人物列伝
「足利義量」

足利義量イメージ
↑足利義量イメージ像(畠山義綱画)

人物名 足利 義量(あしかが よしかず)
生没年 1407〜1425
所属 室町幕府(第5代将軍)
主な役職 征夷大将軍
参考文献 青山英夫「足利義量<御方衆>考」『上智史学』33号,1988年
清水克行『室町社会の騒擾と秩序』吉川弘文館.2004年
伊藤喜良『人物叢書 足利義持』吉川弘文館.2008年
人物の歴史
 室町幕府4代将軍・義持(1386-1428)の子(母は日野栄子)。室町幕府5代将軍。父義持は3代将軍で実父・義満(1358-1408)に疎まれ、父存命中の1394年に将軍職を譲られたが実質的な権力は全て義満に握られていた。それを端的に表しているのが、1408年に義満が後小松天皇を北山山荘に歓待した時である。その時、義満と共に後小松天皇を歓待したのは義持の弟・義嗣であり、将軍義持は京の町の警備を担当させられたというものである。おそらく義満は自分の跡目は義嗣にと考えていたのであろうが、1408年に義満が急死した事で、将軍義持はやっと実質的にも幕府のトップとなることができたのである。このように、義持政権のスタートは義満亡き後の後継者問題で悩まされてスタートしたのである。義持政権は人によって「有力守護に支えられ、室町時代で一番安定した時代」とも言われるし、「有力守護に左右され、印象の薄い将軍」とも言われその評価は分かれている。しかし、室町幕府の晩年常に不安定な立場に立たされた将軍たちのことを考えると、義持時代は将軍の権力・権威ともに安定していたのではないかと思う。
 さて、後継者問題に悩まされた義持は自らの後継者はスムーズに決めようと、嫡子・義量(誕生年は1407年7月24日)が1417(応永24)年に元服すると、自らの後継者としての立場を内外に示した。義量の将軍宣下は1423(応永30)年であるので正式にはこの時将軍に就任した事になるが、1418年になると義量は周囲から「御方御所様」と呼ばれているし、1421年頃になると父・義持と共に頻繁に大名邸への訪問や神社参詣や遊覧をしていることから、早くから将軍としての職務を意識して活動している(させられている?)ことがわかる。これは、義持が後見しながら将軍職継承への「根回し」のようなものであり、義量に対する義持の深い愛情を感じることができる。こういった義量の出行の際には必ず側近が供奉した。これらの者を「御方衆」と呼ぶ。義量政権で知られる御方衆として畠山氏・大館氏・伊勢氏が知られている。具体的には畠山持清・持純、大館持房・持員、伊勢貞慶・貞房・貞彌・貞清・貞宣が知られている。これらの御方衆の中には初め義持付きの奉公で後に義量付きとなった者と、当初から「御方御所様」義量に付いて奉公していた者とに別れる。ちなみに、当初から義量付きの御方衆だった畠山持清は、義量が病死するとすぐに出家している。義量は1423(応永30)年3月18日に正式に将軍に就任し、1425(応永32)年2月27日に死去するまで2年余り在職した。しかし、その間義量の将軍としての職務はほとんど見出し得ない。これは、出家した父・義持が政務を執っていたためであろう。
 一般に足利義量というと、大酒食らいで色気に浸りそのせいから早死したと言われるが、清水克行氏はその著書『室町社会の騒擾と秩序』において意外にも義量が大酒であるという資料は1つしかないと指摘している。それは、1421(応永28)年の義持が義量の「大酒飲」を止めさせようと畠山ら義量の側近に命じて起請文をださせたというものである。これ以外に義量が大酒食らいだという資料もないし、ましてや色気に浸ったという事や、酒が祟って早死したなどという事はどこにも書かれていない。すなわち、1421年の義持の書簡1つが義量のイメージを脚色し、大酒食らいで早死したや、かたや色気に浸ったなどというイメージを定着させてしまったのである。清水氏も指摘しているが、義量の父・義持は将軍在職時「禁酒令」を出すなど大の酒嫌いの気があったので、ひょっとすると義量に対する「大酒飲」も誇張表現ではあるまいか。さらに『看聞日記』によると、義量は死去する2・3年前から病気がちであり種々の祈りを尽くしたとあり、つまり1423(応永30)年頃にはすでに病気を患っていることになり将軍在職中はほぼずっと病気がちだったということになる。とすると、病気がちであった義量の健康を配慮して義持は「禁酒」をさせたのであり、義量の積極的な治世が知られないのも、義持が実権を握っていたということがあるにせよ、義量が病気であった(もちろんある程度病気が平穏な時期もあっただろうが)からという理由も考えられる。健康に不安がある義量であっても義持が後継者に指名した理由は、義持の子で他に元服した子が見当たらないからである。もし、安易に義持の弟などを後継者に指名すると、義持の実子を支持するグループが反発する恐れがある。8代将軍・義政が早々と自分の後継者を弟の義視と決めておきながら、実子の義尚ができると支持層が幕閣が分裂して応仁の乱となってしまったのに比べ、義持の先見の明があると言えるだろう。
義綱解説
 足利将軍と言えば、その歴代将軍の木像が等持院霊光殿にあるというのが真っ先に思い浮かびます。しかし、歴代15人の将軍のうち2人だけ欠けているんです。その1人は、14代将軍の義栄。もう1人はここで取り上げた5代将軍・義量です。同じく在任期間が短くその治世があまり明らかでない7代将軍・義勝はあるのに何故義量が無いのでしょうか。父・義持の影響下で何もできなかった義量と、前将軍が暗殺されて例え幼少と言えども後ろ盾なく将軍に就任することになった義勝との差なのでしょうか…。しかし、もし仮に将軍・義量が長生きしていれば、義持の後見で幕府の治世は安定し、その後の悪評高い後継将軍を決めるくじ引きもなかったのかもしれない。義持と義教の間に挟まれ陰の薄い存在ではある義量であるが、ひょっとしたら室町幕府のキーパーソンだったかもしれない。

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