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人物列伝
「四條 隆資」

人物名 四條 隆資(しじょう たかすけ)
生没年 1292〜1352
所属 南北朝時代の南朝方公卿
人物の歴史(四條隆資と一族の軌跡)
一.緒 論
 四條隆資〔一二九三〜一三五二〕は、後醍醐天皇〔一二八八〜一三三九〕即位の時より天皇に近侍し、北条氏討伐の際は大塔宮護良親王〔一三〇八〜三五〕と共にゲリラ戦を展開、建武新政の設立に尽力した屈指の武闘派公卿である。南北朝分裂後は北畠親房〔一二九三〜一三五四〕と並んで、後醍醐・後村上〔一三二八〜六八〕両天皇を輔佐し南朝の重鎮として活躍したが、正平七年・観応三年〔一三五二〕五月、男山八幡において足利義詮〔一三三〇〜六七〕率いる幕府軍と交戦、討ち死にした。
 南朝設立後、北畠親房が比較的日本各地で幕府勢力と戦闘を繰り返していたのに対し、この四條隆資はもっぱら常に天皇に近侍し、南朝の軍監として直接幕府と戦っていたことからも、朝廷内における役割は非常に大きいものと言わざるを得ない。
 しかしこれほどの行動力と実績がありながら、南朝史においては北畠親房の事蹟のみ著名で、一方隆資の事蹟についてはほとんど表に出ることが無い。また隆資には六人の子があったが、そのうち早世した一人を除き、全員父と行動を共にし、一族全て殉じている驚くべき実績があるにも関わらず、これらの人々の事蹟もまた明らかにされていない。
史料が極めて寡少なため、その実績を明瞭にすることは困難であるが、この四條隆資とその子息らを中心として南朝及び周辺史実をひもといてみようと思う。

四條隆資
一二九二〜一三五二(正応五〜正平七・文和元)
 南北朝時代の南朝方公卿。父は左中将四條隆実。父が早世したため祖父の善勝寺隆顕に養育され猶子となる。因幡守・蔵人頭・加賀権守・左兵衛守等を歴任、元徳二年(一三三〇)、権中納言となり、検非違使別当となる。 正中の変では日野資朝らとともに倒幕に参画、また元弘の変にも加わり、後醍醐天皇とともに笠置山に潜んだ。笠置陥落後は行方をくらますが、ことがおさまると京都に戻り、建武の新政では雑訴決断所、恩賞方、武者所の構成員となる。南北朝の分裂後は吉野へ赴き、後醍醐天皇が崩御したのち、北畠親房・洞院実世らと幼主後村上天皇を補佐して政務を執る。正平三年・貞和四年(一三四八)、飯盛山に陣して戦うが、高師直が四條畷で楠木政行を破り、吉野へ進攻するに及び、天皇を奉じて大和国賀名生に避ける。正平六年・観応二年(一三五一)、南朝で従一位に叙せられ大納言となる。翌正平七年・観応三年〔一三五二〕五月一二日、足利義詮と男山八幡で戦い、敗死する。六十一歳。その子の隆貞・隆俊・有資らも南朝方として倒れる。『新葉和歌集』に和歌九首がある。
  『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社)
 
