを降りるとすぐに水城が見つかり、車で5分ほどで到着。ここで水城について詳しく学べる施設である。
水城館の展示によると、水城は長さ1.2km、幅80m、高さ10mの土塁と内外に水を張っている濠からなる施設で、福岡平野の最も狭くなった場所を防ぐ設計がされている。土塁の版築作業が上記写真の左に見えるものであり、地盤が軟らかい箇所には生木の枝葉を敷き詰める「敷そだ」という工法が取られており、中国・朝鮮の古代土塁に類似例があることもあり、技術の系譜が見られると言う。結局は唐・新羅連合軍は日本に攻めてくることはなかったが、この水城は大宰府の正面入口として機能した。
現在でも上記の写真の緑の地域が示すようにしっかりと現存しており、国の指定特別史跡になっており、文化財となっている。
大宰府の水城の見どころは、東門跡に多く集まっている。ここには礎石跡がこの横にある。が、私は急いでいたのでその礎石を写真に収めるのを忘れてしまった。
上記イラストのように、水城でかなり強固な守りが固められていたようである。鎌倉時代の『平家物語』にも「水城の戸」と書かれており、大宰府の出入口と鎌倉時代以降も認識されていたようである。
大野城は今回訪問する時間がなかったが、次回くる時にはここも訪問したい。そのための拠点はやはりこの水城館である。
他にも水城関連の史跡としては、西門跡や土塁断面広場などもある。
次に水城の土塁の上に登ってみよう。水城館の上が「展望台」になっている。
展望台では休憩施設がある。
10mの高さがあるので見晴らしが良い。大宰府の防御施設として機能していた頃は、かなりの視認性があったと考えられる。上記写真億に見えている緑の部分が西門跡へと続く水城である。この道路で水城が途絶えているところは、道路開通のためにに水城を切ったのではなく、もともとあった東門跡を利用しているという。
水城の紹介はここで、終了です。この周辺の歴史スポットとしてはここから車で10分程の距離にある「大宰府政庁跡」と車で20分ほどの距離にある「太宰府天満宮」にはぜひ行っておきたいところです。
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