東京ヤクルトスワローズ〜監督成績一覧〜
<第20代監督 小川 淳司>
真中監督が2017年の96敗という歴史的大敗を受けて辞任を発表。ヤクルトの次期監督は、宮本や高津などが噂されたが球団が指名したのは前監督の小川淳司。小川監督は再生と育成の達人その手腕を買われての事。さらに1軍ヘッドコーチに宮本慎也が初入閣。次期監督をにらんだ指導者育成。そしてコーチとして、前広島の石井琢朗打撃コーチと河田雄祐外野守備走塁コーチが加入。とにかく元ヤクルトの指導者が多いヤクルトにあって今回の人事は異例。選手の補強も、メジャー帰りの青木宣親と少し気合いが入っている布陣。2018年のチームスローガンは「Swallows
RISING〜再起〜」。96敗の屈辱を忘れずに執念を燃やせ、と言うことだろう。温和な小川監督が「執念を燃やせ!」と心を鬼にした2月の春季キャンプで2018年の開幕を迎えた。この年は打線が奮起。特に後半から固定された「1.坂口→2.青木→3.山田→4.バレンティン→5.雄平」のラインナップは攻撃が切れ目無く続き強力打線復活となった。小川監督の方針で、3番山田以外は30台半ばと年齢が高いこともあり、試合ではちょくちょく休ませることでシーズンで大きな怪我もなく打線の調子を最小限に抑えた。さらに青木がチームを引っ張る原動力となり、団結力も高まった。投手陣はあまり防御率は上がらなかったが、後半では原樹里が先発ローテを担えるほど成長。セパ交流戦では戦力の整っているパリーグを抑えての最高勝率球団となり、シーズンでも2位になった。
2019年は、ヤクルト球団誕生50周年となる年。まだまだ96敗の悔しさをバネに2018年より上昇し、優勝を目指すために「KEEP ON RISING〜躍進〜」がチームスローガンとなった。
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
18 | 2位 | 75 | 66 | 2 | .532 | +7 | 広島 | - | - | - | |
通算 | 389 | 390 | 36 | .499 |
<第19代監督 真中 満>
小川監督から引き継いだ初年度2015年。前年より小川監督の若返り策もあり、山田哲人がトリプルスリー(3割、30本,30盗塁)を成し遂げた。また川端や畠山も絶好調。さらに課題だった投手陣もロマン・オンドルセク、バーネットら中継ぎ・抑え陣の活躍もあり、防御率が劇的に改善。さらに後半に投手・館山が復活も順位を押し上げた。しかし、決して安定的に勝利した年ではなかった。4月には首位になるものの、5月・6月には最下位も経験。強さを見せたのは7月に入ってから。それも9月に入ってくると2位阪神が急減速。そして3位巨人が怒涛の追い上げを見せ、結局はゲーム差1.5の勝利と僅差まで詰め寄られた。優勝のビールかけでは選手会長の森岡が「ヤクルトスタイル、ヤクルトスマイル!エイエイオー!」とヤクルトというチームの仲の良さを掲げた。粘り強く競り勝ったヤクルトの価値ある14年振りのV奪回となった。日本シリーズでは、圧倒的な強さでパリーグを優勝したソフトバンクに太刀打ちできずに敗戦。2015年のオフに話題の中心となったのは、なんと言ってもバーネット。ヤクルト愛と故郷に戻るという夢を叶えるために、ポスティング移籍を球団に提案。ポスティングならヤクルトに移籍金が手に入る。溢れあるバーネットの愛。残念ながら入札球団が現れず、自由契約ならというメジャーの球団もあり、ヤクルトもバーネットに応え自由契約そしてメジャー復帰。ヤクルトの外人と言えば、巨人入団がお決まりなのだが、嬉しいニュースだった。
しかし、2016年への補強と言えばオリックスを自由契約になった坂口のみ。あまりのフロントのやる気の無さを感じるが、前年優勝チームなのでなんとかなると思われた。。Bクラス低迷も、打線がそこそこで、まるで関根監督時代の雑で大味な野球を見ているようだった。結果、2年連続山田哲人がトリプルスリーの大活躍。そして自由契約の坂口が、2016年、2017年、2018年と活躍する選手になるとは・・・