二.後醍醐親政と隆資
 隆資は、四條隆実を実父に持つが、隆実早世のため祖父隆顕〔一二四三〜?〕の養子となって四條家を継承したとされている。
 その後、文保二年〔一三一八〕一月五日、尊治親王〔後醍醐天皇〕の「春宮当年御給」により正五位下となり、次いで従四位下・右少将となっている。この文保二年は二月二十六日に後醍醐天皇が即位した年であり、従って隆資は天皇の東宮の頃より侍従として仕え、践祚とともに右少将に任ぜられたのであって、早くより天皇に親近していたことが判る。その後も深い信任を受け、元応二年〔一三二〇〕従四位上・右中将に任じられている。
 このような後醍醐天皇との関係からみると、隆資が日野資朝〔一二九〇〜一三三二〕・俊基〔?〜一三三二〕等とともに、無礼講の中心人物であり、非常に早い時期から北条氏討伐の中心人物として活動するのは当然の成り行きであると言える。しかし世に言う正中の変は、正中元年〔一三二四〕九月、企てが幕府方に漏れ頓挫した。この時は日野資朝が責を一身に引受けて大事に至らなかったことは周知の通りである。
 その後隆資は、正四位・蔵人頭に任じられ、さらに、嘉暦二年〔一三二七〕には参議に、明くる嘉暦三年〔一三二八〕には従三位・兼大蔵卿、兼加賀権守、兼左兵衛督と脅威の抜擢を受ける。元徳二年〔一三三〇〕には正三位・検非違使別当に補せられ、また右衛門督に遷任されたが、これはこの年起きた米価高騰の収拾を天皇が隆資に当らせたものであって、天皇の信任の厚さが伺える。天皇はこの年、隆資に対し米価統制について宣旨を下し〔『東寺執行日記』〕、彼もまたこの大任に応え、同年権中納言となって天下政事を請け負うに至った。
 一方でこの元徳二年〔一三三〇〕という年は正中の変後七年目で、討幕の機が再び熟して来た時期であり、先に侍従として天皇に侍して倒幕に参画した隆資は、必然的に積極的な計画遂行に努めることとなった。この年の南都行幸、比叡山行幸は南都北嶺の僧兵を手なずけるために行われたものであるが、この両度の行幸に隆資も供奉している〔『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』『太平記』〕。
 しかし、元弘元年〔一三三一〕、八月に倒幕挙兵の宣旨を発するこの企ては天皇側近の吉田定房〔一二七四〜一三三八〕の密告により再度幕府の探知するところとなり、六波羅は直ちに日野俊基ら中心人物を捕縛、天皇は南都に落ちるに至った。このとき隆資は子息の隆量とともに、側近の万里小路藤房〔一二九五〜?〕・北畠具行〔一二九〇〜一三三二〕・千種忠顕〔?〜一三三六〕等と供奉している。
 ところが南都はこのとき幕府方へ寝返ったため、天皇はやむなく笠置の城に入った。ここで一ヶ月ほど幕府の攻撃を凌いだが、九月二十九日、遂に城が陥落、赤坂城に赴こうとしたところを幕府軍に捕えられた。十月十日、天皇一行は六波羅へ連行され、隆量・花山院師賢〔一三〇一〜三二〕・藤房・具行・忠顕等もそれぞれ幽閉されたが、隆資はこのとき赤坂城にあって捕縛を免れている。彼は大塔宮護良親王と共に赤坂城で天皇を迎える準備をしており、図らずもこのことによって虎口を脱したのである。
 翌元弘二年〔一三三二〕三月、天皇は隠岐に配流され、北畠具行・日野俊基等は正中の変で流されていた日野資朝とともに斬られた。ここに元弘の変も失敗に終わったのである。隆資の子、四條隆量のその後の消息は明らかでない。恐らく彼らと同じく幕府に殺されたのであろう。こうした中、幕府は何としても隆資を捕縛しようと捜索の手を広げたのではあるが、隆資の討幕活動はこの幕府の厳重な捜索網をくぐって続けられた。
 その後、元弘二年〔一三三二〕の後醍醐天皇の隠岐配流から元弘三年〔一三三三〕夏に至る一年有余の間、官軍の中心は大塔宮護良親王、千早城に籠もる楠木正成〔?〜一三三六〕等に移った。特に大塔宮は四方に令旨を発して官軍を糾合指揮したのであるが、このとき宮に供奉して令旨を発したのは隆資の子、四條隆貞である。隆貞は大塔宮の侍従であり、令旨の発行はもっぱらこの隆貞の名において行われていた。北条氏滅亡に至るまでに隆貞の奉じて出された令旨は相当数存在し、大塔宮の活動は、多く隆貞の名の下に行われていたのである。そしてこの隆貞の陰には父隆資の輔佐の存在が考えられるのは想像に難くない〔『楠木合戦注文』『史徴墨宝考証』〕。
 こうした情勢の中、元弘三年〔一三三三〕五月九日、討伐軍として上洛していた足利高氏〔一三〇五〜五八〕の挙兵により六波羅が陥落、次いで上野において新田義貞〔一三〇一〜三八〕が挙兵、五月二十二日に鎌倉を落としここに北条氏が滅んだ。六月十三日、護良親王は京に凱旋し、この時付き従ったのは赤松則村〔円心〕〔一二七七〜一三五〇〕、親王の執事殿法印良忠、そして四條隆資・隆貞父子である。この時の隆資の姿は『増鏡』に詳しい。
 四條中納言隆資といふも、かしらおろしたりし、又髪おほしぬ、もとよりちりをいづるにはあらず、かたきのために身をかくさんとて、かりそめにそりしばかりなれば、今はたさらにまゆをひらく時になりて、おとこになれらむ、なにのはヾかりかあらむとぞ、おなじ心なるどちいひあはせける、天台座主にていませし法親王だにかくおはしませば、まいてとぞ、たれにかありけん、その比聞し、

