平成廿四年睦月三日火曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:武藤舜秀様、長続連様、公方様、畠山義綱)
小姓 > 武藤舜秀殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > 新年明けましておめでとうございます。
武藤舜秀 > 年甲斐もなく夜更かしして遊んでいたのでかなり眠いですが、気力で参戦
小姓 > 畠山義綱殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > 武藤様。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
武藤舜秀 > こんばんは
武藤舜秀 > あけましておめでとうございます
畠山義綱 > あら?武藤様夜更かしですか?何時ごろまで昨日は起きていましたか?
武藤舜秀 > 今日の8時過ぎまで起きていまして、11時くらいまで寝ていたので3時間しか寝ていません(笑)
畠山義綱 > あらら…前回の会津旅行のような感じになっていますね(笑)私なら21時に寝ちゃいそうです…(笑)
武藤舜秀 > 今日も誘われていましたが、チャットを優先です!
畠山義綱 > 私も、お出かけの予定がありましたが、チャットがあったのでキャンセルしました(笑)
武藤舜秀 > 烈風伝はどうでしたか?
畠山義綱 > あっ!烈風伝の件ではすみませんでした…新しいCDロムが届いているんですが、まだ年賀状の返信やらなんやらでインストールできていません(泣)
武藤舜秀 > そうだったのですか。mixiの年賀状は簡単ですよ
畠山義綱 > 職場関連にmixiを知られたくないんで…特に客には絶対教えたくないです。自由なこと書けなくなるし…
武藤舜秀 > ただ、ちょっと値が張りますが全てパソコン上でできるので安いですよ。
畠山義綱 > さてさて、今回のテーマは「室町時代の大名の権力・経済基盤」でしたね。どっから話を始めましょうか?
武藤舜秀 > mixiの年賀状は送りたい相手に知らせるだけなのと自分の住所から送ることも出来ます
小姓 > 長続連殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > こんばんわ。対馬守殿
長続連 > こんばんは。なんとか間に合いました(笑
武藤舜秀 > 室町大名というのは、守護大名・戦国大名、国人等ですよね
武藤舜秀 > こんばんは、長様
畠山義綱 > あら?21時頃ご帰宅とうかがっていたのですが?>対馬守殿
畠山義綱 > そういえば、対馬守殿と能登へ行ったのはもうずいぶん前でしたよね…ずいぶん時が経ったなあ(しみじみ)
長続連 > 予定が早くすみました。あと私信ですが、3月のオフ。18日は微妙ですが、17日は大丈夫な感じです。
畠山義綱 > よかったです!ご参陣、誠に恐縮にございます。>対馬守殿
畠山義綱 > おお!その予定も決めねばなりませんね。公方様がいらっしゃるまで詰めますか?最後にしますか?>対馬守殿、武藤様
武藤舜秀 > 長様は関西圏の方でしたよね?
長続連 > 能登はまた行きたいですね。時国家も行ってみたいな。
畠山義綱 > 私は岩倉寺に行きたいです。室町時代の漆塗りの札があると聞きました<能登旅行
長続連 > はい。>武藤様
武藤舜秀 > さすが漆器の町ですね>輪島
畠山義綱 > 漆塗りの札は、AD1500年前後のものだったと思うので、輪島塗の原型なんですごく興味があるんで…時国家もいいですね。
武藤舜秀 > 時国家って何ですか?
長続連 > オフの日程は公方様がいっらしゃるなら最後にしましょうか。
畠山義綱 > 漆器にも歴史ありって感じですね。ぜひ本物をちょっとでもいいので見たいです!>武藤様
武藤舜秀 > 輪島はかなり遠いですよね。
畠山義綱 > 上時国家、下時国家は、源平・壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将・平大納言時忠の末裔と呼ばれる時国家の豪壮な邸宅です。
長続連 > 平家であらずんば人にあらずで有名な(笑)平時忠の子孫のお屋敷です。今年は繁盛するかも・
畠山義綱 > しかも、輪島でも限りなく珠洲市よりの方なのでさらに遠いです(笑)
武藤舜秀 > 今年に相応しいですね。
畠山義綱 > 大河ドラマの平清盛の影響ですね<今年の繁盛
武藤舜秀 > 本当に遠いですね。
畠山義綱 > では、テーマい
畠山義綱 > 能登も意外と広いですからね…ただ道は空いているので、結構遠くても早めに回れますが。っちゃいますか?
武藤舜秀 > 行きましょうか
畠山義綱 > 先ほど武藤様がおっしゃったように、大名と言うと、守護大名・戦国大名に加えて国人も含まれますね。
長続連 > 行きましょう
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
左馬頭義輝 > 皆様明けましておめでとうございます。遅れ申しました。
長続連 > こんばんわ。公方様
畠山義綱 > こんばんわ!お待ちしておりました!>公方様
武藤舜秀 > 公方様、あけましておめでとうございます。
左馬頭義輝 > 今季のカゼはどうもたちが悪いようで、なかなか完治しません。皆様いかがですか?
畠山義綱 > これでぜひ上沢様もいらしてくれればなあ!
左馬頭義輝 > えーっと、今どのあたりでしょうか
畠山義綱 > クリスマス寒波から、かなり寒い日々が続いていますね。養生しないとすぐにやられそうです…<風>公方様
畠山義綱 > 今さっきテーマに入ったばかりです(笑)>公方様
長続連 > 大名ということばは、有力者程度の意味ですから、戦国時代、日本各地で自立的権力を形成した勢力は戦国大名でくくってよろしいのでは(出自が守護家か国人かはおいて)
武藤舜秀 > 私は昨日少し熱っぽい程度でした。お体慈愛ください。
畠山義綱 > 室町時代の大名の権力・経済基盤というと、信長の野望のように農業だけでなく、どのように貨幣経済を見ていくか…ということにつながるでしょうか?