そして悪夢の2017年。前年Bクラスにも関わらず自由契約選手2名の補強と外国人補強とやる気無し。そしてチームは山田も不振で打線が総崩れ。そして元から悪い投手陣も崩壊。球団創設最悪の96敗を喫した。球団創設当初の1950年の94敗、1965年の91敗、1970年の92敗以来の4度目90敗以上で最低記録。退任報道の際に、「来年続けたとしても、勝てる自信がないから辞める」という報道がされたが、本人によると、「誰がやっても勝てない」という意味ではなく、「真中満がこのまま監督を続けたとしても、勝てる自信がない」という意味であったと言う。退任自体は成績が低迷した7月から決めていたが、途中休養は責任放棄となるので考えなかったという。選手層の薄さ、チーム状態の低迷。歴史的大敗。そんなヤクルトになかなか次期監督の適任者がいない。否。一人だけいた。それは高田監督休養で、急遽監督代行として成績を残した男・小川淳司。球団のシニアディレクターというある意味成績低迷に対して責任ある立場だったが、ヤクルトの危機と、ヘッドコーチとしてまた将来のヤクルトの監督候補としての宮本慎也を前提に、「つなぎの監督」「育成の監督」としての最高の適任者にバトンは渡されたのである。
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
15 | 1位 | 76 | 65 | 2 | .539 | -1.5 | ヤクルト | 巨人 | 1-4 | ソフトバンク | − |
16 | 5位 | 64 | 78 | 1 | .451 | +25.5 | 広島 | - | - | - | − |
17 | 6位 | 45 | 96 | 2 | .319 | +44.0 | 広島 | - | - | - | - |
通算 | 185 | 239 | 5 | .431 |
<第18代監督 小川 淳司>
2010(平成22)年の5月26日。途中ではあるが最下位低迷中の責任ととって高田繁監督が休養し、ベッドコーチだった小川淳司氏が監督代行として指揮を執ることになった。最初はヘッドコーチだから責任は監督と共にあると代行就任を断ったが、次期監督の有力候補である荒木大輔1軍投手コーチを来シーズンに温存したいためにかなり小川氏の代行就任をプッシュしたようだ。これが結果的にヤクルトを変える出来事になるとは不思議なものだ。
小川監督代行就任からチームの雰囲気がガラリと変わる。試合で失敗すればベテランでも降格。FAの藤本も2軍。ガイエル・デントナも当初は起用し結果がでなくても少し辛抱したが、調子は戻らずスタメン落ち。途中加入のホワイトセルを重用した。そして、畠山和洋の起用。昨年の4番打者。未完の大器。ファームで私が大注目していた選手。その豪快なスイングは池山を彷彿とさせる。守備はサードだかお世辞にもうまくない。サードには宮本、ファーストにはホワイトセルがいたので、なんと外野手として起用した。外野手としての守備は正直イマイチである。しかし、打撃の調子がよく何度もチームを勝利に導いた。2010年の小川ヤクルトの中軸は、畠山・飯原・武内・ホワイトセルのうち調子のよいものを起用する。そしてそれが見事なまでに当たる。日本人の中軸。畠山・武内がクリーンナップと、とても魅せる野球をする。高田監督時代ぶっちぎり最下位だったチームの借金を見事返済し、あわよくばAクラスでクライマックスシリーズへ…というところまでいった4位で終了。そしていよいよ来季の監督就任問題に発展へ。フロントは規定通り荒木大輔を監督にし、小川をフロント入りさせるつもりと報道される。ヤクルトファンのほとんどは小川監督の就任を望んだ。結果、小川監督は2年契約で監督に就任となり、ファンの声が届いた。一方で他チームのファンからは小川監督は元オリックス監督の大石氏の二の舞になると噂された。すなわちコリンズ監督を首にし大石監督代行がオリックスをシーズン途中から2位に伸し上げ監督に就任したが翌年に結果を出せなかったカントのことである。
2011(平成23)年開幕。3.11の東日本大震災のため、開幕が遅れたがなんとかプロ野球は行われることに。そこで小川ヤクルトは快進撃。順調に白星を積み重ね。前半を1位で終えた。元ソフトバンク監督の王貞治氏は以前こう言ったことがある。「たいした補強もないのに、Aクラスを続け、日本一にもなっている。選手の心をつかんで、『監督のために勝とう』とチームを一丸にさせる。若松のような監督が本当に良い監督というんだよ」と。選手を立てる裏方に徹し、負ければ自然体で自らの采配を自己批判する小川監督は、チームの和をモットーにした若松氏のDNAを受け継いでいる。だから強いのだ。
そんな2011(平成23)年8月2日のナゴヤドームでのヤクルト・中日戦でヤクルト球団史上最速の大記録が生まれる。小川監督通算100勝目。通算176試合目での達成で、球団史上最速(176試合で100勝62敗14分)。若松監督も…そしてあの野村監督すら抜いての大記録。チーム打率がいいわけじゃない…チーム防御率がいいわけじゃない…そんな中で、セ・リーグ唯一の貯金チーム。そして、ぶっちぎりの首位。残念ながらこの年の終盤怪我人続出であと一歩のところで優勝を中日に奪われてしまう。
