定例チャット第十二回討論会、過去ログ15
「室町幕府と将軍権力〜義晴・義輝期復興にかける将軍たちの苦悩と三好たちの勃興〜」

平成廿弐年睦月参日日曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:武藤舜秀様、公方様、畠山義綱、途中なまや様が加わる)


小姓 > 武藤舜秀殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > 今晩は
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > こんばんは
左馬頭義輝 > こんばんは 略歴表を掲示板へ貼り付けました 身供、ちょっと遅れます。ご容赦くださいませ
(※後日注=上記左馬頭義輝様の掲示板に貼った資料は、本稿下部に掲載しています。)
小姓 > 畠山義綱殿が入室なされましたぞ。

左馬頭義輝 > 20時過ぎの参加となりそうです。それまで一旦外します。すみません
小姓 > 左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。
畠山義綱 > ありがとうございます>公方様
武藤舜秀 > 堺大樹って誰です?
武藤舜秀 > こんばんは
武藤舜秀 > おそらく堺幕府のことですかね?
畠山義綱 > 堺大樹=「堺公方」=足利義維です http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/retuden/ashikaga_yoshitsuna.html
畠山義綱 > そうですそうです。<堺幕府
武藤舜秀 > さかい−ひろき と読んでしまいました(笑)
畠山義綱 > 今谷明氏が提唱した「堺幕府」という定義ですが、私は「堺政権」が畿内中心の地方政権であったと思っている事、さらに一度も将軍に任官されていないこと、政権の中心が一度も京都になかった事などから、「堺公方府」と呼んでいます。
武藤舜秀 > そうですよね。
武藤舜秀 > 関東もいろいろ公方が現れたのと一緒ですね
武藤舜秀 > 1510年代から1530年代の京周辺は複雑ですね
畠山義綱 > 関東の公方もそうですが、小弓公方と同じで実力で公方となったわけですね。元から任命されている古河公方や、将軍の後押しがある堀越公方とは違いますね。
畠山義綱 > 本当にこのころの京都は複雑です。
畠山義綱 > まずは足利義晴期ですね。これをどう捉えるか。
武藤舜秀 > でも、足利義維も結局は傀儡でしょう?
畠山義綱 > たしかに義維も傀儡といえます。しかしながら、「義稙系」は「義稙−義維−義栄」と続き、「義澄系」は「義澄−義晴−義輝−義昭」と考えると、将軍家の対立といえ、応仁の乱と同様の将軍権力の低下を招く結果になります。
畠山義綱 > 将軍が傀儡で安定すれば幕府の安定に繋がりますが、実際は傀儡されたことにより、守護大名の対立を招いています。細川晴元と細川高など管領家の対立は応仁の乱とよく似た構造です。
武藤舜秀 > しかし、浦上村宗って暗殺多いですね
畠山義綱 > まさに下剋上の動きといえますね。それだけ播磨は権力基盤が安定していなかったのでしょう。
畠山義綱 > うちの(能登の)遊佐続光みたい・・・と思いました。しかしながら、遊佐とちがって浦上は赤松を超えようとする動きがありませんか?そこが遊佐(あくまで家中のNo.2でよいとする立場)との違いを感じますが。
武藤舜秀 > そうですね。浦上も宇喜多や別所に背かれていますので
畠山義綱 > 結局そこなんですよ。遊佐がなぜNo.2を選んだのか?それはNo.1になると下剋上の対象になるから…という側面もあったのではないかと。
武藤舜秀 > 傀儡政権で良しとするか、独自政権を持つかというメリットデメリットがあるんではないでしょうか?