長続連 > 風邪は大丈夫でしたが、寒いですね。年末の雪にはまいりました。
左馬頭義輝 > ありがとうございます。身共熱は下がりましたが咳がいまだに>武藤様
武藤舜秀 > 江戸時代の大名の定義と戦国時代の大名の定義と室町時代の大名の定義は違いますもんね。
左馬頭義輝 > 雪、ですか?積雪があったんですか>対馬守様
畠山義綱 > そうですね。範囲を限定してしまうと狭くなってしまうので、いいと思います<自立的権力>対馬守殿
武藤舜秀 > 経済活動といえば、鉱山開発、木材の売買、特産品の売買、港、川港の税収など・・・
長続連 > 漁業、海運なども無視できないでしょう。なかなか史料がないのですが、能登長氏などの経済基盤は漁業や海運などにかなり依存していたように感じています。
左馬頭義輝 > 大名家の経済基盤というと、半済令を抜きにしては語れませんね
畠山義綱 > 切り口をどうするかで討論の展開が違ってきそうですね。時代で区切りますか?それとも産業別で区切りますか?
長続連 > 私の住んでいる地域では、クリスマス前後の連休は雪が舞いました>公方様
畠山義綱 > クリスマスは異様に寒かったです。それなのに関東はホワイトクリスマスになりませんでした…(泣)
長続連 > 時代別の方が包括的議論ができないでしょうか。
畠山義綱 > 私も対馬守殿のご意見に賛成です!<時代別の包括的議論
武藤舜秀 > 私の地域は近畿地方で唯一特別豪雪地帯に指定されているところなのでまだ40センチくらいはありますよ。
左馬頭義輝 > 室町期限定で切り口で行けば、南北朝あたりが劇的にシステムの変化があって判りやすいかもです
武藤舜秀 > 時代別で行きましょう。
武藤舜秀 > 半済 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%B8%88%E4%BB%A4
畠山義綱 > 時代別というと、やはり公方様がおっしゃる半済令と荘園制がキーワードでしょうか?
左馬頭義輝 > 左様にございます。>半済令と荘園制 修理殿
武藤舜秀 > 荘園 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92
左馬頭義輝 > 荘園がもともと公家衆の経済基盤であったのに対し、半済令はその荘園の侵食の代名詞ですからねぇ
長続連 > とっかかりとして、室町期の荘園をめぐる幕府・朝廷・有力寺社・守護・国人の興亡をみるのはよいかもしれませんね。
畠山義綱 > 墾田永年私財法で得た公家の権力基盤である荘園を武士がなし崩しに得ていった事実…という感じでしょうか?
畠山義綱 > やはり、室町初期は「幕府がどのような政策を行っていたのか」というのが大きいですね。
長続連 > 近年の研究では幕府の上層と公家の均一性が指摘されますので、単純に公家VS武士という枠組みで考えるのは難しいかもしれません>畠山公
畠山義綱 > 公方様が、将軍がテーマのチャット討論会で室町幕府初期の財政について「直轄料は微々たるものなので、財源の主は守護からの国役、あと分一銭とか段銭・棟別銭、土倉役酒屋役といった臨時税に勘合貿易が少々、と言った所でしょうか」とおっしゃっていますね。
畠山義綱 > ほうほう!興味があります。土倉と寺社のつながりがあるので、当然幕府と寺社勢力のつながりは考えられますが、半済令を行った幕府と公家との関係をどうみるべきでしょうか?>対馬守殿
左馬頭義輝 > 判りやすい実例を挙げると、摂津福原の一条家領、土佐幡多荘、南山城の日野家領などでしょうか
武藤舜秀 > 当時の年貢調達は守護が年貢を取って、半分を公家に渡すということですか?
左馬頭義輝 > 足利将軍家の直轄領は近くは山城椿井荘、遠くは日向むかさ荘などで本当にまとまりがないんです。しかもほとんどは奉公衆の養いどころに回されてもいますし
畠山義綱 > 守護請けですね。時代が下ると公家に渡すのがばからしくなったようで、しばしば遅延したり、すごく微々たる量しか進納しないという例もあったようです。>武藤様
長続連 > 幕府も上層部の有力守護連中は「都市貴族」として公家衆とくくって考えたほうがよいかなあと。「都市貴族(公家・幕府上層・寺社)」と「地方の武士」という視点で幕府と公家の関係をみなおすのは大事だと思います。
畠山義綱 > ただ、幕府から守護請けの進納の催促文書もでていたみたいなので、戦国時代になってもなお守護請けは続いてたようです。
左馬頭義輝 > 半済令そのものは足利尊氏が発した指令が初見で、これかなり強引な武家への恩賞給付策です
武藤舜秀 > そうすると、公家・寺社勢力が強い国は収まりがつかないって言うことなのでしょうね?
畠山義綱 > なるほど天皇家、公家、幕府中枢というのは結構な連携関係にありますものね。さっきの守護請けの進納もその連携の一環かもしれませんね。
左馬頭義輝 > 南北朝以前までは守護にはそれほど力があったわけではなく、むしろ公家任官の受領と鎌倉幕府任官の地頭が拮抗していた状態にありました
畠山義綱 > そうみたいです!加賀なんかは公家や幕府奉公衆の直轄領が多く、守護大名の冨樫氏はずいぶんと領国経営に苦労したみたいです>武藤様
長続連 > 興福寺が守護として抑えている大和などは、そうでしょう>武藤様
畠山義綱 > 鎌倉時代の守護と室町時代の守護は大きく違いますね>公方様
武藤舜秀 > そう考えると、大和や加賀が戦国大名が育たなかったのも頷けますね。
長続連 > あと、やはり畿内ではあまり戦国大名が成長せず、その周縁で成長しているのもそうでしょうね>武藤様
畠山義綱 > 本当ですね!そういう風な視点で見ないと気づかないことですよね>武藤様
畠山義綱 > となると、室町初期は幕府が公家と武家のバランスを取っていたため半済令が生まれた(荘園制の完全崩壊とならなかった)と言えるんでしょうか?
武藤舜秀 > この当時は荘園も存在し、国衙も存在していたわけですか?