 すみぞめの色をもかへつつき草の うつればかはる花のころもに

 この記述から、隆資が剃髪し敵の目をくらましていたことが伺える。恐らく護良親王と同じく、寺院に潜入しては兵力の糾合に当っていたのであろう。そして建武新政とともに還俗し、再び出仕するに至ったのである〔『公卿補任』〕。ちなみに、『増鏡』は、この隆資の様子を記して全巻を結んでいる。

三.建武新政と足利尊氏の謀叛
 倒幕が成り建武新政が始まると同時に、隆資は権中納言として新政の事業に参与することになった。
建武元年〔一三三四〕隆資は従二位に叙せられ、十月には修理大夫に任じられた。修理大夫は皇居造営を当る役所の長官であることから、後醍醐天皇が命じた大内裏の造営を企図したことは明らかである。その他にも隆資は新政の数々の枢機にも参与している。
・ 建武元年五月、恩賞方四番の筆頭を命ぜられ、南海道西海道を司る。
・ 建武元年八月発された『雑訴決断所結番交名』に八番・西海道の係として就任。
・ 建武二年三月、伝奏結番の二番に就任。
 さて、北条氏討伐に際し大塔宮を扶けて目ざましい功績があった隆貞は、新政後も引き続き親王に仕え、幾つかの奉書を発行した記録が残されているがその後の消息は全く見えない。大塔宮は足利尊氏の野心を看破し、しばしばその討伐を謀ったものの逆に尊氏の謀略にかかり、建武元年十二月に逮捕され、足利直義〔一三〇六〜五二〕がいる鎌倉に流された。それと共に、親王祗候の人々も多く捕えられて誅されていることから、親王に最も親近に仕えた一人の隆貞はこの際殺されたのであろう。親王もまた建武二年〔一三三五〕七月に起きた中先代の乱の混乱の中で叛逆された。
 建武二年〔一三三五〕十一月、隆資は前年辞していた権中納言に還任し修理大夫を辞した。足利尊氏の謀叛により、大内裏造営を中断し足利氏討伐に赴くためである。さらに延元元・建武三年〔一三三六〕には正二位に叙せられ、衛門督を兼ねて宮中の警衛にあたっている。
中先代の乱の鎮圧以降鎌倉より動こうとしなかった尊氏は新田義貞〔一三〇一〜三八〕の追討軍を迎えるに至ってついに後醍醐天皇と決別、建武二年〔一三三五〕十二月一月、鎌倉より攻上り京を攻略、天皇は比叡山に逃れた。しかしその後、奥羽より攻め上って来た北畠顕家〔一三一八〜三八〕の軍に敗れ、翌建武三年〔一三三六〕二月、尊氏は九州に没落、朝廷は再び京を回復し、三月、新田義貞は足利軍を追って山陽道を下り播摩の白旗城に赤松則村を囲んだ。しかし赤松則村は頑強に抵抗、新田軍の攻撃にも容易に陥ちず、逆に九州を制圧した尊氏が東上したため、義貞は五月、兵を率いて兵庫に退却した。
建武三年〔一三三六〕五月二十五日、湊川合戦に宮方は大敗し、楠木正成は戦死、新田義貞も総崩れとなり退却、後醍醐天皇は再び比叡山へ逃れた。隆資はこれに供奉し、六月十三日、五百余騎の軍兵を率いて八幡に陣を取り合戦に及んでいる〔『太平記』〕。
同年十月十日、尊氏との和議に応じた後醍醐天皇は京に還幸したが、十二月、突如として京を脱して吉野に赴きここに北朝に対抗する朝廷を開いた。延元元年・建武三年〔一三三六〕、南北朝の始まりである。その際、北朝においては南朝方の公卿の官職をことごとく解いたが、当然、隆資もその一人に含まれている。
 しかし隆資はこれより三ヶ月余り早く比叡山を出て河内・和泉に活動しており、天皇を吉野に迎えるために様々な手段を講じ、吉野行幸に際し改めて廷臣中の柱石として輔佐することとなった。後醍醐天皇の重臣には他に北畠親房がいるのではあるが、親房はその後延元二年・建武四年〔一三三七〕伊勢、後に常陸へ下っているので、吉野における隆資の存在は最も重要なものとなったのである。