武藤舜秀 > 傀儡政権のメリットは、あくまでも主君がいるということで、責任を逃れることができる
武藤舜秀 > 独自政権のメリットは自分で権力を集中させるのでそれだけ力があるかどうか。
畠山義綱 > 守旧の政権を利用するメリットは、従来を踏襲するため反発が少ない。逆に独自政権のメリットは家臣の反発を招くので、それを抑えるだけの力と論理がなければ四面楚歌になってしまう。
畠山義綱 > 結局、管領の細川家も室町幕府を打破するほどの強大な権力を持ち得なかったのですね。
武藤舜秀 > 細川氏自身も内乱があったのでそこまで力があったとは言えないでしょうし。
畠山義綱 > もっとも幕府の場合は、朝廷との関係という点もあるみたいです。幕府はたびたび朝廷関係の行事の金銭を要求されるので、幕府の実力者となれば当然それなりの出費を覚悟しなければならないようです。
武藤舜秀 > 実力者でも地方の大名に官位を推薦させた見返りに金銭を要求しています
畠山義綱 > そういう旨みがなければ、朝廷関連や幕府関連の儀式費用を徴発できないのでしょう<見返りの金銭要求
武藤舜秀 > 伊達家が奥州管領になったときに、それまで貢ぎ物をしていた伊達家に対して管領になった後は全くお礼を納めないと言って細川高国(だったかな)が文句を伊達稙宗に送っています
畠山義綱 > 義晴期に傀儡という論や、「堺公方」誕生による権力の低下については枚挙に暇がありませんが、一方で幕府の再興をさぐる側面を探りたいのですが。
武藤舜秀 > 再興・・・
武藤舜秀 > まず、将軍による幕府の方向性が見えてこない(泣)
畠山義綱 > 学級崩壊したクラスをどう担任が復活させようとするか。現代で言えばそんな感じでしょうか。
武藤舜秀 > よく義輝が幕府再興なんて言ってたみたいなことを漫画とかで見ますが、果たしてどこまで再興を本気になっていたか
武藤舜秀 > クラスの中でも、中には生徒の兄やら弟やらがいつの間にかに現れて先生が「あなたは誰ですか?」なんて言ったり、
武藤舜秀 > 中には兄弟同士で現れて「この席は俺の席だい」「いや、俺のだい」なんて言って喧嘩してるんですから
武藤舜秀 > 担任の先生も大変です(笑)
畠山義綱 > 例えば義晴の将軍偏諱です。足利晴氏、長尾晴景、伊達晴宗、武田晴信、伊東義祐、有馬晴純、南部晴政、赤松晴政、大友義鎮、、大友晴英、大内義長、尼子晴久、渋川晴基、宗晴康、白川晴広、畠山晴熈、相良義滋、相良晴広と枚挙に暇がありません。
畠山義綱 > 室町幕府は直轄地があまりありません。それゆえ、強力な支配体制はできません。どうしても、諸大名の協力を引き出さなければならないわけで、その点は現代の学級担任と似ているものがあります(笑)
武藤舜秀 > 他にも石川晴光
武藤舜秀 > 白河は白河晴綱
畠山義綱 > 学級の例えで恐縮ですが、室町幕府の問題点は、兄弟の争いに生徒の立場で介入してしまう点だと思います。生徒の立場で介入すれば当然敵対する方からの反発は必須。そこで、どう生徒(大名)と教師(幕府)の立場を分けて中立になるか、というのが幕府の命題だと思います。その最大の武器が「大名間調停外交」だと思います。
武藤舜秀 > 生徒同士で「おいおい、喧嘩は止めろよ」「なんなら俺が味方するよ」なんて言ってるんですからね
畠山義綱 > この将軍の偏諱問題1つを取ってみても、有力な大名に拠らず多角的な大名に指示を得て基盤を安定させたいという想いが感じられるのですが。
畠山義綱 > そうそう。そこで生徒(大名)に味方してもらっちゃダメなんです。するとそこに漬け込んで、今度は自分の特別待遇を求めてきます。そのバランスが難しい(中世も現代も)
武藤舜秀 > 偏諱もこれ一つで結構収入もあったでしょうし。
畠山義綱 > 義晴期は、義維の堺公方と対立する必要があったので、当然ながら自身に見方を増やす必要があった。それゆえ、多くの偏諱を与えて味方につけると同時に収入も確保するという目的があったのでは?
畠山義綱 > 南北朝の争乱の時期の、北朝と南朝の対立のようなものですね。より多くの大名を味方につけたいという気持ちは。
武藤舜秀 > そうですね。その鎬を元手に幕府運営していたんでしょうね。
畠山義綱 > 対朝廷用の費用の工面という側面もあったのでは?朝廷が義維方につけば征夷大将軍という身分すら取り上げられてしまいます。
武藤舜秀 > ところで、山城国内は足利氏、もしくはその幕臣・家臣が納めていたと考えてよろしいんでしょうか?
武藤舜秀 > 朝廷はもう、どっちでも良かったんじゃないでしょうか?京都をおさめた方に征夷大将軍任命していたと言うことはないですか?
