人物列伝
「源実朝」

源実朝イメージ
↑源実朝イメージ像(畠山義綱画)

人物名 源 実朝(みなもとの さねとも)
生没年 1192〜1219
役職 鎌倉幕府3代将軍
代表作品 金槐和歌集
参考文献 大佛次郎『源実朝』徳間文庫,1997年
志村士郎『悲境に生きる源実朝』新典社,1990年
藤谷益雄『将軍源実朝の人間像』白凰社,1999年
人物の歴史
 実朝は鎌倉幕府が誕生した1192年に生まれた、父の亡き後兄の頼家が跡を継いだが諸事情により暗殺されたため1203年第3代将軍として擁立された。その時実朝12歳の若さであった。その頃、鎌倉幕府の実権は北条時政が握っていた。そして、時政失脚後は、北条義時が握った。こうした中、実朝は将軍に権力を取り戻そうとする。1212年に政治を取りしきる政所に注目し、和田義盛を重用した。しかし、その義盛は翌年に和田の乱で北条氏一族に滅ぼされ戦死する。和田は鎌倉幕府開闢以来、侍所の別当として軍事面を統制していた。それだけに和田一族を北条氏は鬱陶しく思っていたに違いない。義盛の死により実朝は最大の戦力を失った。これらの事件の黒幕が実朝の母の北条政子や叔父である北条義時であることは明白であろう。
 そして、和田の乱から2年後には実朝も意欲を取り戻し、活動を活発化させる。政所の再建に取りかかり、別当の九人制を実現させ、実朝の意の者・俊才の者を登用し、将軍親政を実現しようと試みた。実朝の政策により、朝廷との関係が強まると、北条義時や三浦義村は武家にとってマイナスと危機感を抱いた。さらに、実朝は朝廷の官位を強く欲した為に、一層御家人などの武家の不信感を買う事になった。
 そんな実朝も、28歳の時鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に殺された。公暁は大銀杏の木に隠れていたというが、「大銀杏も七百年前は人が隠れるほどの太さはないはず。虚構か謎か?」(『将軍源実朝の人間像』より)と指摘し暗殺場所も、八幡宮の石段の場所だけでなく、石橋近くの牛車から降りた所など諸説がある。その他にも、実朝暗殺の実行犯・黒幕なども諸説があり、実朝の周辺は謎だらけである。しかし、権力を取り戻そうと画策していた事、御家人の心が実朝から離れ始めていた状況を考えると、黒幕は北条氏であったと考えられよう。
 実朝といえば、「渡宋計画」を企て、実際に巨大な船の建造を命じた事でも有名である。その真意に関しては、研究者の間でも、「宋に渡って政治研究を進める為」や「将軍という重荷から逃れたい」など様々な意見がある。又、実朝は13・14歳頃から和歌を作り22歳頃(1213年頃)「金槐和歌集」(金は「鎌倉」の意味、槐は右大臣の唐名「槐門」の略をあらわしている。)を完成させるなど文化的業績がかなりある。また、藤原定家に「万葉集」を贈られて以来その影響を強く受け、それまでの京都公家文化への接近をやめたと言われるなど文芸的記録も多数ある。その後、忘れ去られていた実朝の万葉調を評価したのは江戸時代の国学者賀茂真淵、明治時代の正岡子規、大正・昭和期の斎藤茂吉であった。
義綱解説
 いいですね。歌人将軍。あったまに来た事とか、北条への愚痴を華麗に歌とかにしているんでしょうかねえ。ちなみに彼は「元朝秘史」というゲームに出ていましたねえ。彼の殺されてしまった。鶴ヶ丘八幡宮にも言ってみました。銀杏の木はまだ残っていますし、実朝ファンは鶴ヶ丘八幡宮に行って逆に公暁を討って出てやる仮想でもいたしましょう(笑)

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