四.後村上天皇と隆資
 隆資が南朝の柱石として一段とその重大な任を負荷されたのは、後村上天皇の時代に入ってからであった。
これより先の延元三・暦応元年〔一三三八〕五月、北畠顕家が再び奥州の軍を率いて西上、畿内を転戦したが足利軍の高師直〔?〜一三五一〕・師泰〔?〜一三五一〕軍に敗れ堺の石津で戦死した。享年二十一歳。また同年閏七月には、新田義貞が越前藤島の灯明寺畷で戦死。この顕家・義貞の戦死は南朝にとって計り知れない打撃となり、これ以降南朝は足利軍と互角に渡り合える軍事力を失ったのである。しかしこれは南朝内の軍政のあり方に問題があった。
 隆資はこのころ、後醍醐天皇の軍政のあり方を厳しく批判している。即ち朝廷が第一線の大将を無視し、行在所に伺候する者であれば誰でも領地安堵を約し軍事の指示を直接出しているやり方では在地の土豪は誰も大将には従わないと言うことを指摘したのである。遠い吉野から在地の作戦を指揮できる訳はない。この後、吉野朝廷は九州における懐良親王による軍事裁量権を全て委ねるようになる。
しかしこの延元三・暦応元年八月、尊氏は征夷大将軍に任じられ、ここに足利幕府が成立、北朝の勢力は日増しに強まっていった。
 延元四年・暦応二年〔一三三九〕八月十六日、後醍醐天皇が五十二年で崩御した。後を受けて皇位についた後村上天皇はこの時わずか十二歳。このため北畠親房が政務をとり、洞院実世〔一三〇九〜五八〕・四條隆資の両人が諸事を実務したのではあるが、北畠親房はこのとき遙か常陸にある身なので、吉野で天皇を輔佐する任はもっぱら隆資・実世の二人にかかり、特に軍陣の統率についても経験が深い隆資は、吉野より発せられる指揮統帥権に最も重大な役割を担うこととなった。
 これより先の延元三年・暦応元年〔一三三八〕九月、懐良親王〔?〜一三八三〕が征西将軍宮に任じられ、五條頼元〔一二九〇〜一三六七〕輔佐の下に九州に海路出発した。伊予には、この頃宮方の中心として活動している隆資の子・左少将有資が国司として在任していたので、これを頼ってまず伊予に赴き、ここで阿蘇惟時〔?〜一三五三〕の軍と連絡して肥後に入ろうとしたのである。
有資は四国南軍の大将として懐良親王を迎え、よく軍勢を率いて九州渡海の準備に尽力していた。ところが、頼みの阿蘇惟時が去就を明確にせず迎えの軍船を派遣しない事態が起きたため、ここにきて九州渡海の予定が狂ってしまう。このため懐良親王は興国三年・康永元年〔一三四二〕春までを伊予で過ごし、後醍醐天皇崩御の報もこの地において受けている。
 この四国遠征軍に合力すべく下向したのが、新田義貞の実弟・脇屋義助〔一三〇六〜一三四二〕であった。義助は隆資の斡旋に基づき、四国の大将として伊予に下向したのであるが、この義助と隆資との間に次のようなエピソードが『太平記』に残されている。
 興国二年・暦応四年〔一三四一〕、義助が越前・美濃の戦に敗れて吉野に参内したとき、朝廷がその多年の辛苦に対し官位を進めると、洞院実世がこのことを富士川の合戦に敗れて帰った平維盛を引き合いに出して義助を誹謗したことがあった。これに対し隆資は義助を弁護し、実世への反論を言上している。

今度ノ儀、叡慮ノ赴處、其理ニ当ルカトコソ存候ヘ、其故ハ義助北国ノ軍ニ利ヲ失ヒ候シ事ハ全ク彼ガ戦ノ拙ニ非ズ、只聖運時イマダ到ラズ、又勅栽ノ将ノ威ヲ軽クセラレシニ依テナリ、高才ニ対シテ加様ノ事ヲ申セバ、管ヲ以テ天ヲ窺ヒ、道ニ聴テ塗ニ説風情ニテ候へ共、只其一端ヲ申ベシ、昔周ノ末戦国ノ時ニ当テ……〔中略〕古ヨリ今ニ至ルマデ将ヲ重ンズル事如此ニテコソ敵ヲ亡ボシ、国ヲ治ル道ハ候事ナレ、去程ニ此間北国ノ有様ヲ伝承ルニ、大将ノ挙状ヲ帯セズ共、士卒直ニ訴ル事アレバ軈テ勅栽ヲ下サル、僅ニ山中伺候ノ労ヲ以テ軍用ヲ支へラル、北国ノ所領共ヲ望ム人アレバ事問ズシテ聖断ヲナサル、是ニ依テ大将威軽ク、士卒心恣シテ義助遂ニ百戦ノ利ヲ失ヘリ、是全ク戦ノ罪ニ非ズ、只上ノ御沙汰ノ違フ處ニ出タリ、君忝モ是ヲ思召知ルニ依テ今其賞ヲ重ンゼラルゝ者ナリ、秦将孟明視、西乞術、白乙丙、鄭国ノ軍ニ打負テ帰タリシヲ、秦穆公素服郊迎シテ、我百里奚、蹇叔ガ言ヲ用ズシテ、辱シメラレタリ、三子ハ何ノ罪カアル、其心ヲ専シ懈ルコトナカレト云テ、三人ノ官禄ヲ復セシニテ候ハズヤ、何ゾ古ノ維盛ヲ入道 相国賞セシニ同カランヤ、

