東京ヤクルトスワローズ〜助っ人列伝〜
<打者編>
(1)バリバリのメジャーリーガ−…ホーナー
ボブ・ホーナー(James Robert "Bob" Horner )は、1978(昭和53)年のメジャーリーグのドラフトでブレーブスから1位指名を受けてプロ入り。マイナー経験なしで89試合に出場し、.266、23本塁打、66打点で新人王を獲得。その後もメジャーリーグで一線級の活躍をする。しかし、1986(昭和59)年にFA宣言するが、年俸高騰により各球団のオーナーの示し合わせで、FA選手と契約しなかったために、ホーナーは浪人寸前となった。そんな事情もあり1987(昭和60)年にヤクルトスワローズと契約した。その経緯から日本プロ野球で活躍するという意欲を持ち合わせていなかったホーナーであるが、現役バリバリのメジャーリーガ―が初の来日という触れ込みもあり当時はかなりの話題となった。デビュー戦で初ホームラン、第2戦目で3ホームランとバリバリのメジャーリーガーの名に恥じぬ鮮烈なデビューで日本ファンを湧かし、ホーナー旋風を巻き起こす。さらにホーナーは内野ゴロでも一塁に全力疾走する常に全力プレイを日本プロ野球にも示し、ファンをうならせた。ホーナーはプレーだけでなく、日本で著述活動(「地球の裏側にもうひとつの野球があった」)やヤクルトのCMに出演するなど日本での活動を多く残した。
シーズン終了後、ヤクルトはホーナーと再契約すべく3年間で総額15億円と当時の日本人最高年棒1億円を遥かに超える条件を提示したが、結局ホーナーはセントルイス・カージナルスと1年契約1億円で合意しメジャーに復帰。1年で日本を去ったことから一部報道で日本プロ野球を軽視しているとも言われたが、後にホーナーはその著述で誤解であることを記した。カージナルス復帰した後は、在日時代にも痛めていた右ひざの故障が完治せず、1988(昭和61)年限りで現役を引退した。
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁 | 打点 | 四球 | 三振 | 打率 |
1987 | ヤクルト | 93 | 303 | 99 | 31 | 73 | 51 | 65 | .327 |
(2)95年Vの立役者…オマリー
トーマス・オマリー(Thomas Patrick O'Malley)は、1982(昭和57)年にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たしたが、その後、ついにメジャーに定着することはなかった。1991(平成3)年に阪神タイガースに入団すると初年度から本塁打20本越え、打率3割を達成するなど主力として定着。その後も日本のシーズンでは打率3割を下回ることがなく、素晴らしいバッティングセンスを披露した。しかし、阪神時代はホームランが15本〜20本前後と少ないことがネックとなり阪神を自由契約になる。そこに当初からオマリーの打撃を評価していたヤクルトの監督だった野村監督(当時)がすぐに獲得に乗り出しヤクルト入団が決まる。
1995(平成7)年4月11日の中日戦。3打席連続ホームランを放つなど、この年31ホームラン。甲子園から神宮球場という狭い本拠地になったのもオマリーの本塁打を増やし、打率面でも本塁打でも脅威の助っ人に変身させた。そして1995(平成7)年のヤクルトのリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。翌年もヤクルトの主力として活躍。オマリー曰く「野村監督はクレバーな人。僕が阪神時代には、打撃を狂わそうといろいろやってきた。その人が味方になったんだ。優勝経験もあるし、強いチームだよ。」と当時のヤクルトを評している。翌年もオマリーは主力として活躍するが1996(平成8)年のオフに契約更改で合意に至らず退団となる。高額の年棒を要求したことがネックになったとか、巨人を退団した落合博満の獲得をヤクルトが検討したのが理由とも言われる。
2004(平成16)年に、オリックスと大阪近鉄の合併問題に端を発した、新規参入球団の構想で、楽天とライブドアが参入に名乗りを上げる。その「ライブドアベースボール」の監督候補として新球団の監督になる可能性もあった。しかし、ライブドア球団が楽天との新規参入戦に敗れ球団開設が実現せず、日本での監督就任はお流れとなった。
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁 | 打点 | 四球 | 三振 | 打率 |
1991 | 阪神 | 130 | 476 | 146 | 21 | 81 | 57 | 83 | .307 |
1992 | 阪神 | 111 | 381 | 124 | 15 | 62 | 94 | 70 | .325 |
1993 | 阪神 | 125 | 434 | 143 | 23 | 87 | 75 | 71 | .329 |
1994 | 阪神 | 124 | 430 | 135 | 15 | 74 | 89 | 74 | .314 |
1995 | ヤクルト | 125 | 421 | 127 | 31 | 87 | 96 | 57 | .302 |
1996 | ヤクルト | 127 | 461 | 145 | 18 | 97 | 74 | 70 | .315 |
通算 | 742 | 2603 | 820 | 123 | 488 | 485 | 425 | .315 |