畠山義綱 > どうでしょう?守護請によって、国衙は衰退していったのかなぁって思いますが…
左馬頭義輝 > 半済令そのものはあくまでも尊氏が出した臨時策だったんですが、その特権を守護たちが見逃すはずはなく・・・>修理殿
畠山義綱 > そうですね。確かに最初は時限立法でしたね<半済令>公方様
長続連 > 幕府が公家・武家の調停者と君臨しようしたのは、そうでしょう>畠山公
長続連 > 荘園という枠組み自体は太閤検地まで存続したとされています>武藤様
左馬頭義輝 > 半済自体、国衙を含めた荘園からの年貢を1年限りで『半分』取り立てるものでしたんで、あくどい方法だとその後にまた半分とどんどん侵食が進みました
畠山義綱 > 京都という立地上も、公家と武家の融合という点は感じられます。そもそも室町幕府の出発点が建武の新政の公家重視の反省から生まれたものですし。
武藤舜秀 > 太閤検地というものは、それまでの、大名の領地、荘園、隠し田を一括にしてしまうという意味もあったのですね?
畠山義綱 > で、ちょっと時代は下るんですが、足利義満や義持の時代でも室町幕府の財政は土倉や酒屋の倉役が多いんですよね。そういう点で農業よりも都市課税をしている点で、諸大名が農業以外の税の取立てにも当然目を向けていたんだと思うんです。
畠山義綱 > うぉ!室町幕府のはじめだけでもう一時間経っちゃった(笑)
武藤舜秀 > 話が尽きないですね
長続連 > 下司、領家、本家などに代表される荘園の複雑な権利関係を一掃するためといわれていますね>武藤様
武藤舜秀 > 確かにややこしいです(笑)
畠山義綱 > 室町時代って、制度がすごく複雑になっている気がします。まるで現代経済のように。いろいろなしきたりもあるし、だからこそ一定の政策を進めても複雑な組織ゆえに効果がない。抜本的な改革が必要…それが太閤検地かなって思います。
長続連 > 一般的に室町時代は、各地の風土に合った特産品が作られるようになるとされるので、当然、諸大名はこれらの特産品を財源にしようとしたでしょうね>畠山公
武藤舜秀 > こういうふうに議論すると、太閤検地というものが意味があったんだなと思いますね
畠山義綱 > これもすごく商業的ですよね。地元の特産品を作って売るっていうところが。そうなるとある程度の流通がないと稼げないですし、税も入りませんよね。>対馬守殿
畠山義綱 > チャット討論会で、改めて織田信長や豊臣秀吉のすごさや大胆さがわかりますね…>武藤様
武藤舜秀 > 特産品や、土倉や酒屋が増えるということはそれだけ町民もお金を持つようになってきた証ですよね?
畠山義綱 > 珠洲焼なんてのも、日本海海上交通という流通をあてにした特産品でありますよね。中居の鋳物もそうですね>対馬守殿
武藤舜秀 > 私は東北にも詳しいのですが、立地上(?)織田信長とかにも必然と詳しくなってしまうのでそのへんの話しかできませぬが・・・(苦笑)
長続連 > そうですね。能登の鋳物や珠洲焼き、漆器産業もそういう視点で、京都などとのつながりも考えて、その形成されてきた意味を考えるのは必要でしょうね。
畠山義綱 > まさにその通りだと思います。土倉は初期には寺社の資金に頼っていましたが、そのうち自立していきます。庶民がだんだんと力を得てきたんですね>武藤様
武藤舜秀 > 珠洲焼や瀬戸物は全国各地で発掘されています。
武藤舜秀 > あいや?公方様が見当たらないですね?
畠山義綱 > そういう視点で考えると、当然通行税や棟別銭(家ごとに徴収する税)などの賦課が考えられますね。
武藤舜秀 > 関所もそうですね。
畠山義綱 > そうですね…お体の具合が悪くなったのではなければいいのですが…<公方様が見えない
長続連 > そもそも能登に畠山氏を配した理由も日本海交通や産業との関連で、考え直すことできるかもしれません(もうそういう研究あるかもしれませんが)
長続連 > そうですね。しばら公方様をくお待ちしましょう。
畠山義綱 > そうなんです。関所も農業主体経済なら存在理由がないんです。自足自給なら国外へ出ないはずなので。関所の必要もあまりない。
武藤舜秀 > 日本海はわかりませんが、瀬戸内海だと、村上水軍が通行する船の護衛も兼ねて通行税を取ったり。
畠山義綱 > 幕府にとって、能登の守護が幕府側であるか、敵対側であるかは結構重要な問題になりそうですものね>対馬守殿
左馬頭義輝 > ご心配おかけしております。ちょっと頭が回転しないもんで・・・すみません。少しはずします。>ご一同様
畠山義綱 > 心配です。無理はなさらないでください…>公方様
武藤舜秀 > 了解です。御体大事になされて下さりませv
長続連 > お大事にして下さい>公方様
畠山義綱 > 日本海もありました!椎名氏の家臣が富山湾の船の通行に税をかけていた荷札が出土しています。射水市の新湊資料館に所蔵されています。武藤様…以前能登旅行の際に行けなかった資料館です(汗)
武藤舜秀 > 日曜を休みにしますかね?(苦笑)>新湊資料館
畠山義綱 > 確か2008年でしたよね。あの時展示替えだったような記憶があります(笑)
畠山義綱 > あの資料館には足利義材(義稙)を研究している学芸員の方がいらっしゃるんです。少しお話してとても勉強になりました!
武藤舜秀 > しばらくしたら氷見に行くつもりですのでその時に行ってみます
長続連 > 新湊資料館ですか。行ってみたいですね。
畠山義綱 > 新湊資料館はすごくお勧めです。資料館としては小さいのですが、その学芸員の方の研究がとても視点がとてもいいです。>武藤様・対馬守殿
武藤舜秀 > 何か資料出されていますか?
武藤舜秀 > 資料→本
畠山義綱 > 研究紀要が発刊されていて買えますよ<何か資料出されていますか?
武藤舜秀 > なるほど。
畠山義綱 > 室町幕府の経済基盤というのは、やはり、農業税より商業税(土倉役蔵役など)などの方が多いんでしょうかね。中学の教科書にも書いてあったような
武藤舜秀 > 加賀のような国では税収や年貢はあったのでしょうかね?
畠山義綱 > おお!訂正しておきます正しくは「射水市立新湊博物館」でした。
武藤舜秀 > 道の駅のところでしたよね?