 これにはさしもの実世も退出したとされ、南朝において洞院実世が官僚的文臣派であったのに対し、隆資は武臣派として武家を理解できうる立場を持っていたことをよく示している。
 興国三年・康永元年〔一三四二〕、義助の四国下向により有資以下の南軍がこれと合流し力を得たことから南軍の四国制圧は目前に迫った。ところが義助は四国制圧を進めようとした矢先急死、その死を隠して南軍は鞆の津で幕府軍と戦ったが、相手が屈指の戦上手である細川頼春〔?〜一三五二〕であった不運も重なり敗退した〔『太平記』〕。その後の有資の消息は明らかでない。

五.賀名生遷幸
 さて、東国にあって宮方の勢力を募っていた北畠親房であったが、興国四年・康永二年〔一三四三〕になると関東の情勢は南朝にとって悪化の一途を辿り、十一月、関城陥落を受けて親房は関東を放棄、常陸から吉野に戻った。これより隆資とともに後村上天皇を補佐する体制が固まる。
その隆資は、興国六年・康永四年〔一三四五〕十一月、阿蘇惟時に軍勢催促状を発しているが、これは興国元年・暦応三年(一三四〇)十二月、結城親朝〔?〜一三四七〕に発した状と東西対をなしており、また多年の戦いに南朝では兵糧にも難儀するに至っており、正平二年・貞和三年〔一三四七〕には隆資署名で観心寺に塩穴庄を寄進した記録が残され、この塩穴庄が他に奪われると、代わりとして濃州西郡庄を宛て行なうなど〔『観心寺文書』〕その帷幄下における苦心をよく現している。 
 一方、この正平二年・貞和三年は、南朝軍がようやく反転攻勢の情勢となりつつあった時期でもある。ことに畿内においては、楠木正行〔?〜一三四八〕が大将として八月紀州の隅田城を攻撃、九月には八尾・藤井寺に細川顕氏〔?〜一三五二〕の軍を破り、十一月、山名時氏〔一三〇三〜七一〕を住吉に、次いで再び細川顕氏を天王寺に破り、状況は極めて優勢となった。これを見た幕府軍は十二月、高師直・師泰が大将となり大軍を率いて南朝軍に当たらせた。
 十二月二十七日、正行は吉野行宮に参内、最後の別れを言上した場面は『太平記』に見えて名高い。その伝奏をしたのが隆資である。隆資はこのとき正行の忠烈に心を打たれ、未だ奏しない前から直衣の袖を濡らしたと記されている。この幕府軍の来襲に際し、正行は四條畷に出て決戦を挑み、北畠親房は藤井寺に和泉の軍を、隆資は飯盛山に河内の軍を配して奮戦した。
 しかし精強な高師直・師泰軍の敵ではなく、明くる正平三年・貞和四年〔一三四八〕一月五日、正行は四條畷で戦死、親房・隆資は吉野へ退却した。ところが幕府軍は追撃の手を緩めず、やがて吉野まで攻め寄せ行宮を始め堂宇ことごとく焼き払い、後村上天皇一行は賀名生へ逃れた。このとき隆資は賀名生遷幸を奏請している〔『太平記』〕。

武蔵守師直ハ三万余騎ノ勢ヲ率シテ、同十四日平田ヲ立テ吉野ノ麓へ推寄ル、其勢已ニ吉野郡ニ近ヅキヌト聞ヘケレバ、四條中納言隆資卿急ギ黒木御所ニ参テ、昨日正行已ニ討レ候、又明日師直、皇居ヘ来襲仕ル由聞へ候、当山要害ノ便希ニシテ防ベキ兵更ニ候ハズ、今夜急ギ天河ノ奥賀名生ノ辺へ御忍候ベシト申テ、三種ノ神器ヲ内侍典侍ニ取出サセ、寮御馬ヲ庭前ニ引立タレバ、主上ハ万ヅ思召分タルル方ナク、夢路ヲタドル心地シテ、黒木御所ヲ立出サセ 給……