畠山義綱 > 具体的な事実は調べないと言えませんが、山城は将軍御料が多いと言えども僅かに残った奉公衆などに与えたのが多かったのではないかと。それらが徴収していたのではないでしょうか。まあ幕臣といえなくもないですが、江戸時代的な幕臣というよりももっと半独立的な幕臣と言えるのではないでしょうか。
武藤舜秀 > 朝廷も下手に一方の味方すると義澄・義稙の争いで巻き込まれる恐れもありますから
畠山義綱 > いや、朝廷にも同じことが言えると思います。後奈良天皇(1497年〜1557年)の葬儀には全然お金がなくてなかなか行われなかったと言う記録があるので、朝廷も生きるためには実力者に取り込むというのは必要絶対条件だったのではないかと思います。取り込む大名を間違えば収入が激減するわけです。しかし、大名個人的にお金を要求すれば、それに依存するようになる。だからこそ幕府を通じて金を集金(?)していたわけで、幕府を通じてかろうじて公平性を保っていたわけです。
畠山義綱 > その通りだと思います。争いに巻き込まれないように、幕府の安定(将軍との関係の安定)は絶対と思います。
武藤舜秀 > そういう意味でどちらでも良いと。
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > 結局はどちらでも良いのですが、どちらか一方に「集金」を頼まないとお金も集まりませんし、二股になります。その意味で、当時の慣例では将軍就任への登竜門であった左馬頭に義維を任じながら、征夷大将軍に任命しなかったバランス。実際は朽木に亡命していた義晴に改元の相談などもしているようなので、朝廷は義晴重視外交で義維も保険という感じでしょうか。
武藤舜秀 > おかえりなさいませ
左馬頭義輝 > 申し訳ありませぬ ようやく参陣仕ります
畠山義綱 > お待ちしておりました>公方様
武藤舜秀 > 朝廷も保険外交とは上手ですね(笑)
左馬頭義輝 > どの付近の話題でしょうか?
武藤舜秀 > ただいま、義晴時代の幕府運営資金についてですね
畠山義綱 > 過去ログから、今までの義晴期の討論の要約をば。武藤様は「武藤舜秀まず、将軍による幕府の方向性が見えてこない(泣)」とおっしゃっています。私は「(義晴の偏諱が多い)偏諱問題1つを取ってみても、有力な大名に拠らず多角的な大名に指示を得て基盤を安定させたいという想いが感じられるのですが。」
左馬頭義輝 > 義晴期の施策は大きく分けて二期に分かれると思います
畠山義綱 > 確かに義晴期は大名の動きが活発すぎて、武藤様のおっしゃるように「幕府の方向性が見えない」という問題もありますね。
左馬頭義輝 > まず幕府の運営資金ですが、これは正直入りがほとんどありません(笑)
武藤舜秀 > やはり無いのですね
畠山義綱 > そうなんです!そこが一番の問題ですよね<幕府の運営資金
左馬頭義輝 > で、大きな収入源は段銭・棟別銭のみです。この頃は既に臨時賦役ではなくほとんど強要に近いですが
武藤舜秀 > 無理矢理徴発ですか?
畠山義綱 > 大名などにかける段銭ですよね。臨時徴収という名の、ほぼ政治家たちのパーティー券販売のようなものですね。
左馬頭義輝 > かといって黙って諸大名が出すとも思えないし・・・で将軍が切り札にしたのが追討令ないし討伐令
左馬頭義輝 > 義晴期に偏諱が異様に多いのは、一種の踏み絵のようなものと思いますね
武藤舜秀 > 討伐令?そんなに出ていました?
武藤舜秀 > 討伐令だしてやるから金ちょうだい
左馬頭義輝 > つまり偏諱を与えた大名は曲がりなりにも幕府に対して忠誠を尽くす立場になったのだと
畠山義綱 > 政治家のパーティー券販売も、ある種見返りを期待しての購入ですから、当時の将軍と大名にも似ていますね。将軍を頼るような大名は結構臨時段銭に応じて資金を出しましたし。
左馬頭義輝 > そういう意味合いであればたとえ大名同士でいがみ合っていても幕府に対しては手を出すべからずと言う恫喝ですね
畠山義綱 > 討伐令といっても信長の野望のようなものではなく、足利義昭が行った信長討伐のようなものでもありません。例えば守護大名に対して、「そなたの分国で、そちの命令を聞かぬ者は幕命で処分してよい」というようなものです。これはほぼ守護補任のようなものです。
武藤舜秀 > ん、たびたび地方から大名が上洛してきて納めてるのが臨時段銭ですか?