この後、小川監督は球団が戦力の補強に積極的でないため、徐々に成績下降線になってしまう。13年・14年とぶっちぎりの最下位になってしまった。しかし、13年と14年の最下位は質が違う最下位である。15年シーズン終了後に色々な野球評論家が言っていたが、14年は徹底して小川監督は若手を育てた。そのために、山田哲人が開花し、15年の優勝へとつながるのである。15年ヤクルトの優勝の陰の立役者は小川前監督と言えると思う。その証拠に、2014年シーズン終了後、小川が監督を引退すると東京ヤクルト球団は、小川に球団初のシニアディレクターという役職を用意していた。小川の才能を見込んでのことだろう。
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
10 | 4位 | 59 | 36 | 3 | .621 | +6.5 | 中日 | - | - | - | 5/27以降の代行としての成績 |
11 | 2位 | 70 | 59 | 15 | .543 | +2.5 | 中日 | - | - | - | − |
12 | 3位 | 68 | 65 | 11 | .511 | +20.0 | 巨人 | - | - | - | − |
13 | 6位 | 57 | 83 | 4 | .407 | +28.5 | 巨人 | - | - | - | − |
14 | 6位 | 60 | 81 | 3 | .426 | +21.0 | 巨人 | - | - | - | − |
通算 | 314 | 324 | 36 | .492 |
<第17代監督 高田 繁>
古田敦也プレイングマネージャーの後、監督に就任したのが、日本ハムGMを退任を発表した高田繁氏だった。高田氏は日ハムGM時代チーム編成に定評があり、日本ハムは北海道に移転した効果もあってか毎年優勝を争う強豪チームに変化していた。その手腕を買っての監督就任だろう。高田監督は早速手腕を発揮た。当時、ヤクルトの主力投手ではあったがメジャーリーグ志向が強いことと、若手の積極起用の構想から藤井秀悟を2008(平成20)年1月に坂元弥太郎・三木肇と共にに古巣の日本ハムに放出し、代わりに川島慶三・橋本義隆・押本健彦との3対3トレードを成立させた。石井一久FA移籍の人的補償で西武から獲得した福地寿樹なども活躍したが、やはり選手層は薄く初年度2008年は5位の結果に。2009年には古田の後に正捕手となった米野の成長がなかなか見られず、横浜からFA権を行使した相川亮二正捕手としてを獲得した。FA権が導入されてから初めてのFA補強をだったが、これも高額選手以外は移籍金が免除になった新制度が適用されたための補強である。2009(平成21)年は、序盤からチームがうまき機能したため2位をキープ。前半戦で貯金を最大14としたが、後半失速。何とか3位を確保したが、それでも5割を切った。後半のチーム状況ではクライマックスシリーズに進出しても勝てるはずもなくあっさり敗退した。続いて2010年度は阪神からFAで藤本敦士を獲得するなどしたが、4月中盤には失速し最下位まっしぐら。チームの雰囲気も相当悪かった。5月5日に巨人に0−12でボロ負けし3タテを食らった試合後に、高田監督が緊急ミーティングを行い「ギラギラしたものがない。もっと必死にプレーしろ」とゲキを飛ばしたが、選手は「監督がもっとギラギラしろよ」とシラケたものだったと言う。
結局、高田ヤクルトの敗因はなんだったか。これは高田監督の雰囲気にあると思う。高田監督はとても人柄がよく冷静だという。そのため試合に勝っている時は2009年の前半のようにチームの雰囲気も良くなるが、2009年後半や2010年序盤のような負けて続けている時期には素直に落ち込むようなタイプであった。そのためチームに明るさがない。野村克也氏がヤクルト監督時代に言っていた金森栄治を評価する時「例え負けゲームでもゲキを飛ばしていた。その姿勢が当時まだまだ二流集団だったヤクルトのあきらめムードを変えるムードメーカーだった。」と評しているように、負けた沈滞ムードの時にはその雰囲気を一掃する元気良さが必要だった。しかし、監督を初めとしてそれを発揮しようとする積極姿勢が見られなかった…そこが一番の敗因である。
もう一つヤクルトファンには高田監督に許せないことがある。それは対巨人成績である。高田監督の対巨人通算成績は14勝41敗1分という借金27、勝率.255という散々たる成績だった。ヤクルト巨人は本拠地を同じく東京とするチーム。東京ダービーは巨人にとってはたいしたことない試合でもヤクルトにとっては意識している試合だった。