 こうして、後村上天皇は十年に渡る吉野行宮を去り、賀名生に赴いたのである。これより正平十年・文和四年〔一三五五〕に至る七年の間、後村上天皇はこの山深い賀名生の地で過ごした。
 正平五年・観応元年〔一三五〇〕、隆資は大納言に除せられた。このころ九州では懐良親王が肥後菊池に逗留し菊池武光〔一三一九〜七三〕等と共に九州を席巻、一大勢力を築き始めていた時期であり、隆資は懐良親王と頻繁に連絡を通じている。これらは懐良親王に供奉している中院義定〔生没年不詳〕への書状に、九州将士恩賞等のことを阿蘇惟澄〔?〜一三六四〕に伝えた件、また阿蘇惟時から上洛の条件を所望した内容を受けた義定が北畠親房並びに四條隆資に注進する旨を惟時に報じた件があり、隆資が北畠親房と並んで南朝の柱石と仰がれていることがよく示されている〔『阿蘇文書』〕。この正平五年・観応元年〔一三五〇〕十一月、惟時は南軍に馳参し懐良親王を奉じて活動している。
 正平六年・観応二年、隆資は従一位に叙され、同時に子の隆俊が中納言に叙せられ四條家を継いだ。隆資はこの後、北畠親房とともに元老として天皇を支えていく。

六.隆資の戦死
 一方、幕府では観応の擾乱と呼ばれる尊氏・直義の争いが生じていた。直義はこの年十二月九日、南朝に降るのであるが、このときの書状は隆資を通じて南朝へ送られている。〔『太平記』〕。
 直義が降ったことで南朝方は勢いを増し、正平六年・観応二年〔一三五一〕二月、尊氏はこれを迎え撃ったが敗北、直義と和睦し高師直・師泰兄弟は誅殺された。しかし和議はすぐに破れ、直義は京を出奔、八月鎌倉に下った。十月、尊氏は直義追討のため南朝へ降伏する。その後尊氏は直義軍を追討しこれを破り、翌正平七年・文和元年〔一三五二〕一月、鎌倉に入ってついに直義を毒殺した。
 一方南朝は尊氏降伏を機として京を回復しようとし、二月、後村上天皇は賀名生行宮を出発し男山八幡に進出、続いて南朝軍は京に攻め入った。京を守っていた義詮は近江に逃れ、代わりに南朝軍が入京した。南朝は延元元年〔一三三六〕以来、十七年振りに京を回復したのである〔正平の一統〕。
 しかし近江に走った義詮は軍勢を立て直し、同年三月、男山八幡に迫った。これより五月に至るまで相対峙して合戦が続けられたが、戦局は南朝軍にとって日に日に悪くなり、ついに五月十一日夜、後村上天皇は山を降りて大和に向かった。このときの幕府軍の追撃は激しく、隆資以下多くの公卿がこれを防ぐべく取って返し、奮戦激闘の末ついに倒れたのである。討死した者は三百余人に及び、その中には四條大納言隆資の名もあった〔『太平記』〕。ときに隆資、齢六十一。
 隆資の死は幕府方にとっても大きな出来事であったらしく、戦後義詮は勝利と隆資の討死を伊予守護職・河野通盛〔?〜一三六四〕に報じている。
 こうして隆資は戦死したが、その甲斐あって後村上天皇は無事南都に逃れることができた。正平十一年・延文元年〔一三五六〕、天皇はこの功により隆資に左大臣を贈っている。

