人物列伝
「足利義明」

足利義明イメージ
↑足利義明イメージ像(畠山義綱画)

人物名 足利 義明(あしかが よしあき)
生没年 ?〜1538
所属 小弓公方
主な役職 初代小弓公方
本人性格 父・兄と対立し自ら公方府を開く程独立心旺盛。
参考文献 佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開」『歴史学研究』No.635.1992年
『古河公方展−古河公方足利氏五代の興亡−』古河歴史博物館.1997年
(共著)『戦国大名系譜人名事典東国編』新人物往来社,1986年
人物の歴史
 右兵衛佐。入道して空然、雪下。幼名愛松王丸。2代古河公方政氏の子。初代小弓公方。義明は古河公方2代政氏の子にして、3代高基の弟である。初め出家して鶴岡八幡宮別当となり空然と名乗っていたが、父政氏と兄高基(高氏)が和睦した翌年の1510年に、突然政氏に対して反旗を翻し、還俗して義明と名乗った。この後、政氏と高基が再び反目することとなったので、関東足利氏は政氏、高基、義明の三者が対立することとなった。
 還俗した義明は、政氏を破り古河公方を掌握した兄・高基を避けるため奥州にいたが、1518年7月、上総の真里谷武田氏当主・信勝に招かれて小弓城に入城した。小弓公方・足利義明の成立である。突然義明が小弓城に招聘された背景には、真里谷武田氏の思惑が存在する。義明の入城より前、真里谷武田氏は小弓城主原胤隆と争っており、当初戦況は千葉氏、三上佐々木氏の支援を得た原氏の優性であった。しかし、真里谷武田氏は伊勢宗瑞(北条早雲)の援軍を得てこれを撃破し、原氏の小弓城、佐々木氏の真名城を手に入れた。そこで、真里谷武田氏は上総の諸勢力を古河公方足利氏の一族である義明を用いて掌握しようと画策し、義明の小弓入城を実現させたのである。一方の義明側でも、古河公方の兄・高基と対抗する理由から、この武田信勝の誘いに乗ったと思われる。
 だが、兄高基や父政氏と対立していた義明を盟主とする小弓公方府の成立は、関東の勢力地図を一層複雑なものにした。まず、義明のこれ以上の権力強大化を防ごうと古河公方・足利高基は1519年、義明に支援する真里谷武田氏の椎津城を攻めた。この時、高基の攻撃に参加した勢力に下総・結城氏、下総千葉氏、常陸・羽生氏、常陸菅谷氏(小田氏の代官)らがいる。これらの勢力はこの時、古河公方・高基方についていたと言える。一方、小弓公方・義明方は、1520年に常陸川を利用する流通の拠点であり、下総での古河公方の最大支援者・千葉氏の居城・本佐倉城を攻撃する。この時、義明の攻撃に参加した勢力は真里谷武田氏を中心に、安房・里見氏、下総・臼井氏らがいる。これらの勢力は、小弓公方の有力な支援者と言える。このような、古河公方、小弓公方の激しい対立は、関東の諸勢力の争いにも利用されていくことになる。例えば、先に古河公方方として活躍した常陸の小田氏は、常陸で勢力を増しつつある土岐氏が古河公方の臣である関東管領上杉氏の被官であったため、一転して小弓公方に組し、土岐氏と対抗したのである。また、後北条氏は、江戸への進出を足かがりに、房総への圧力を本格派させ、房総の諸勢力の多くが支援する小弓公方と対立し、古河公方側に組することとなった。さらに、この小弓公方と古河公方の争いは諸勢力同士だけでなく、内乱にも利用されるようになっていく。真里谷武田氏、安房・里見氏の家督相続争いでは、対立するニ派が小弓公方、古河公方とそれぞれ結びつくなど、関東の政争は一層激しいものとなっていった。
 しかし、その情勢もまもなく変化する。前述のように小弓公方の支援者である真里谷武田氏、安房里見氏に内紛が起こりそれぞれ弱体化するのである。その結果、著しく小弓公方の権力基盤は脆弱化していった。このような状況下で、義明が古河公方の勢力撃退を狙って進軍した1538年の第一次国府台の戦いでは、有力な勢力の参陣は里見義尭くらいで、「小弓公方は必然的に弟基頼、子義純らの一族集団とその直臣団(逸見氏を中心とする)を戦闘の中核に据えざるをえず、また自ら大将として個人的力量を最大限発揮せざるをえなかった」(佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開」『歴史学研究』No.635.1992年)という状態になってしまった。さらに、この戦いでは後北条軍を主力とする古河公方軍に敗退を重ね、基頼、義純が戦死し、ついには義明自身も討死してしまうという結果になってしまったのである。1538年、小弓公方の歴史の幕は閉じた。
義綱解説
 小弓公方の有力支援者が弱体化し、かなり劣勢となった小弓公方は、1538年に一見無謀に思える進軍を開始し、第一次国府台の戦いを迎えることになります。ただこの進軍は、単なる無謀な作戦ではなく、古河公方と対立し勝利することこそがこの頃の小弓公方の「存在意義」であっただけに、勢力を挽回する起死回生の為の策であったと私は推察します。もし、勢力が衰えたからといって、古河公方と安易に妥協してしまっては、それこそ小弓公方の存立が危うくなると義明は思ったのでしょう。結構、義明という人物は強気なんですね。きっと。ちなみに、義明を評する資料に「近代無双の名将にて、公方の御跡を継ぎたまふべき人」とするものもあるそうだ。

☆信長の野望での足利義明能力値の変遷
●能力値の略記号
政=政治。戦=戦闘。武=武勇。知=知略・智謀。采=采配。統=統率。外=外政。魅=魅力。教=教養。野=野望。健=健康。運=運。足=足軽適性。騎=騎馬適性。鉄=鉄砲適性。水軍=水軍適性。弓=弓適性。計=計略適性。兵=兵器適性。城=築城適性。内=内政適性。
全国版の数値はMAX=106。数値はゲームの過程で上限を超えて変動。
天翔記の数値は政治、戦闘、智謀のみMAX=200、それ以外はMAX=100
♯全国版のみ「知能」を「政治」に、「野心」を「野望」の能力値に置き換えた。
♯蒼天録以前は「知略」は「智謀」であった。

ゲーム 能力適性 特技・策戦 個性 
天翔記 80 140  − 22 66 87
嵐世紀 31 49 71 92 足軽・槍・騎馬 訓練・突撃
蒼天録 19 37 65 93 足軽 威圧・罵声・誘導
大志 29 43 46 62 32 突撃・全軍突撃 向上心得 家名存続

 さすがに1代で古河公方に対立するだけの勢力・軍事力を有しただけあって、天翔記では戦闘の値が、嵐世紀では統率の値がかなり高いものとなっています。魅力や野望が高いのも、古河公方に取って代わろうとした野心や、そこに求心力をまして小弓公方を成立せしめた事績が表されたものなのでしょう。ちなみに、天翔記ではなぜか古河公方の家臣として登場していますが、嵐世紀では「小弓公方」として家臣を率いて登場することができました。しかし、蒼天録では能力値が大幅下落し、政治力は20を下回ってしまいました。大志で久々登場も能力値はイマイチパッとせず。

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