これも野村監督が「対巨人に勝ちこせば大きな自信になる」と言っていたが、高田監督はまさにその逆を行っていた。これではヤクルトの選手が自信を失うわけである。高田監督は巨人のOBであることから、不可解な采配でわざと負けているのではないかとネット上で噂にもなっていた。また、高田監督を評して「巨人の犬」などと言う書き込みも見られた。2010(平成22)年に途中交代して小川監督代行になった以降、7月初旬までの時点で対巨人15勝9敗3分で貯金6と圧勝している。この差はいったいなんだったのか…
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
08 | 5位 | 66 | 74 | 4 | .471 | +17.5 | 巨人 | - | - | - | − |
09 | 3位 | 71 | 72 | 1 | .492 | +22.0 | 巨人 | - | - | - | − |
10 | (6位) | 13 | 32 | 1 | .371 | +6.5 | 中日 | - | - | - | 5/26までの成績 |
通算 | 150 | 178 | 6 | .457 |
<第16代監督 古田 敦也(プレイングマネージャー)>
野村監督の9年間の黄金時代、球団初の生え抜き監督である若松監督の7年間。これですっかり目が肥えてしまったヤクルトファンは次の監督にも目玉を求めていた。それが野村克也氏がかつて行っていた選手兼任監督(プレイングマネージャー)としての古田敦也氏の就任である。ファンの熱い期待に応えて2005(平成17)年のオフに古田も快諾して実現することになった。
古田は球団とファンを近づけようと常に努力した。まず行ったのが「F-Project」である。Fanの皆様の「F」、楽しむFunの「F」、私、古田の「F」、神宮をFull
にするぞ!という「F」である。この頃ヤクルトの観客動員数もかなり目減りしており、古田のFプロジェクトはかなり注目された。その一環としてまず「ヤクルトスワローズ」の名称が「東京ヤクルトスワローズ」に改称された。東京に対する地元密着という強い意思表示の現れである。同じころ読売ジャイアンツがユニフォームから「TOKYO」の文字を消し「YOMIURI」に変化させたのとはえらい違いである。
このように球団改革に力を注いだ古田監督であったが、自身の怪我によりプレイングマネージャーとして試合に出場する機会は激減。しかも、原則ミーティングを廃止しID野球は影を潜めた。折から日本人選手があまり育っていないこともあり、初年度は5割を超えないまでも3位になったが、就任2年目の2007(平成19)年は怪我人続出とは言え、なんと21年ぶりの最下位になってしまった。
2007(平成19)年シーズン終了を持って古田の現役引退で監督専任という話もあったようだが、結局監督としても辞任となる。成績不振に関するフロントとの考え方の違いもあったかもしれない。この古田の対談に対してフロントに対する怒りが収まらない石井一久はFA権を行使して西武へ移籍。さらに、打点王のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが金銭に目がくらんで巨人へ移籍。ヤクルトの内部崩壊が始まり再び暗黒時代へと進んでいった。
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
06 | 3位 | 70 | 73 | 3 | .490 | +18.0 | 中日 | - | - | - |
07 | 6位 | 60 | 84 | 0 | .417 | +20.5 | 巨人 | - | - | - |
通算 | 130 | 157 | 3 | .453 |
<第15代監督 若松 勉>
若松勉氏はヤクルトスワローズ球団生え抜き監督として誕生した(サンケイアトムズからの生え抜き監督に武上四郎監督がいる)。現役時代は背番号1を身に着けた初代ミスタースワローズで、初代V1(1978年)の立役者であった。若松監督は方針として「ID+スピード&パワー」を掲げた。野村監督時代と比べるとミーティングの時間は減ったが、それでも野村遺産としてID野球は継承されていた。
