情報は2020年2月現在
「安土城郭資料館」「安土城天主 信長の館」を見学して十分事前学習を行ったので、いよいよ安土城へ行きます。
車で安土城とカーナビに入力して案内されたのがここ。総見寺が立てた看板により、ここからは入山出来ないとあり、ここから400m進んでくれとあります。
駐車場がありました。私が行ったのは平日だったので空いていましたが、駐車場は2つありどちらも無料でした。
駐車場近くに「城なび館」があります。看板によると「安土山に登る前に寄る」とありますが、VR安土城は「信長の館」で見てきたので、今回は先に城に行きます。
まだ受付の前ですが、ここからもう大手門の石垣があります。そして大手門にあたる綺麗な切石になっているこの階段にも意味があります。大手門の看板によると、石垣の部分は遺構として検出できたようですが、門の部分は後世の開墾などで遺構が失われたようです。そこで、安土桃山時代にはなかった花崗岩の切石でこの部分を作ることで「築城時の遺構と区別」しているそうです。単に安全上のために作ったものではないことに整備者の心意気を感じます。
大手門から西に行くと虎口がありました。ここにも石垣が使われています。写真の左の石垣の上に小さな別の石垣がありますが、それは下記説明看板によると、
江戸時代に畑地として使われていた時に作られた石垣だそうで、安土桃山時代のものと比較するためにあえて残したそうです。本当に整備者の心意気を感じます。
西側虎口の上段には大きな礎石建物があったようです。
その西側にはかまどがあったようですが、何度も作り直され、どうやら築城中の大工に食を提供するかまどだったと結論づけられています。
それではやっと受付です。入山料700円を支払っていよいよ安土城の中へ。
安土城と言えばやはりこの大手道の階段。復元によって整備された大手道。「安土城天主 信長の館」で見た「絢爛 安土城」というVRを見ると、この大手道は普通の人は通れず、迎えるはずだった天皇や上客のみが通されたそうです。その普通の人では歩けなかった通路を、現代の一般人が通る感覚。はやりこれが歴史の醍醐味ですね。
大手道の横には大きな排水路が…。安土城は大規模だけに排水を考えないと大雨に対応できません。ここも築城者の計算が見て取れます。
受付入ってすぐ右方向。この辺りが「伝前田利家邸跡」です。
かなりの広さを持っています。
三段の石垣になっているのは、やはり石垣生成技術の未熟な時期だからでしょう。三段の石垣というと七尾城と同じですね。となると七尾城の石垣が「前田利家が作ったもの」と言われる理由もわかる気がします。
さて前田利家邸の階段にある木柵。注目して欲しいのは木柵ではなく木柵の下部にある横につながる木枠。
これは木樋だそうです。「木樋(もくひ)」とは木の水道管で、これは前田利家邸の洗い場の排水のためと考えられるそうです。木樋と言えば、江戸時代の江戸の上水道。その技術がもうここにも。かなりの技術者が集められている安土城は本当にすごい。
受付から左側にあるのが伝羽柴秀吉邸の曲輪です。写真で見ると石垣が段々になっており、土地がかなり狭いような印象を受けますが、
看板をみると、かなりの広い土地であることがわかります。しかも上下2段に渡る土地がすべで羽柴秀吉邸となっており、安土城の中でもかなりの地位を持っていたことがわかります。
下段には、大きな櫓門とその先に厠が、階段を登るとメインとなる主殿の他に台所と櫓があるという巨大な曲輪です。
下段の廁とその境に、写真のように区画が整理されている箇所があります。この所には塀が設けられて区画が分かれていたと思われます。七尾城にも似たような区画が箇所があります。ますます七尾城と安土城が似ていると思ってしまう。
ここが上段の羽柴邸ですが…
これだけ大きな主殿があったようです。普通の城ならこれが主人の主殿の規模です。
この2段に分かれている曲輪が家臣の邸などとはさすが織田信長が築いた安土城だ…。
羽柴秀吉邸を出て大手道に戻ると、道が大きく左へカーブしています。そのカーブ手前にある曲輪が、
現在の「総見寺の仮本堂」です。お寺の鐘もあります。仮本堂は江戸時代からあるようなので、このあたりは発掘調査は行われていないようです。
大手道がカーブする手前の進行方向左側にあるこの場所は「伝徳川家康邸」と呼ばれる。発掘調査はされていないもよう。しかし、安土城の歴史によると、1854(嘉永7)年に総見寺が火災で焼失すると「伝徳川家康邸」に再建されたとありますが、こちらには何もありません。徳川家康邸は、大手道を挟んで2箇所だったのでしょうかね?
大手道は「伝徳川家康邸」から曲がりくねっている。これは防戦上の理由であろうが、曲がりくねった上に曲輪がないのがなぜだろう。もしや防戦上の理由ではない?
大手道には頻繁に「大手道の石仏」という表示がある。説明板には築城に要した石は周辺の山から採取したものに加え、墓石や石仏も集められた。本来は信仰の対象ではあるが、築城の経緯からあちこちに「石仏」の表示と共に展示されている。安土城の築城が急がされたのと、信長がそういう仏罰を気にしなかったということがわかる。
大手道の階段には、写真のようにブロックが置かれているところがある。階段の高さがマチマチで歩きにくいことを解消するためである。階段の大きさがマチマチなのは、防戦上敵が侵入しにくいように設計していると言われる。
曲がりくねった大手道は「伝織田信忠邸」に続いている。その信忠邸の少し手前の進行方向左側にあるのが「伝武井夕庵邸」。発掘調査はされていないよう。武井夕庵とは、元々は美濃斎藤氏に使えていた茶人。その後信長に仕え右筆となり、武田や毛利との外交を主導していたようだ。
曲がりくねった大手道の行き着く先の「伝織田信忠邸」。織田信忠は本能寺の変の直後に安土城を攻められて亡くなった織田信長の嫡男。写真を見ると通路の一段上に石垣が組まれており、塀があったと思います。
ここから北に行くと主郭。西に行くと当時の総見寺のあった場所へ行く要所。写真は主郭方面です。
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