畠山義綱 > もちろんあったみたいです。冨樫の古文書を見ると特に政親政権の時に積極的に守護請の押領が見られます。
畠山義綱 > そうでうそうです!<道の駅のところ
長続連 > もっといえば、室町幕府は中世日本の最大経済都市でもあった京都の経済力に依存した政権といえるかもしれませんね。
武藤舜秀 > 冨樫時代ではなく、一向一揆の時代はあったのでしょうか?
畠山義綱 > ただ、幕府は公家の催促によって荘園の守護請の進納を命じることが多く、幕府に親しかった冨樫は、大名権力強化との矛盾に苦しんでいたようです。
武藤舜秀 > 京都だけですごく座が多かったですね
長続連 > 一向一揆の時代、加賀の公家や畿内の有力寺社の荘園の収入の分配がどうなっていたかは気になります
畠山義綱 > そうですよね!幕府経済は京都の都市経済力あってのものなのかも。というと、大名の立地条件により、その経済基盤は当然違ってきますよね。
畠山義綱 > 一向一揆や本願寺は幕府の諸大名への賦課税である国役を払っているので、多分荘園の守護請も払ったのではないでしょうか…それでも一向一揆勢力の古文書を調べていないので確定的なことは言えませんが…
武藤舜秀 > よく、「百姓の持ちたる国」なんて言われていますので、年貢や税金は払わないというイメージが強い
長続連 > 地域の特性という視点を考えると、守護大名や戦国大名の経済基盤はこれだ!と割り切るのはできないかもしれませんね。
武藤舜秀 > そもそも、石山合戦の発端は、信長が本願寺に矢銭5000貫要求したことによるものですし。
畠山義綱 > そのイメージわかります(笑)農民の自治共和国のようなものを想定しちゃうんですが、事実は本願寺が大名の代わりを務めたようなものであって、加賀では大名=本願寺、一向一揆=勢力下の国人のようなものであって、きちっと徴税は行われたようです。>武藤様
武藤舜秀 > やはり、そうですよね。
武藤舜秀 > 本願寺の加賀支配の末期には本願寺内で内輪もめもあったようですし。
畠山義綱 > ですよね。ただ、江戸時代的価値観からどうしても農業中心経済を想定しちゃうんですよね。それ以外の価値を低く見るところがありますね。
長続連 > 加賀というと本願寺以外に白山という有力な宗教勢力もありますしねえ。
畠山義綱 > 亨禄の錯乱(1531年)ですね。http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/kaga/t-wars/1531_kyorokuwars.html
武藤舜秀 > 畿内の三好氏の場合、阿波の良質な木材や藍を淡路や播磨から和泉の港に出荷していてそれで力を蓄えたようですよ。
畠山義綱 > これも、本願寺=大名一族、その他の寺社=被官のようなもので、被官同士の内部紛争ですね。まさに他の一般の大名と同じような構図になってますね。
武藤舜秀 > 亨禄の錯乱もそうですが、信長が出てきた頃に下間某が一揆内の誰かに殺された云々を読んだことがありますね
長続連 > やはり農業以外の産業にも注目して、中世の権力の在り方を再考するということが、今後は大事になってくるのでしょう>畠山公
畠山義綱 > 中世には「有徳銭」という税があり、大金持ちだけ徴税されたという税もあるみたいです。まるで信長の矢銭ような税のかけ方が、地方単位でもあったのですね。
武藤舜秀 > そういう考え方で矢銭をかけたんでしょうね
長続連 > 有徳銭=中世の累進課税(笑)。まあ中世は中世なりに格差是正というか、富の再分配システムがあったのでしょうね>畠山公
畠山義綱 > 冨樫も古来からの市場である「野市」に目をつけて守護館を構えたわけですし、能登畠山氏が七尾から離れなっかったのも、所口湊や府中などの市場経済への統制と賦課を考えてのことだと思うんです。そう思うと、守護館などの拠点は防衛だけに立地があるわけでなく、その経済条件も考慮しなければ大名の権力がわからないんですね。
畠山義綱 > う〜ん、おそらく富の再分配というより、「税のかけやすいところから取る」みたいなイメージでしょうかね。おそらく税をとる代わりに権力を保証するような馴れ合いなどもあったんでしょうか?>対馬守殿
武藤舜秀 > そうですよね。若狭の粟屋氏が国吉城に拠ったのも街道が麓にあって海も見渡せるところだったのでこれは国人クラスでも十分にありえるのでしょうね。
畠山義綱 > 若狭や琵琶湖周辺はもう完全に海上交通の要所ですから、その利権を考えながら政治権力が生まれたんでしょうね>武藤様
左馬頭義輝 > 申し訳ありません。体調優れず、やはり本日はこれで落ちます。面目次第もございません。討論会の次第は終了後のいつもの議事録で拝見させていただきます。皆様本年も良いお年でありますように。
長続連 > 大名権力の拠点というと、どうしても軍事的要素から考えられがちですが、経済的視点から、その立地の意味を考えなおすのは大事でしょうね>畠山公
畠山義綱 > ある意味、能登畠山氏が余呉を領したのも、そういうような利権を幕府から認められたのが原因かもしれませんね。
武藤舜秀 > あら、了解です。おやすみなさい>公方様
畠山義綱 > お疲れ様です。公方様、お体をご自愛くださいね。
長続連 > お大事にして、ゆっくり休んで下さいませ>公方様
小姓 > 左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。
武藤舜秀 > 余呉は荘園だったのでそれの代官にして京都在国の賄料のような感じではないでしょうか?
畠山義綱 > 江戸時代だと、城の周りに家臣が集まり居住し、そのためその周辺に城下が築かれる、政治→経済の順で街が形成されますが、室町時代は大きな政治権力がないぶん、その逆で経済→政治の順で街が形成されるのではないかと…
長続連 > うーん。馴れ合いというか、武家にみられる御恩と奉公のような関係の別バージョンみたいな感じもしますね。経済的に奉仕する(奉公)、一定の権力を認める(御恩)>畠山公
畠山義綱 > 余呉に湊はなかったのでしょうか?