チームの主軸となったのは、野村遺産である稲葉・岩村・宮本らであった。野村監督時代の後半ぐらいからドラフト指名で高校生指名が増えた。それは大学生・社会人に逆指名制度が導入されたからであり、一部の金満球団に逆指名が殺到した。特にヤクルトと相思相愛とまで言われた高橋由信(早稲田大学)が一転して巨人を逆指名してしまったため、多額の金銭が動いたなどの話もあった。この経験からヤクルトがドラフトに対して積極的に競争に行かず育てるドラフトに変更してしまったとみられる(しかしながらなかなか才能が開花しなかった)。それゆえ、野村時代のような次世代のヤクルトを担う選手がなかなか育たず、やっと定着しかけたのが2005年ごろの青木宣親(外野)だった。
ヤクルトはドラフトが育てる戦略だったので、即戦力はどうしても外国人に頼らざるを得なかった。しかし、ヤクルトの優秀なスコアラーは1999(平成11)年に打者ではペタジーニ(1999年・2001年本塁打王など)、2001年にはラミレス(2003年本塁打王など)、投手ではホッジス(2002年には17勝)など優秀な助っ人を獲得することができた。しかしそのペタジーニも2003(平成15)年に、ラミレスも2008(平成20)年に金銭に釣られて巨人に移籍するなど、せっかく育てた外国人を根こそぎ巨人に奪われるという失態も演じ、ファンはフロントのふがいなさに失望した。このような状態ゆえ、2001年は日本一になることができたが、2002年〜2004年は前年度から引き続くと4年連続Aクラスというヤクルトにしては快挙を達成するがいまいち優勝に関する原動力にかけたのも事実である。古田敦也曰く、「野村監督は付いていけば優勝できるタイプの監督。それに対し若松監督は自分たちがなんとかして優勝させてあげたい監督である」と言う。選手に細かい配慮を行う素晴らしい監督だったから選手が決起盛んになり優勝したりAクラス入りできたと言えよう。
若松監督は気を使いすぎるちょっと神経質な性格で、そのため監督在任中に胃腸炎で入院したことがある。あまりにも緊張してしまう若松監督の微笑ましいエピソードとして有名なものがある。2001(平成13)年のリーグ優勝を決めた10月6日の対横浜戦の優勝監督インタビューでマイクを向けられたとき、若松監督は目に涙を為ながら「ファンの皆様…本当にあのぅ…」と少し口ごもり、続けて「おめでとうございます。」と言ってしまった。まるで解説者のような他人ぶりのセリフにスタジアムの観客みんなが湧いた。そして、日本シリーズで近鉄を破り日本一になってインタビューを受けるとき、満面の笑みで「ファンの皆様、おめでとうございます!」と言った。若松監督の微笑ましいエピソードである。
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
99 | 4位 | 66 | 69 | 0 | .489 | +15.0 | 中日 | - | - | - |
00 | 4位 | 66 | 69 | 1 | .489 | +12.0 | 巨人 | - | - | - |
01 | 1位 | 75 | 55 | 6 | .577 | -3.0 | ヤクルト | 巨人 | 4-1 | 近鉄 |
02 | 2位 | 74 | 62 | 4 | .544 | +11.0 | 巨人 | - | - | - |
03 | 3位 | 71 | 66 | 3 | .518 | +15.5 | 阪神 | - | - | - |
04 | 2位 | 72 | 64 | 2 | .529 | +7.5 | 中日 | - | - | - |
05 | 4位 | 71 | 73 | 2 | .493 | +17.5 | 阪神 | - | - | - |
通算 | 495 | 458 | 18 | .519 |
<第14代監督 野村 克也>
1988(昭和63)年にヤクルト本社の社長となった桑原潤がヤクルトを強いチームにしたいと1989(平成元)年のオフに野村克也氏に監督に就任を要請した。オーナーは「優勝を争うチームに育て上げてくれ」というものであった。野村監督の名言の1つに「1年目には種をまき、2年目には水をやり、
3年目には花を咲かせましょう 」というものがある。そこで監督は「ID野球」を掲げる。IDとは「important
data」のことで、経験や勘にとらわれずデータを元に科学的にチームを動かす事であった。90年には監督自らが指導者を務めるミーティングを毎晩行い、その中で野球理論だけでなく、社会人とは…などと根本から精神を叩き直すことから始めた。最初こそ選手の間にID野球は抵抗があった。1年目は5位。しかし、野村監督は焦らず粘り強く指導を続けた結果Aクラス入りの3位。そして、選手たちも次第に「この監督についていけば優勝できる!」という思いを感じ始めていた結果、3年目にはリーグ制覇という花を咲かせることができた。