七.四條家その後
 隆資の後をうけて家督を継いでいたのは隆俊である。正平の一統の際、検非違使別当に任じられ京の全権を委任されようとしたことによってもその逸材であることが窺える。
 隆俊はこの後も楠木正成の遺児・楠木正儀〔?〜一三八九〕と共に南朝の中心として自ら将士を率いて陣頭に立つこととなる。
父が戦死した翌年、すなわち正平八年・文和二年〔一三五三〕二月、弟隆保と共に紀州に兵を起し、六月紀伊および熊野の軍勢を率いて宇治路より京に攻入った。このとき南朝には足利直冬〔一三二七〜?〕、また幕府方よリ山名時氏〔一三〇三〜一三七一〕・師氏父子が帰順しており、九月、隆俊は正儀と共に足利義詮を敗走させて再び京を奪還した〔『園太暦』〕。彼はこの功により大納言に任じられて京都の全権を持つに至ったが、赤松則祐〔一三一一〜七一〕・義詮に攻囲され摂津に退いた。このとき隆保は討死したとされている〔『断絶諸家略伝』〕。
 正平九年・文和三年〔一三五四〕四月十七日、隆資と共に南朝を支えた北畠親房が六十二歳の生涯を閉じ、南朝にとって苦しい時代が訪れた。それでも十月、後村上天皇は賀名生から河内天野山金剛寺に移り、十二月、桃井直常〔生没年不詳〕・斯波氏頼〔生没年不詳〕等の帰順で勢いを得た南朝軍は京を三たび奪還して義詮を敗走させた。足利軍がこれを回復しようとして京に迫ると、隆俊は八幡に陣して神南で義詮と戦っている〔『太平記』〕。 正平十四年・延文四年〔一三五九〕十二月、幕府軍が金剛寺に大攻勢をかけ、天皇が行宮を観心寺に移した際、このとき正儀は赤坂城に拠り、隆俊は勢三千を率いて紀伊最初峯、次いで阿瀬河城に拠って奮戦している〔『太平記』〕。
 さらに正平十六年・康安元年〔一三六一〕十二月、細川清氏〔?〜一三六二〕の帰順により、隆俊は大将として楠木正儀・清氏と共に天王寺より京に攻め寄せ、またしても京奪還に成功した。それはわずか二旬の夢に過ぎなかったが、当時の南朝の勢力でこれほどの戦果を何度も挙げることは驚異的である。隆俊はやがて内大臣に就いたことが知られるが、公卿の最上席に位置して輔弼の任にあたる一方で幾度も戦場の陣頭に立ち幕府方と戦う姿は、南朝の柱石隆資の継嗣というに相応しい逸材であった。
 隆俊は正平二十三年・応安元年〔一三六八〕後村上天皇崩御の後、長慶天皇〔一三四三〜九四〕に仕えたが、文中二年・応安六年〔一三七三〕十月、北朝に帰順した楠木正儀〔?〜一三八九〕が自ら天野御所に攻めて来たのを身をもって防ぎ、天皇を守るとともに自身はここに討死して、父と全く同じ最期を遂げた。
 南朝の柱石四條家はここに断絶し、その系譜は『断絶諸家系図伝』に名を止めるのみとなったのである。

八.終 論
 四條隆資やその子隆量・隆貞・有資・隆保・隆俊等の事蹟を追いながら、元弘の変から南北朝成立に至る激動期の歴史を探ってみた。
 隆資は後醍醐天皇の即位以来、鎌倉幕府倒幕の中心人物として目ざましい活動をし、建武新政期にはその中枢にあって政務を執った。さらに後村上天皇の時代においては北畠親房とともに南朝を支え、しかも親房が常陸にいた間は一人天皇を守り、南朝の重鎮として政戦両略の活躍を見せている。最期は後村上天皇を身を挺して守り討死したことは、武闘派公家の面目躍如たるところである。
 そして、その五人の子が南朝に参じてことごとく倒れていることもまた驚かされる。隆量は笠置へ後醍醐天皇に供奉し落城後処刑、隆貞は大塔宮護良親王に従い、宮と共に足利尊氏討伐を謀って誅滅、また有資・隆保も衰微する南朝を支えながら各地で幕府軍と合戦に及び討死、さらに父の跡を継いだ隆俊は離合集散を繰り返す幕府方の武将を巧みに操りながら幾度となく京を奪還、最後は天野御所で足利軍の来襲を防ぎ、父と同じく天皇を守って壮烈な最後を遂げた。
 この愚直なまでの南朝への忠節が是か非かという論議はさておき、同時並行に推移した足利幕府の諸将達が見せる節度のない離合集散に比べると一種の清々しささえ感じられる。武闘派公家といえども、本職の武家との力の差は歴然であり、正面切っての合戦は無謀であることは彼らにも判っていたはずである。それにも関わらず彼らはこれに立ち向かっていった。彼らの思いは何であったのだろうか。

九.追 補
 朝廷内では筋金入りの武闘派であった隆資・隆俊であったが、彼らは和歌にもすぐれ、宗良親王〔一三一一〜八五?〕が編纂した『新葉和歌集』に、隆資は九首、隆俊は十九首それぞれ載せられている。また『李花集』には、後醍醐天皇崩御のとき遠江井伊城にあった宗良親王が隆資と哀悼の歌を交わしたことが記されている。