畠山義綱 > なるほど、その方がしっくりきますね<御恩と奉公のような関係の別バージョンみたいな感じ
武藤舜秀 > 余呉湖はかなり小さく、あったとしても川港。しかし、川も細く、短いのでそのようなものがあるようには思えないのですが・・・
武藤舜秀 > ただ、馬借はいましたよ。
長続連 > 江戸時代の街の形成 政治→経済 室町時代の街の形成 経済→政治 これは、それぞれの時代の街の性格をうまく表現できてるのではないでしょうか
武藤舜秀 > かく申すそれがしの先祖は馬借だったそうなので(笑)
畠山義綱 > そうだったんですか!<先祖が馬借
武藤舜秀 > それで代官の時期も短いので、そのまま土着させて新しく来た代官と争ったりもしたのかなとも
畠山義綱 > 領有の目的の一つに余呉の馬借衆の利権があったのやもしれませんね。
武藤舜秀 > 越前との峠がキツイのでやはりいたようです。
長続連 > 歴史的に著名な馬借の子孫の方もいらっしゃったんですね。やはり歴史は現代につながってるんですねえ。
武藤舜秀 > 著名ですか(笑)
畠山義綱 > 室町前期は特に、守護職なんかも土着が目的より、恩賞として与えていた感じが強いので、余呉も幕府に対する恩賞として能登畠山氏に与えられたのかもしれませんね。だからコロコロと領主が変わった…
畠山義綱 > ありがとうございます。<それぞれの時代の街の性格をうまく表現できてるのではないでしょうか
武藤舜秀 > ただ、3代前の先祖が一生、財産を売り払って遊んで暮らしたらしいので証拠は何も無いのですが(笑)
畠山義綱 > そう考えると、やはり室町時代というのは、江戸時代と大きくシステムが違うんだなって感じますね。
長続連 > 馬借の動きが室町時代の政治を揺り動かしましたしねえ。
畠山義綱 > 抽象論になっちゃいますが、大名の経済基盤というのは、時代別に考えて地域別に考えないと概論的なことは何もいえないんですね。
武藤舜秀 > 地域によって経済の発展の仕方も違うでしょうね。
畠山義綱 > 土一揆ですね<馬借の動き
武藤舜秀 > 土一揆ですか!なるほど、そうですよね。
畠山義綱 > ある意味、幕府が商業課税が中心なのも京都という日本最大の都市経済を考えると納得できますし。
武藤舜秀 > 座はどうなのでしょう?座も重要なキーワードになってくると思いますが
長続連 > そうですね、その上で各大名に共通する経済基盤というのをみつけだせたら、それが大名の経済基盤の根幹でしょうね
畠山義綱 > 私の勝手な想像になるかもしれませんが、室町時代の税のかけ方は、アバウトのような気がするんです。
長続連 > 確かに律令国家のようにチマチマしてないですね>室町時代の税のかけ方
武藤舜秀 > 室町時代は政治の仕組みなどもアバウトですよね
畠山義綱 > 座はおそらく、最初に対馬守殿がおっしゃった地方の特産品を生産する組織、そして独占する組織であり、その権力を保証する代わりに徴税したと考えられませんかね?>武藤様
武藤舜秀 > 座は、今で言えば組合ですよね?
畠山義綱 > 貫高制も貨幣で徴税量を表したのに、実際はほとんどが米納だったようです。
長続連 > 座は、、、難しいですね。これも中世の家単位による仕事の分業の一形態と考えるとよいかもしれませんね。
畠山義綱 > はい。現代で言うと農協のようなもので、その農協ごとに課税した…と考えられませんか?
畠山義綱 > 座も全部が同じくくりではないですもんね。だから、対馬守殿のような組織も全国にはたくさんあったかと。
武藤舜秀 > 農協に課税するから、各農家からも少しずつ米を収めさせるというようなもんでしょうか?
武藤舜秀 > 各地域ごとの農協や漁協のようなもんですか>全国にはたくさんあったかと
畠山義綱 > 室町時代は今のように情報伝達手段が確立されていませんし、かといって江戸時代のように強固な政治権力もない。だから、地元の組織や有力者に徴税を課しているので、アバウトになったのではないかと思ったんです。
長続連 > まあ現代的にみれば、自由な商業を阻害するものとみえるでしょうが、職業選択の自由がない時代ですし、どちらかというと、民衆側の権利が薄い時代ですから、座という形で結集して、一定の権利を確保するというのも、あの時代としては意味があったのでしょう。
畠山義綱 > 武藤様、その通りです。情報伝達手段がない中で、地元の農協に任せて徴税すれば早いですし…ただ大名が個々の実態把握ができない難点はあります。だから徴税もアバウトにならざるをえなかった。また、座といっても全国共通の組織ではないので、徴税方法も組織形態もざまざまだったと考えられます。
武藤舜秀 > 課税までの間に色々介在すると不透明になっていきますっものね
畠山義綱 > そうですね。だからこそ、座ができたことによって民衆の力が室町時代に高まった…それが馬借衆が参加した土一揆の例にもつながりますね。結果的には室町時代には民衆の力が強まったといえるかもしれません。
畠山義綱 > そこなんです!私が言いたいのは!武藤様がズバリ言ってくれました!
武藤舜秀 > よく、正長の土一揆で民衆の力が上がったというのはそのへんなんですね
畠山義綱 > で、その実態把握がアバウトなままの経済基盤だったのが室町時代の特徴で、安土桃山時代には複雑な組織を断ち切り(検地・楽市楽座・刀狩・兵農分離)実態把握を武家がしていった時代だったのでは…と思ったりします。
武藤舜秀 > どう考えても直接課税のほうがわかりやすいですものね
畠山義綱 > そうなんです。でもその直接課税ができないのは、やはり民衆の力(団結した民衆組織・座など)が強いからであり、今まで徴税して一定の権利が認められてしまっているから、打破しにくいという側面もあるかも。
武藤舜秀 > どうなんでしょう?直接課税よりも間接課税のほうが税率が安かったのでしょうかね?
長続連 > そうですね。そして、その実態把握ができたからこそ、江戸時代に大名の転封も簡単に出来るようになるわけですね>畠山公
畠山義綱 > 武藤様はどう思いますか?<間接課税のほうが税率が安かったのでしょうかね?