チームも池山・広沢などの関根前監督が育てた人材が開花。プラスしてハウエル・オマリー・ホージーなどの外国人がかなりの確率で当たり優勝に貢献した。さらに、古田を1990(平成2)年に正捕手に抜擢し帝王学を学ばせ息の長い活躍をするなど、土橋・高津・宮本・稲葉や岩村などの次のヤクルトを担う人材育成も行いヤクルトの選手層はどんどんと厚くなっていった。一方でヤクルトはトレード補強やFA補強に消極的なチームでそれに対する支出も惜しむ傾向があった。それゆえ、自由契約になった人材を積極的に雇用し、金森、大野、田端、佐藤真一、辻、小早川などのその年々の活躍をかなりの面助けていた。そのため、ヤクルトは「野村再生工場」と呼ばれ、多くの自由契約となった選手のあこがれの球団となった。
野村監督は90年代のほとんどをヤクルトの監督として過ごした(90-98年で99年は若松監督)。その間実にリーグ優勝5回、日本一4回。90年代の9年間10年間の中で、優勝回数が多い順にあげると、1位ヤクルト5回、2位巨人3回、3位広島・横浜1回ずつ、とヤクルトは90年代黄金期を迎えることができた。国鉄スワローズ創設以来、「万年Bクラス」「セリーグのお荷物球団」と言われていたヤクルトからすると、夢のような9年間であった。
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
90 | 5位 | 58 | 72 | 0 | .446 | +30.0 | 巨人 | - | - | - |
91 | 3位 | 67 | 63 | 2 | .515 | +7.0 | 広島 | - | - | - |
92 | 1位 | 69 | 61 | 1 | .531 | -2.0 | ヤクルト | 阪・巨 | 3-4 | 西武 |
93 | 1位 | 80 | 50 | 2 | .615 | -7.0 | ヤクルト | 中日 | 4-3 | 西武 |
94 | 4位 | 62 | 68 | 0 | .477 | +8.0 | 巨人 | - | - | - |
95 | 1位 | 82 | 48 | 0 | .633 | -8.0 | ヤクルト | 広島 | 4-1 | オリックス |
96 | 4位 | 61 | 69 | 0 | .469 | +16.0 | 巨人 | - | - | - |
97 | 1位 | 83 | 52 | 2 | .615 | -11.0 | ヤクルト | 横浜 | 4-1 | 西武 |
98 | 4位 | 66 | 69 | 0 | .489 | +13.0 | 横浜 | - | - | - |
通算 | 628 | 552 | 7 | .532 |
<第13代監督 関根 潤三>
1987(昭和62)年のシーズンから監督となった関根潤三氏。現役時代は近鉄で投手として50勝をあげ、打者に転向してからも1000本安打を達成している。最後の1年間は巨人に移籍した。引退後は広島や巨人のコーチになり、その後大洋、ヤクルトの監督になった。とても温厚な人柄で、ヤクルトの監督になってからも選手の長所を伸ばし、のびのびとプレーさせる方針だった。そのためチームの雰囲気は良かったが、いかんせん個人プレーが多くなりイマイチFor
the Teamという意識に欠けるチームとなり優勝からは遠ざかっていた。それでも、池山・広沢などの次世代のヤクルトを担う逸材が育った。
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
87 | 4位 | 58 | 64 | 8 | .475 | +19.5 | 巨人 | - | - | - |
88 | 5位 | 58 | 69 | 3 | .457 | +22.0 | 中日 | - | - | - |
89 | 4位 | 55 | 72 | 3 | .433 | +28.5 | 巨人 | - | - | - |
通算 | 171 | 205 | 14 | .455 |
<第12代監督 土橋 正幸>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
85 | 6位 | 46 | 74 | 10 | .383 | +26.5 | 阪神 | - | - | - |
86 | 6位 | 49 | 77 | 4 | .389 | +27.5 | 広島 | - | - | - |
通算 | 95 | 151 | 14 | .386 |
<第11代監督 武上 四郎>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