中務卿宗良親王
おもふには猶色あさきもみちかなそなたの山はいかゝ時雨

返し

四条贈左大臣
此時の泪をそへて時雨にし山はいかなるもみちとかしる

 このほか、隆資は『増鏡』の作者ではないかといった説も出されているが(中村直勝博士)、これはいささか無理がある。『増鏡』は二條良基(一三二〇〜一三八八)説が有力であるが、むしろその女性的な文体から後深草院女房・二條(『とはずかたり』の作者)が書いたといった説もある。この二條という女性、隆資の祖父・隆顕の姪であり、『増鏡』の結びに突然隆資を登場させていることからも納得いく話である。これも確証はないが興味深い説ではある。

十.あとがき
 古来、文に秀でた武士は惰弱なイメージがあり、逆に武に秀でた公家は精強なイメージがあります。歴史的に見て前者の代表は大内義隆・朝倉義景といった面々がすぐに連想されます。逆に後者代表は間違いなく大塔宮護良親王であることは疑いの余地無しとすべきところで、これに四條隆資・隆俊父子が加わります。北畠親房は確かに武勇に優れていたかも知れませんが、その武勇のほとんどは嫡子・顕家に依るところが多く、自身は知略を専らとした政略派といえると思います。武闘派公家は南北朝時代に多く輩出している傾向にあり、武家貴族に陥ったいわゆる軟弱な武家はその後二百年後、実に多く出現されています。ここに時代背景の妙を強く感じます。
 四条大納言隆資が生きた時代はまさに武家の台頭著しく、公家はその権威を守らんがため必至に抗った時代で、それが後醍醐天皇の治世、家柄にとらわれない人選が功を奏し、摂関家ではなく、どちらかといえば中級貴族であった千種や四條といった家の人物が輩出されたのだと思います。事実これ以後、武闘派公家は全く現れておらず、就中隆資と同じ時期に分かれていた油小路四條家の四條隆蔭は、北朝に仕えながらも全く文治派で合戦とはおおよそ無縁な存在でした。
 しかしこれら武闘派公家の多くは南北朝の時代、合戦を生業とする武士と正面切って戦いながらも、その根本的な戦闘能力の差によってほとんどが消耗しました。以後、公家は全く戦から手を引き専ら文化の継承に傾倒していきます。
 結局公家には、武士を糾合して指揮するということが最後までできなかったのでしょう。膨大な荘園で豊かな経済力を持ちながら武士を見下すことに終始し養うことができなかったのが最大の失敗だったと思います。親房は特にこの傾向が強く、結果的に武士を全くまとめきれませんでした。ここに武闘派であっても公家としての限界が感じられます。四條隆資にしても、武勇は誇ったものの、武士はお上に侍る者、といった認識にあったのだと思います。しかしながら隆資は、脇屋義助の四国下向に際しての斡旋や懐良親王への指揮権委任などの献策を行っているところを見ると、他の公卿などよりは遙かに開明的な思考の持ち主であったように見受けられます。これらの考え方は、後の楠木正儀にも見られる傾向です。四條隆資の本当の心情を知りたいものです。
 余談ですが、1990年放送のNHK大河ドラマ『太平記』には、四條隆資役で井上倫宏氏が演じておられました。残念ながら全くの脇役でしたが、さすがに舞台俳優出身だけあって、その発声や立ち居振舞は見事でした。尤も脚本に少々無理があり、護良親王失脚直前まで宮に仕えその直後天皇に伺候している場面は完全に隆資と隆貞を重ね合わせており、史実とあまりにかけ離れている描き方をしています。ドラマではただでさえ多いキャストをこれ以上増やしたくなかったという意図が感じられましたが、この辺はしっかり整理してもらいたかったものです。しかしやはり、狩衣に立烏帽子の大鎧姿は華麗です。伊達ではない武闘派公家のこの姿は、かなり目立ったことでしょう。
義綱解説
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、日本全国で合戦が行われた時代である。それゆえ、武士のみならず、公家や農民も戦争体制に組み込まれていった。その中で、戦争に秀でた四条隆資のような武闘派公家も誕生した。しかし、そうした公家も足利義満によって南北朝が統合され、平和な時代になると再び武士は武士、公家は公家といった役割分担に戻った。だが、またもや戦乱が続く戦国時代になると、土佐一条家のように戦国大名的な支配を展開する公家が生まれるのである。そして、江戸時代に至り平和な時代が生まれると、また公家は公家として学問の世界に戻り、武士ですら行政を担当する官僚的存在になっていくのである。時代が時代ならば自らの職域を越えて活躍する。まさにそんな状況が四条隆資のような人物を生んだのであろう。

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