能登畠山氏七尾の歴史
2周年記念特別企画 第2弾
−当サイトの変遷 語り部編−

さて、特別企画第2弾はサイトの変遷を義綱が語ります。
義綱のHP更新に対する意欲などを感じていただければ幸いです。
本サイトの名前誕生秘話
 このサイトの名前由来は、実は検索を有利にする為だったのである。というのも、HPを立ち上げようとしていた頃、まだ私はPCのおもいっきり初心者で、どこのサイトを探すにもYahoo Japanを利用していた。そこで考えたのが、「サイトのタイトルにキーワードをつける」という事だった。このサイトの名前「能登畠山氏七尾の歴史」は「能登」「畠山」「七尾」「歴史」をキーワードに検索した人に引っかかってもらうようつけたのである。しかし、他の歴史系HPでこのような「なが〜い」名前は見かけないので、もうちょっとカッコイイ名前に変更しようと思った事も何度かある。そして、一番名前変更に現実味を帯びたのがサーバー変更による引越しの時であった。
 この時ばかりは、真剣に名前変更に悩み、新しい名前の案まで考えていた。しかし、名前の変更は結局見送った。それは、里見殿、野暮殿、尼子殿にせっかく作っていただいたバナーを名前変更によって破棄してしまうのが嫌だったからである。このような理由から、今後もずっとこの「能登畠山氏七尾の歴史」という名前でいきたいと私は思っている。
サイト初期「背景色 紫から白へ」
 当初、紫を背景にした理由が、管理人の好きな色であったこと。(ビジュアル編の復元部分にも書いてあるとおり)目に優しい寒色系にしたかったという事だった。あまり背景を明るくすると目が疲れて長時間見てもらえないのではないかと考えたのだ。この初期のタイプは、 宮野州様の「坂東東方の衆」に近いものがあり、私も宮野州様のサイトを見たとき非常に懐かしいという感情とともに親近感も覚えた程当時の記憶は色あせていない。(たった2年前のことではあるが、私にとってHP作成と言うのは大きな出来事であったのだ。)
 HP開設当初は、HPの基本機能であるテーブル機能などの知識もなく、読みづらいと遊佐きむち氏にお叱りを受けたものだった。 なお、現在でもうちのサイトの基本である「番号つきリスト」も遊佐氏の御指導によるものである。
サイト中期前編「コンテンツの拡大再生産」
 背景が白くなってから、コンテンツの数は増す一方。合戦記録と人物特集の充実が当面の目標だったが、完成し次に取り組んだのが、 「七尾はいま?」「ゲーム特集」と様々な「不定期特集」のコンテンツだった。この頃はかなり更新意欲に燃えており、学校のパソコン室に授業が終わった夕方から終了時までほとんど毎日いる日々が続いた。そう、当時の私はパソコンを所有しておらず、大学のパソコンを使用してHPを運営していたのだ。(だから、休日や長期休暇の更新、夜のチャットが出来なかったのである。)HP更新、HPのリンク依頼、 個人的メールやりとり、歴史系の質問メールなど合わせると、パソコン室に毎日4時間いても足りないほどであった。さぞ大学のパソコン室の 職員には迷惑だったことであろう。
 1999年9月上旬。能登畠山研究の同志である遊佐きむち氏と能登へフィールドワークに行く。七尾城を徒歩で登ったり、穴水城・ 松波城へ行き、七尾市立図書館や七尾市内の書店で大量の資料を購入した。この頃一旦減退していた更新意欲が再び湧いてきた事は言うまで もない。
サイト中期後編「自分のパソコン購入」
 1999年9月下旬。更新意欲全開で、学校のパソコン室で更新する事が耐えきれなくなった私は、ついにパソコンを購入。 テレホにも加入し晴れて念願のチャットが出来る様になった。自宅でコンテンツ作成が出来る為、コンテンツ作成も進む進む。 チャット解禁からチャットメインのサイト「北陸歴史ねっと」を開設したのは、この1999年9月である。そして、なんといっても この頃一番更新意欲を傾けたのが、「義綱奮戦記−混乱の能登−」(オリジナル小説)だった。 能登畠山氏家の歴史を調べているうちに、自分で義綱を主人公とした小説を書きたくなった。書く上の苦労話は 同小説の「あとがき」に書いたので省くが、書き始めるきっかけは『剣豪将軍』という足利義輝を 主人公にした時代小説を読んだ事であることをここに記す。で、めでたく同小説は完成したが、番外編の 「義慶奮戦記」が遅々として進まないのはあの頃と今の意欲の差である。
「能登畠山以外への興味」
 それまで、能登畠山家のコンテンツ作成に追われていたのが、どんどん完成されていくと私の興味も広がっていった。 まず人物列伝の大量更新である。人物列伝は 比較的初期の頃からあったコンテンツであるが、源実朝 小栗忠順松平容保の3人をアップして以来、ほとんど手をつけていなかった。 しかし、この頃人物列伝のデザイン変更とともに、いっきに7人を追加した。 その中でも最も力を入れたのが上杉定実であった。それから能登のお隣加賀冨樫氏にも興味をもち、 自分自身の考えをまとめるつもりで2000年4月26日に「加賀冨樫氏分館」を開設した。興味は歴史以外にも飛び火し、もともと興味の あった経済分野・鉄道・ゲームを柱にHPを作ろうと2000年7月4日に管理者個人サイト「ぱすてるの〜と」を公開。同サイトに日記を 移動させ、歴史関係とそれ以外とのコンテンツを完全に分離した。最近では河内畠山氏に興味を示し、論文を大量に集めた。 同じ畠山である為、能登畠山家の参考になる部分も多くあり、能登畠山のコンテンツに活きた。これは、くらのすけ様がおっしゃった 「他の論文にあたってみては?」とのアドバイスのおかげであった。
「この2年間で得たもの」
 私1人で能登畠山家を調べるのには限界があった。私はすでにサイト公開初期にも「もう資料が無い」などとぬかしていたのである。 しかし、遊佐きむち氏を初め戦武堂様、くらのすけ様、林光明様などの方々に私の知らない知識や多くの資料を教えていただき、 私はここまで知識を深める事が出来た。それとともに、皆様の数多くのHPから色々な事を知り勉強し、色々な管理者様とお話をする 機会があった。こういった機会が勉強やコンテンツ作成の励みや参考になり貴重な経験をさせていただいた。
 思えば私をHP作成に突き動かした訳はなんであったか。それは、自分の知識を整理しより深める為と、 マイナーな能登畠山氏を皆様に知っていただきたいとの思いであったと思う。その願いは私だけでなく、 私のHPに関わって頂いた多くの方々のおかげによって叶ったことに、誠に感謝の意を表すばかりである。
当サイトはこれからもマイナー道を突っ走ります(爆)!!
これからもよろしくお願い致します!

平成十ニ年十一月十ニ日
畠山匠作源義綱(花押)


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