(3)お調子者が猛勉強…ホージー
ドゥエイン・ホージー(Dwayne Samuel Hosey
)は、メジャー通算、52試合40安打4本塁打とパッとしない成績だった。それでも、「強肩強打」「これまで日本の各球団がリストアップしていたアベレージヒッター」という触れ込みでヤクルトに1997(平成9)年に入団した。ところがキャンプが始まると早くも弱点が露呈。外野の守備ではスローイングもひどいばかりか、ボールの握り方をコーチに教わるほど。野村監督は「強肩って言ったの誰や。届かんやないか」と酷評。バッティングでは野村監督が嫌いなアッパースイングで打撃練習でも前に飛ばない状態。「肩は弱いし、打撃もお寒い。5000万円で代走要員の外国人取ってきてしまったわ」と野村監督がボヤき、キャンプ中の解雇もあり得る状態だったという。そんな中、金森栄治打撃コーチ補佐は「バットスイングがコンパクト。軸もブレない。打つポイントが近いので、球を引きつけて打てる。ということは、外角の変化球にも対応できる。選球眼も悪くない。日本の投手に慣れれば、必ず打つ」と評価していた。オープン戦でも状況は変わらず、日本ハムとのオープン戦では落合から「今年、最低の助っ人ですね。」と酷評されたほど。
それがペナントレースになると、とたんに打ち出す。開幕では7番だったホージー。結局シーズン中に1番から8番まですべての打席を経験した。ペナント後半からは3番に定着。4番の古田と共に大活躍し、リーグ制覇、日本一に大きく貢献した。ホージーが成功した秘訣は、努力家であったことだと言われている。オープン戦では、アッパースイングの矯正を若松勉打撃コーチと共に行い克服。野村監督のミーティングにも積極的に参加し、コーチ陣は質問攻めにあったという。また、オープン戦からベンチにノートを持参。対戦した投手の癖や球種などを克明にメモし、いわゆる「ホージーノート」はペナント中に2冊にも及んだ。
またホージーは少年時代に札付きのワルで、聖書に出会ったことで意識が変わったと言う。そんな経歴の持ち主だから、ヤクルトに入団しても底抜けに明るいキャラクターでチームのムードを盛り上げた。自らを日本名「太郎」と名乗り、ヘルメットにはファンからもらったプリクラをベッタリ貼り付けた姿は報道陣に何度も取り上げられたほど。そんなホージーを敵である巨人長嶋監督(当時)は「ともすれば、IDでがんじがらめにされ、暗く、沈みがちなチームのムードをホージーという男がどれだけほぐしているか知れない。ヤツはバット以上に、あのキャラクターでナインに貢献しています。チームにとって貴重で大きな戦力になっているのです。」と評価。長嶋監督…ホージーを誉めるのはいいですけど、ID野球を酷評してるから1997(平成9)年に巨人は4位というBクラスになっちゃうんじゃないの?(笑)って思っちゃいますね。しかし、翌1998(平成10)年は、他球団がホージーを徹底的にマークしたため、打撃も簡単に崩れ調子を落とし、人気者ではあったが残念ながらシーズン終了後に自由契約となった。
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁 | 打点 | 四球 | 三振 | 打率 |
1997 | ヤクルト | 137 | 498 | 144 | 38 | 100 | 61 | 107 | .289 |
1998 | ヤクルト | 107 | 317 | 77 | 13 | 42 | 34 | 84 | .233 |
通算 | 244 | 815 | 218 | 51 | 142 | 95 | 191 | .267 |
(4)翌年もチームにいたら…テータム
ジミー・テータム(Jimmy Tatum)は、以前から常々日本球界入りを目指していたらしく、1997(平成9)年6月に途中入団。開幕から不振だったオルティスの代わりとして野村監督(当時)が大砲獲得を志願して日本球界入りが実現した。同年は来日したホージーが前評判とは裏腹に素晴らしい成績と抜群のパフォーマンスによる絶大な人気を集めており、比較的地味な存在であった。また、当時は外国人1軍枠が2名までと制限されており、成績好調のホージーに、ノーヒットノーランを達成した投手のブロスもおり、出場機会にそれほど恵まれなかった。当初は野村監督も「アッパースイング。ワシの一番嫌いな打ち方や、どこまでできるか…」と期待が持てないと評価していたが、テータムはわずか51試合で打率3割、13ホームランと地道に活躍。それでも野村監督は「二線級の投手は打つんやけど、一線級の投手になるとからっきしや。使い方の難しい選手だよ。」と全幅の信頼を得るまでには至らなかった。その影響もあってか翌年も残留と思いきや、前述の外国人枠の問題で契約に至らず一年で日本を去る。結局ヤクルトは翌1998(平成10)はホージーの怪我&不振で4位という結果に終わる。もし、テータムが残っていればAクラス入りはできていたのではないかと思う。一年で手放すには惜しい選手だった。
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁 | 打点 | 四球 | 三振 | 打率 |
1987 | ヤクルト | 51 | 139 | 43 | 13 | 25 | 19 | 28 | .309 |
<投手編>
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