畠山義綱 > なるほど!そう考えると、室町時代の足利義満が大名を転封させずに打ち滅ぼしたのも納得です>対馬守殿
武藤舜秀 > 逆に間接課税のほうが高いような気がするんですが。座の維持費、や間接マージン取られたりして
長続連 > 今でも給与所得者は国が所得をほぼ把握できるが、自営業者はあまり把握できないといわれるのと同じような(笑)。>武藤様
畠山義綱 > 座に参加する個にとっては税が高いということですね。逆に言うと、政権側にとっては、税は安くなってしまうかもしれませんね。実態把握ができないということは、座が税額をごまかしやすい…
畠山義綱 > その例え・・・すごく納得(笑)<自営業者の税>対馬守殿
長続連 > 現代以上に自己責任の室町時代ですから、税は高くても座に参加するメリットは大きかったことは大きかったでしょうね>畠山公
長続連 > 時代を超えた真理?ですね(笑)>武藤様
畠山義綱 > なんか、室町将軍などの室町の討論をして、すごく室町の認識ができた気がします。型にはめてはいけないアバウト型の室町時代(笑)
武藤舜秀 > 座に似た組合があるということは座にとってもメリットがあったということですね
武藤舜秀 > 歴史は繰り返します(笑)>長様
長続連 > よく考えたら、幕府も武士の「座」みたいなものかもしれませんね。
武藤舜秀 > なんかそんな感じですよね<幕府も武士の「座」みたいなものかもしれませんね
畠山義綱 > その例えはすごくいい得ているかもしれません。だから室町幕府は大名の実態把握ができないわけですから…。>対馬守殿
畠山義綱 > では、そろそろまとめましょうか?
武藤舜秀 > お願いします。
長続連 > 同業者組合(武士も含め)の乱立の時代=室町時代 とみることも出来そうですね。
武藤舜秀 > まだ時間的に良ければ春のオフ会の打ち合わせもしますか?
畠山義綱 > なるほど!だからこそ、社会が複雑化して見えにくい。それぞれの同業者組合ごとに組織形態もルールも違いますし。
畠山義綱 > まとめの後に時間が許せばやりましょう!私はOKですが(笑)
長続連 > 承知しました>武藤様
畠山義綱 > では、今回のテーマ「室町時代の大名の権力・経済基盤」を皆様おまとめくだされ(笑)
武藤舜秀 > 私は、「民衆が支えた組合制度」ですね。
畠山義綱 > ぜひ武藤様が「民衆が支えた組合制度」と結論付けた理由をお聞かせください!!
武藤舜秀 > 座や、傘連判状が存在したこの時代、横の繋がりが次第に一向一揆や国人一揆、土一揆に発展していった、とも考えられると思います
武藤舜秀 > 早く言っちゃえば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」に近いと思います>一揆
武藤舜秀 > そこまで軽い感じではなかったのしろ、仲間意識が強いんだと思います
畠山義綱 > 義綱のまとめです。室町時代の大名権力、経済基盤は時代別、地域的にみて大きな差がある。しかも、農業や流通の進化によって民衆が団結し力を持ってきたので、大名もそれらに政権運営上配慮する必要があった。そのため、大名権力が直接民衆団体に介入することをせず、座のような同業者組合を積極的に認め、間接支配をしていった。そのため、組織の全体把握に乏しく強力な支配体制を敷くことができなかった。また、徴税も間接支配のためアバウトな方法となり、大名や地域ごとに様々な形態が見られ全国的に統一的なものを見出しにくい。
畠山義綱 > それを打破したのが、安土桃山時代に現れた織田信長や豊臣秀吉であり、大きな組織を解体し、抜直接支配を行うためには、抜本的かつ大胆な改革を行う必要があった。
長続連 > 感想めきますが、室町時代とは中央権力が弱体な時代であり、そのなかで民衆が台頭し、能登の鋳物、珠洲焼、漆器に代表されるように各地では地域の風土にあった産業が形成され、座という同業者組合が結成され、社会的に自立した勢力となった。そのようななか、諸大名はそれぞれの方法で独自の経済基盤を形成しようとした。
武藤舜秀 > 室町時代は集団主義で織豊時代は個人主義とも考えられませんか?>畠山様
畠山義綱 > 仲間意識が強かったのは、自らの利権を守るためですね。そのため結局グループを作っていった。>武藤様
武藤舜秀 > 自分を守ることは組織を守ることですよね
長続連 > (続き)江戸時代に比較して、民衆の経済活動が政治の形態・対応を左右した時代、それが室町時代であった。
畠山義綱 > 「各地では地域の風土にあった産業が形成され」たからこそ、製品が売れ、流通し、その結果座を形成できたのかもしれませんね。あるいは、その逆で座を形成したことで販路を確保したのかも>対馬守殿
畠山義綱 > 室町時代のキーワードは「座」ですね。次回のテーマはいっそのこと「座」でどうでしょうか?
武藤舜秀 > 楽市楽座もキーになってきますね。
長続連 >そうですね、座と産業の関係、もっと考える必要がありそうです>畠山公
長続連 > よいですね。>次回のテーマ
武藤舜秀 > かなりマニアックなテーマになって来ましたねー(笑)
長続連 > ではオフの打ち合わせはどうでしょうか
畠山義綱 > マニアックな中に真実があるんです(ニヤリ)
武藤舜秀 > オフの日程を整理していただけますか?
畠山義綱 > では次回のチャット討論会テーマは「座−その実態と楽市楽座−」でいいですか?なんか変な番組みたいなお題…
武藤舜秀 > いいですね>テーマ
長続連 > 次の討論会テーマは、それで結構です。私はいまのところ、17日(土)は終日空けられますので皆様に合わせます。18日(日)は微妙です。
畠山義綱 > ではテーマは「座−その実態と楽市楽座−」に決定!
武藤舜秀 > 私はどの日にちもOKです
畠山義綱 > オフはどうしましょ。3月17日は11時くらいに新世界集合で串焼き食べてからの大阪城オフ。18日は公方様次第になりますが、京都オフにしますか?
武藤舜秀 > 公方様は九州の方ですよね?