80 | 2位 | 68 | 52 | 10 | .567 | +6.5 | 広島 | - | - | - | − |
81 | 4位 | 56 | 58 | 16 | .491 | +13.5 | 巨人 | - | - | - | − |
82 | 6位 | 45 | 75 | 10 | .375 | +23.5 | 中日 | - | - | - | − |
83 | 6位 | 53 | 69 | 8 | .434 | +19.0 | 巨人 | - | - | - | − |
84 | 5位 | 51 | 71 | 8 | .418 | +25.0 | 広島 | - | - | - | 武上監督途中休養→土橋監督代行 |
通算 | 273 | 325 | 52 | .457 |
<第10代監督 広岡 達郎>
ヤクルトスワローズは1976(昭和51)年5月13日から荒川博監督が途中休養し、コーチであった広岡達郎氏が監督に昇格した。広岡監督は「管理野球」を掲げ選手の体調面をしっかりと管理するため、生活面や食事面などの指導をしっかりと行った。徹底した野球理論もあり1977(昭和52)年にはリーグ2位。そして1978(昭和53)年には念願のリーグ制覇、そして阪急を破って日本一となる。選手たちは「胴上げの際に監督を落としてやろうか」などという反発もあったみたいだが、それにもまして優勝の美酒に酔いしれたという。
しかしその年のオフ、チーム編成について広岡監督とフロントの間に大きな考え方の違いがあり、広岡監督は一時退団を申し出たほど。翌1979(昭和54)年は、チームも低迷しフロントが6月にコーチ陣の入れ替えを提言したが、広岡監督は成績低迷の責任は自らにあるとコーチの入れ替えを拒否。しかし、低迷は続き再度8月にコーチの入れ替えをフロントが提言するなど監督と対立し途中休養、佐藤打撃コーチの監督代行を発表する事態になった。この年は最下位となり、前年チャンピョンチームが翌年最下位となる不名誉な記録を残してしまった。いかにこの頃のヤクルトがまだ未熟で広岡監督の力でチームの結束力と指揮が保たれていたのかがわかる。
年度 | 監督 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |||
77 | 広岡達郎 | 2位 | 62 | 58 | 10 | .517 | +15.0 | 巨人 | - | - | - | − |
78 | 広岡達郎 | 1位 | 68 | 46 | 16 | .596 | 3.0 | ヤクルト | 巨人 | 4-3 | 阪急 | 初優勝・初日本一 |
79 | 広岡→佐藤 | 6位 | 48 | 69 | 13 | .410 | +19.0 | 広島 | - | - | - | 広岡監督途中休養→佐藤監督代行 |
通算 | 178 | 173 | 39 | .507 |
<第9代監督 荒川 博>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
74 | 3位 | 60 | 63 | 7 | .488 | +12.0 | 中日 | - | - | - | − |
75 | 4位 | 57 | 64 | 9 | .471 | +16.0 | 広島 | - | - | - | − |
76 | 5位 | 52 | 68 | 10 | .433 | +23.5 | 巨人 | - | - | - | 荒川監督途中休養→広岡監督代行 |
通算 | 169 | 195 | 26 | .464 |
<第8代監督 三原 脩>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
71 | 6位 | 52 | 72 | 6 | .419 | +19.0 | 巨人 | - | - | - |
72 | 4位 | 60 | 67 | 3 | .472 | +14.5 | 巨人 | - | - | - |
73 | 4位 | 62 | 65 | 3 | .488 | +4.5 | 巨人 | - | - | - |
通算 | 174 | 204 | 12 | .460 |
<第8代監督 別所 毅彦>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
68 | 4位 | 64 | 66 | 4 | .492 | +13.0 | 巨人 | - | - | - | − |
69 | 5位 | 58 | 69 | 3 | .457 | +16.5 | 巨人 | - | - | - | − |
