(東京ヤクルトスワローズ球団旗)
東京ヤクルトスワローズとは…
☆ミ 「国鉄スワローズ」球団創設
東京ヤクルトスワローズの前身である「国鉄スワローズ」が誕生したのは、1949(昭和24)末年のことである。当時、日本プロ野球の初代コミッショナーに就任した正力松太郎氏が当時1リーグ8球団だった現状を「日本における12球団2大リーグの対抗」を掲げたことから、日本のプロ野球球団の増設のきっかけになった。そこで読売グループに対抗する形で毎日新聞系のグループがまず先に「パシフィックリーグ」を結成し、南海・阪急・大映・東急の既存球団に加え、新規に毎日・近鉄・西鉄のが加盟し、7チームによりパリーグが創設された。それに対抗する形で読売・阪神・中日・太陽(後に松竹と改称)に大洋漁業・広島・西日本新聞の新規球団を加えて7チームによりセントラルリーグを発足させた。しかし、セリーグはリーグの運営上(対戦カード)チーム数が偶数になるよう望み、8球団目の創設として国鉄に白羽の矢が回ってきた。
こうして、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立が発案され、「国鉄スワローズ」が1950(昭和25)年1月に正式に設立された。しかし、在野の選手はほとんど新規誕生球団にスカウトされており、国鉄加盟にあたり既存球団から選手供出の約束をしてもらったにも関わらず、新規球団乱立により引き抜き工作が多く、結局国鉄に既存球団から選手供出されることはなかった。そのため、国鉄は非常に薄い選手層でスタートすることになった。これがスワローズが万年Bクラスにならざるを得なかった事情である。
スワローズの名称は当時の国鉄では唯一の特急列車、かつ日本最速だった「つばめ」号に由来する。都市伝説で「国鉄コンドルス」が名称の候補になり、「国鉄コンドルス」が「国鉄混んどる」に繋がるので「座ろう」にかけて「スワローズ」にした…というまことしやかな噂があったが、それはデマである。
☆ミ サンケイからヤクルトへ
国鉄は国の放漫経営により全国に赤字路線を抱えた公共事業体であった。そのため緊縮財政を余儀なくされ、球団保有に興味を持っていたフジサンケイグループの資本参加が行われる。1964(昭和38)年、フジグループの放映権の都合もありフランチャイズが後楽園から神宮球場に移る。さらに、林監督の更迭における国鉄側とサンケイ側の意見対立が起こり、その経緯から名投手・金田正一が巨人に移籍することになり、国鉄は球団経営への意欲を失い経営権をサンケイに譲渡することになったと言われる。1965(昭和39)年に産経新聞とフジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送が親会社となり「サンケイスワローズ」に改称。さらに1966(昭和40)年、手塚治虫が当時球団後援会副会長だったということから、鉄腕アトムをペットマークにし、「サンケイアトムズ」に改称した。その同年にヤクルトがサンケイアトムズの株式を取得し、球団経営に参加している。
その産経グループも業績不振が続き、赤字球団である「サンケイアトムズ」も売却の対象になった。1969(昭和43)年には「サンケイ」のチーム名をはずし「アトムズ」に。そして、翌1970(昭和44)年に球団をヤクルトに売却し、ヤクルト本社が単独で経営権を持つことになりチーム名が「ヤクルトアトムズ」と改称された。さらに1973(昭和48)年に「アトム」の版権を持つ虫プロダクションが倒産したことから、チーム名は国鉄時代の名称である「スワローズ」を復活する旨が発表され、チーム名称は「ヤクルトスワローズ」となった。
ヤクルトスワローズは1976(昭和51)年5月13日から荒川博監督が途中休養し、コーチであった広岡達郎氏が監督に昇格した。広岡監督は「管理野球」を掲げ選手の体調面をしっかりと管理するため、生活面や食事面などの指導をしっかりと行った。徹底した野球理論もあり1977(昭和52)年にはリーグ2位。そして1978(昭和53)年には念願のリーグ制覇、そして阪急を破って日本一となる。選手たちは「胴上げの際に監督を落としてやろうか」などという反発もあったみたいだが、それにもまして優勝の美酒に酔いしれたという。
広岡監督がフロントとのコーチ陣入れ替えにともなう対立で1979(昭和54)年途中に休養となると、またヤクルトは以前のような弱小球団に戻ってしまった。80年代のヤクルトの体質として池山隆寛氏がその著書でこんな表現をしている。「球団の体質はファミリー的で、引退した選手に対する面倒見なども非常にいい。現役時代にそれほど成績を残せなくても、裏方のスタッフとして長く雇ってもらえるケースが多いのだ。他の球団のことはよく知らないが、これはヤクルトのいいところではないだろうか。しかし、その半面、勝利に対する貪欲さに欠けるとよく指摘されてきた。自分でもよくわかるのだが、Bクラスしか経験していないと、それが当たり前だと思うようになってしまうのだ。(中略)勝つことにがむしゃらになれず、勝負どころで粘りがなく、必然的に勝利から遠ざかっていく。」(池山隆寛『池山隆寛のブンブンブン!夢、ありがとう−プロ野球栄光と挫折の19年−』小学館,2003年,99頁より)
この状況が変わったのは、1989(平成元)年のオフに監督した野村克也氏の監督就任からである。
☆ミ ヤクルト黄金期から未来へ
広岡監督の下での初優勝から、10年間で武上監督・土橋監督・関根監督と3人の監督がいたが、その中でAクラスに入ったのはたったの1回。前述の池山氏の言葉のようにファミリー気質に甘えて勝利に貪欲でないチームの雰囲気から勝てるはずもなかった。そんな中1988(昭和63)年にヤクルト本社の社長となった桑原潤が球団のオーナーになると「ヤクルトを強いチームしたいと」という思いで、1989(平成元)に野村克也氏にヤクルト監督に就任を要請した。そしてこの野村監督時代からチームの雰囲気は一変する。