畠山義綱 > はい>武藤様
長続連 > 大阪城いかれるなら、隣接する難波宮や大阪歴史博物館も組み込むのもよいかと。
武藤舜秀 > 私と畠山様は京都大阪から東方面なので、畠山様を米原くらいまでお連れすることも可能ですので
武藤舜秀 > 京都や滋賀、奈良方面でも可能ですが、公方様が参加された場合は大阪周辺のほうが良いとお思われます
畠山義綱 > 了解です。そうしたら都合がつけばちょっと早めに米原集合にしましょっか。新幹線の時間もみて考えましょ。
武藤舜秀 > ですので、2パターン考えておけば良いかと思います。
武藤舜秀 > そうですね。そのほうが楽しいですし。
畠山義綱 > 大阪歴史博物館はぜひ行きましょう!難波宮は隣接しているんですか?ぜひ行ってみたいです。
武藤舜秀 > 大阪市内の中世史跡は絶望的ですのであっさりと古代近世を行ったほうが良いのかもしれないですね
長続連 > 公方様のご予定もちょっと考えないといけませんね。難波宮は大阪城公園に隣接してます。皆様の予定がわからないのですが、神戸もよいかもしれません。今年は清盛効果で特別な施設が沢山できるみたいですし。
畠山義綱 > もし可能でしたら、18日の京都オフ案は武藤様がラフ案をお考えいただけると助かります。18日が参加者が私と武藤様だけになったら、京都以外も範疇に入れましょう。
武藤舜秀 > 17日は畠山様のご都合で大阪城周辺しか行けないので18日のオフを中心に考えましょうか。
武藤舜秀 > 18日に二人だけでしたら、北畠の史跡行くのもありかと思います
畠山義綱 > 17日は夕方から友達の結婚式が豊国神社であるので、大阪から離れると私はちょっと見学時間が短くなるやもしれません…すみません。私抜きでも全然構わないのですが。
武藤舜秀 > 私も大阪に宿泊するつもりですので
畠山義綱 > いいですね〜!北畠!私は是非にでも行きたいのですが、武藤様は再訪になってしまうのでは??
武藤舜秀 > 全然構いませんよ。道すがらが楽しければ大丈夫です(笑)
長続連 > では17日は大阪城周辺で。あと串かつなら、梅田でも充分美味しい店ありますよ。梅田で串かつ→大阪城の方が移動の効率はいいです。
武藤舜秀 > 滋賀県内でもまだ観音寺城、上平寺城、彦根城など残っています
畠山義綱 > 器の大きい方だ!!<道すがらが楽しければ大丈夫です(笑)
武藤舜秀 > 梅田の食堂街に立ち食いの串揚げ屋ありますね!安いですし
武藤舜秀 > 串揚げは二度漬け禁止です(笑)これは有名ですね
畠山義綱 > お〜し!お二方の意見を入れて、もう梅田集合に決定ですね。串揚げ食べましょ!
長続連 > よくご存知で(笑)。他にも、食べ放題の串かつとかもありますしね。
畠山義綱 > 私あまり肉を食べないのですが、串揚げって肉以外もありますか?
武藤舜秀 > そして、丸善&ジュンク堂へ
武藤舜秀 > 野菜や魚介類といったものから、創作の串揚げまでありますよ
畠山義綱 > それメッチャ重要ですね。大阪最大の本屋<丸善&ジュンク堂
武藤舜秀 > 日本最大らしいです
長続連 > そうそう。肉以外もありますからご心配なく。
武藤舜秀 > ビル1つが本屋なのですから(笑)
畠山義綱 > じゃあ基本は大阪梅田に11時集合。串揚げ屋→大阪城→大阪歴史博物館→難波宮→丸善&ジュンク堂→カフェでダベリって流れでしょうか?
畠山義綱 > 串揚げ屋の件、安心しました。m(__)m<お二方
武藤舜秀 > 畠山様は米原で降ります?高速でなら大阪まで1時間半くらいでいけます
長続連 > 串揚げ→本屋→大阪城→難波宮→大阪歴史博物館→カフェの方が効率がよいかと。本屋は梅田の近くなので。
畠山義綱 > 基本米原からお供させていただければと思います。あとは前日の仕事次第と新幹線の時間しだいです。うちから東京駅まで結構遠いので…
畠山義綱 > 了解です!<効率が良い
武藤舜秀 > 私もそう思いました。>効率
武藤舜秀 > ホテルはどこへ泊まられます
長続連 > では17日はそんな感じで、行きましょう。
武藤舜秀 > 公方様が来られる場合はどうされます?
畠山義綱 > まだ連絡がないのでホテルは何とも…もうとってあるとは思うんで、今度友達に聞いてみます。たぶん夜の時間は結婚式の2次会、3次会に繰り出すと思います。
武藤舜秀 > なるべく私も近くのカプセルに泊まろうと思いますので
畠山義綱 > 公方様ご参加の場合も17日の予定は確定でよろしいかと。18日は公方様とご相談して決定しましょ。
畠山義綱 > カ・カプセルホテル…閉所恐怖症の私にはとても…(笑)
武藤舜秀 > 大物とか神戸方面の史跡をおっしゃっていたようですが
武藤舜秀 > 目をつぶればなんとも無いので(笑)
畠山義綱 > 18日のオフでそのあたりを検討するのもいいかもしれませんよ…公方様にご相談次第ですが。
長続連 > 私も、梅田か新大阪で泊まろうかと。大○洋ですか(笑)>武藤様
畠山義綱 > アハハ<目をつぶる
武藤舜秀 > 神戸方面だと、そこまでの史跡が少なそうに思えますが。
武藤舜秀 > では同じホテルに泊まれば行動が楽ですね>長様
武藤舜秀 > カプセルは東京の大森駅前のカプセル行って以来7年ぶりです。
畠山義綱 > 私は五色塚古墳がよかったですね…あと金鑵城の復元櫓も面白そうですが…
武藤舜秀 > 金鑵城は私の写真見ていただければよくわかると思いますが、お世辞にも復元とは言えないかと・・・
畠山義綱 > では11時半も過ぎたので、そろそろお開きにしましょうか。3月17日の予定は確定でよろしいでしょうか?
武藤舜秀 > それに帰りが大変かと思いますよ?