70 | 6位 | 33 | 92 | 5 | .264 | +45.5 | 巨人 | - | - | - | 別所監督途中休養→小川監督代行 |
通算 | 155 | 227 | 12 | .405 |
<第7代監督 飯田 徳治>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
66 | 5位 | 52 | 78 | 5 | .400 | +37.0 | 巨人 | - | - | - | − |
67 | 5位 | 58 | 72 | 5 | .446 | +26.0 | 巨人 | - | - | - | 飯田監督途中休養→中原監督代行 |
通算 | 110 | 150 | 10 | .423 |
<第6代監督 林 義一>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | 備考 | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | ||
64 | 5位 | 61 | 74 | 5 | .452 | +18.5 | 阪神 | - | - | - | − |
65 | 6位 | 44 | 91 | 5 | .326 | +45.5 | 巨人 | - | - | - | 林監督途中休養→砂押監督代行 |
通算 | 105 | 165 | 10 | .388 |
<第5代監督 浜崎 真二>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
63 | 4位 | 65 | 73 | 2 | .471 | +18.0 | 巨人 | - | - | - |
<第4代監督 砂押 邦信>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
61 | 3位 | 67 | 60 | 3 | .527 | +5.5 | 巨人 | - | - | - |
62 | 6位 | 51 | 79 | 4 | .392 | +24.0 | 阪神 | - | - | - |
通算 | 118 | 139 | 7 | .459 |
<第3代監督 宇野 光雄>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
56 | 4位 | 61 | 65 | 4 | .485 | +21.0 | 巨人 | - | - | - |
57 | 4位 | 58 | 68 | 4 | .462 | +15.5 | 巨人 | - | - | - |
58 | 4位 | 58 | 68 | 4 | .462 | +17.5 | 巨人 | - | - | - |
59 | 4位 | 63 | 65 | 2 | .492 | +15.5 | 巨人 | - | - | - |
60 | 6位 | 54 | 72 | 4 | .431 | +16.0 | 大洋 | - | - | - |
通算 | 294 | 338 | 18 | .465 |
<第2代監督 藤田 宗一>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
54 | 5位 | 55 | 73 | 2 | .430 | +32.0 | 中日 | - | - | - |
55 | 5位 | 57 | 71 | 2 | .445 | +34.5 | 巨人 | - | - | - |
通算 | 112 | 144 | 4 | .438 |
<初代監督 西垣 徳雄>
年度 | リーグ戦 | 日本シリーズ | ||||||||
順位 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | G差 | 優勝 | 2位 | 勝敗 | 相手 | |
50 | 7位 | 42 | 94 | 2 | .309 | +57.5 | 松竹 | - | - | - |
51 | 5位 | 46 | 59 | 2 | .438 | +31.5 | 巨人 | - | - | - |
52 | 5位 | 50 | 70 | 0 | .417 | +33.0 | 巨人 | - | - | - |
53 | 6位 | 45 | 79 | 1 | .363 | +42.0 | 巨人 | - | - | - |
通算 | 183 | 302 | 5 | .377 |
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