野村監督はヤクルトの監督に就任して早々に「ID野球」という目標を掲げる。IDとは「important
data」のことで、経験や勘にとらわれずデータを元に科学的にチームを動かす事であった。1990(平成2)年のユマキャンプでは監督自らが指導者を務めるミーティングを毎晩行い、その中で野球理論だけでなく、社会人とは…などと根本から精神を叩き直すことから始めた。その結果、チームの勝利に対する貪欲さが出て勝負強くなり、野村監督の9年間で5度のリーグ優勝、4度の日本一になった。
その理論は、野村監督が退任してからも若松監督に引き継がれ、戦力的に十分ではなくても十分Aクラス入りできる環境となった。古田監督時代、高田監督時代にID野球はいったん影を潜めまたBクラスに甘んじることが多くなった。それも2010(平成22)年5月27日に最下位と低迷して高田監督が途中休養し、小川監督代行が誕生すると再びID野球がヤクルトに戻り、その年はAクラスをうかがうほどの強さを見せた。翌年に正式に小川は監督に就任し、野村監督時代にコーチとして支えてきた伊勢孝夫打撃コーチが復帰し、監督の素晴らしい人柄と人望でヤクルトは再び強くなった。後半は若手育成のために低迷したが、その育成の効果もあり、2015年小川監督から引き継いだ真中新監督が、初就任初優勝を遂げる。しかし、2017年球団創設以来の最悪記録である年間96敗を記録。球団創設年の1950年ですらの94敗を2敗も上回ってしまった。そこで、真中監督が辞任し、異例の小川淳司監督の再登板となった。
ヤクルト球団になってから経営も球団自体は毎年赤字ではあったが、本社の経営がよかったので安定化する。ヤクルト本社が1998(平成10)年にデリバティブ取引の失敗で1057億円の特別損失を計上し、一時は身売りもささやかれたが、この損失を自社のキャッシュでカバーできるほど本社の資金は潤沢だったようだ。そのため、1973(昭和47)年から、21世紀にならまでヤクルト本社が安定経営をし「ヤクルトスワローズ」」の名称はすっかり定着した。ただ、ヤクルトが保護地域とする東京都は巨人もフランチャイズとし、さらに一時期は日本ハムも東京ドームに本拠地を置くなど激戦の地であった。一時期は準フランチャイズである北海道や東北に移転するなどという話もあったが、2004(平成16)年に東京ドームから札幌ドームに本拠地を移転した「北海道日本ハムファイターズ」が、さらに同年「オリックスブルーウェーブ」と「大阪近鉄バファローズ」の合併問題を機に、翌2005(平成17)年「東北楽天ゴールデンイーグルス」が仙台を本拠地にしたことで本拠地移転も白紙になる。
そこで、2005(平成17)年シーズン限りで監督を勇退する若松勉氏に代わり古田敦也氏が選手兼任監督として指揮を執ることになり、同年12月19日のプロ野球実行委員会で、古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ(Tokyo
Yakult Swallows)」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活するなど、ヤクルトスワローズは東京密着型のチームへと着実に歩みを進めることとなった。2006(平成18)年に球団名称は正式に「東京ヤクルトスワローズ」となり現在に至る。2019(平成31)年は、ヤクルト球団創設50周年の年となる。
☆ミ 球団DATA
チーム名 | 東京ヤクルトスワローズ |
会社名 | 株式会社ヤクルト球団 |
所属 | セントラルリーグ |
フランチャイズ | 東京都 |
本拠地 | 明治神宮球場 |
永久欠番 | なし(ただし次のナンバーは主力番号) 1…ミスタースワローズ(若松・池山 他) 17…ヤクルトエース(松岡・川崎・川島 他) 19…ヤクルト左腕エース(梶間・山部・石川 他) 27…名捕手(町田・大矢・古田 他) |
オーナー | オーナー堀澄也 (代行:衣笠剛) |
監督 | 小川淳司 |
リーグ優勝 | 1978,1992,1993,1995,1997,2001 |
日本一 | 1978,1993,1995,1997,2001 |
☆ミ ヤクルトのマスコットキャラクターたち
↑2001Vのつば九郎 |
年度 | 年棒 | 備考 |
2008 | ヤクルト飲み放題 | 連続1000試合出場達成 |
2009 | 2,896円+出来高払 | |
2010 | 8,960円+出来高とヤクルト飲み放題 | |
2011 | 10,000円+出来高とヤクルト・タフマン飲み放題 | |
2012 | 10,000円+出来高とヤクルト・タフマン飲み放題 | FA宣言後→残留 |
2013 | 12,000円+ヤクルト400とタフマンと蕃爽麗飲み放題 | デビュー20周年で契約越年 |
2014 | 9000円+ヤクルトとタフマンドライ飲み放題 | FA成瀬の鳥的補償検討も |
2015 | 22,000円+ヤクルト飲み放題 + ハワイ土産のチョコ | 優勝により山田の1/10000の年俸に |
2016 | 22,000円+ヤクルト飲み放題 | 交渉に遅刻で越年 |
2017 | 22,000円 | 球団成績低迷で出来高カット |
2018 |
↑1993Vのボール坊や |
↑1978Vのボール坊や |
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