長続連 > はい。梅田や新大阪なら、安いビジネスホテルがあるので、出来れば一緒なとこにしましょうか。カプセルは年的にしんどいです(笑)
畠山義綱 > あっ!そうだ武藤様は訪問済みでしたね。<金鑵城
武藤舜秀 > 私は大丈夫です
畠山義綱 > 確かに<神戸は帰りが大変…
武藤舜秀 > なぜか建築法では登ってはいけないという櫓があります(笑)>金鑵城
長続連 > 17日はその予定で、お願いします。私も明日は仕事なので、お休みさせていただきます。
畠山義綱 > ではまた、3月17日・18日のオフ会の予定の連絡を取り合いましょう!
長続連 > 了解しました。ではお休みなさいませ>皆様
畠山義綱 > では皆様お休みなさいませ。
武藤舜秀 > お休みなさい。
小姓 > 長続連殿が退室なされましたぞ。
小姓 > 武藤舜秀殿が退室なされましたぞ。
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。
−これにて終了−
☆参考資料
私がいつもご教授いただく、中世に詳しい林六郎光明様(六郎光明の屋形)がチャットをみてご意見を下さりました。ご本人の許可を得て転載致します。
チャット記録、拝見しました。掲示板に書かせていただきましたが、
非常に興味深く、かつ、楽しく読ませていただきました。
そこで思いましたのは、室町期から戦国期にかけて、各地の荘園を
有力国人や守護大名がいかに侵食し、自領に加えていったかという
過程について、あまり触れられていないことでした。
実はこれこそが能登の畠山義綱はじめ各地の守護代や守護大名が
最も腐心し、かつ苦労した点であるはずで、この苦労なくして「一円支配」
を目指す戦国大名への脱皮もなかったと言えるのではないでしょうか。
その意味で、戦国期以前の南北朝、室町期の荘園制は、やはり基本として押さえておかれた方が良いのではないかと思います。
いみじくも武藤氏が指摘されていた「中間の」年貢取得者層の存在が
後の戦国期においての戦国大名の家臣団や与力であったりするわけですし、そのように考えていくと、能登における畠山義綱と家臣団の確執も、また別の見方ができるのではないかと思います。
まあ、荘園制度の勉強は、実際かなり面倒くさく、かつ、古臭くて厄介なものですから、戦国大名が好きな方々は、みなさんけっこう避けるんですよ(笑)
私の学生時代は、中世と言うと荘園研究が第一で、私みたいな
宗教史関係は隅に追いやられることが多かったです。
それでも基礎はやっておいたので、今になって助かることが多いです。
ちょうど卒業した頃に網野善彦氏が出てきて、米作一辺倒の歴史を
覆す動きが出始めてきました。 ただ、やはり田畑を多く含む土地の支配や中間取得層の存在は一応捉えておいた方が、良いかと思います。
能登若山荘で行われた珠洲焼にしても、本所の九条家や預所の日野家などが関わって初めて造られたものですし、こういう部分はちょっと見逃しやすい部分ではないかと思います。
本来は、守護大名は荘園領主に配慮しなければならない立場のはずで、これが戦乱の多さによって地域の荘園を侵食しなければ、守護大名としての責務が果たせなくなっていく時代に変わってしまいます。ですから守護大名と荘園領主とは、もともと対立する立場ではなく、並存していくはずのものが、片方では荘園を守る立場と守られる関係であり、もう片方では荘園を侵食する側とされる側になっています。これは荘園のみならず、幕府の御料所とか、地域内にある幕府奉行人の所領についても言えるわけで、要は、周囲の諸情勢によってそれらの関係が変わっていくということを意味しており、こういう事態はやはり徹底した一円支配の戦国大名化への過渡期の現象とみてよいのではないかと思います。
戦国時代を含む中世って不思議な時代で、古代からの官職や職の体系をそのまま引きずっていて、その職に新しい職責を持たせたりしているために、話がいつも複雑化しやすいんです。ただ、「職」について、本来の権能を知っておくと、話がランダムに横滑りすることは少なくなります。
現代は極端に組織が単純化されてしまっていますから、その組織論に慣れてしまっている現代人には面倒な話だと思います。ただ、そのパターンさえ理解されれば、それほど難しいものではないんです。手前味噌になりますが、拙サイトの時代区分論の話ですが、
http://www.geocities.jp/kaganosuke/real02.html
http://www.geocities.jp/kaganosuke/real03.html
これは私自身の中世勉強の軌跡みたいなものです。
戦国時代を専攻するに当たって、まず時代区分論をやってみたんですが、まあ、これが面倒くさいのなんのって(笑)やたら細かいことまで気にするし、話がだんだん複雑になっていって、さすがに途中で放り出しました(爆)時代区分論は、歴史をやる上でのハシカみたいなところがあって、これをやっておかないと、歴史の流れが非常に見難くなります。私はたまたま知らずにやっていたのですけれど、後で考えると、中途半端でも、やっておいて良かったあ…なんて思っています(笑)それで、とりあえず中世をするなら、その前の時代の平安後期からって思いまして、それからおいおいに進めていったところ、結局、中世の複雑な土地支配関係は、このパターンで↓進んでいったということがわかってきました。
「そこで既成事実を積み重ねつつ、諸制度の中での利権を確保していくことになります。
つまり今までの制度を破壊するのではなく、無理やり潜り込んで、その制度を利用していく、または自分の都合だけで解釈するなどして、とりあえず形だけでも制度は残しておくという、なんとも中途半端な形で終わらざるを得ませんでした。」
「この複雑怪奇な?諸制度を、土地制度の改革を中心に全国的に一気に破壊・再編成を行ったのが、秀吉の太閤検地でした。いわゆる「一地一作人の原則」や、税制度の全面的な改革である「貫高制」から「石高制」への転換が、地方ごとの、または領主ごとの長年にわたる既得利権や特殊事情を吹き飛ばしてしまったのです。」
その意味で、家臣団化を徹底的に推し進め、中世的でなおかつ全国的に広がっていた比叡山や本願寺などの宗教勢力を強力に潰していった信長やその後を受けて、今度は領地制度そのものを潰して再構築していった秀吉の凄さには驚かざるを得ません。特に本願寺・一向一揆の場合、戦国大名の一円領主を超える全国的な広がりを持った、後の江戸幕府のようなある意味近世的な部分に危機感を抱いた信長が、これを最大の障害と考えて徹底的な弾圧を加えていったのではないか、という考え方があり、こういう時代を超越してでも自分の支配形態を推し進めていった信長の力は驚異の一言です。