畠山義綱 > この国内討伐令によって、先の話題にもあったような浦上など下剋上で成り上がった者でも、幕府と言う公式権力の後ろ盾となるのです。
左馬頭義輝 > 足利家自体はもうこの頃は何の権力もありませんが、一たび権威による追討令を出せば各大名は大義名分が与えられたとして追討対象の大名を心置きなく退治できる・・・と
武藤舜秀 > それは大義名分にもなりますよね?
左馬頭義輝 > この大義名分こそが幕府の最大の武器なんですよね
左馬頭義輝 > たとえば浦上村宗などは主君赤松義村を殺しておきながら何のお咎めも無かった。これは幕府=このときは細川高国からお墨付きをもらっていたからなんでしょう
畠山義綱 > 公方様が出している具体例が、尼子と大内の争いです。義晴期には尼子は播磨の赤松を攻めていたそうです。義晴は赤松に庇護されており、尼子の討伐令を懇願したようですが、尼子も将軍に接近して義晴も迷ったみたいです。迷った末六角氏に相談すると「大内家に相談してみたら」と返事があったといます。国内討伐令のみならず、戦争を有利にするためにも討伐令は使われていたようです。
武藤舜秀 > 尼子氏って六角氏と同族なのに・・・
畠山義綱 > それを分かっていたから、義晴はそれを利用して幕府の復権を画策した、といえるのではないでしょうか。
左馬頭義輝 > さすがですね!修理殿!着目点がまさに正鵠!>尼子の討伐令
武藤舜秀 > でも、赤松も尼子を討伐できるだけの力ってあったんでしょうか?
畠山義綱 > 恐悦至極に存じます>公方様
左馬頭義輝 > 赤松vs尼子の戦いは結局阿波の細川持隆まで引っ張り出して泥沼化しましたし
左馬頭義輝 > 赤松はこの頃既に浦上に事実上支配されていて、赤松vs尼子の図式は浦上vs尼子に摩り替っていました
武藤舜秀 > 浦上が細川高国あたりに言って幕府を動かさそうと?
畠山義綱 > いえいえ、実際には赤松は尼子の侵攻を防ぐ目的だったと思います。それゆえ急に幕府に接近した。そういう事情があり、掲示板の事前資料にもあるように、「永正十一年〔一五一四〕  足利亀王丸、赤松義村を頼り播磨へ逃避」という状況が生まれたわけです。しかし、赤松の弱体化は覆うべくも無い状況だった。逆説的に言えば、それほど赤松は将軍の力を欲していたと言えます。
左馬頭義輝 > 義晴期前期は細川高国に全てを握られていましたから何の権限も無かった・・・
武藤舜秀 > でしょうね>侵攻防衛
左馬頭義輝 > 高国は最晩年、京を追われ起死回生の戦いを浦上に求めたに過ぎません。かつて亀王丸引渡しを指南した浦上ならばと思ったんでしょう
畠山義綱 > ここまでの自分の考えを整理すると、ひとつの仮説が浮かび上がりました。信長の野望などで有名になった義輝公の大名間調停外交。義輝の幕府再興計画のひとつとして扱われていますが、それは義晴の政策を受け継いでのことであった、ということです。
左馬頭義輝 > 左様に心得ます>修理殿
畠山義綱 > 逆説的に考えると、義輝同様、義晴も幕府再興の動きを活発化・加速化させていたと考えられますね。
左馬頭義輝 > 赤松義村は弱体化した自家を将軍遺児を抱くことで浦上を支配しようとしたんですが、まだ2歳の幼児では何にもできず・・・
畠山義綱 > そう考えると、だからこそ義晴・義輝期の将軍は京都からの動座(亡命)が多かったのでしょうか。幕府を再興させる画策ゆえ、味方も多くなったが敵も多くなった、と。
左馬頭義輝 > で、逆に下克上の申し子・浦上村宗に返り討ちにあってしまった>武藤様
武藤舜秀 > 偏諱や討伐令を繰り返しながら幕府の力をためようとう?
左馬頭義輝 > 義晴期後期はそう考えられます>修理殿
左馬頭義輝 > 自分が健在でありさえすれば、権威の行使はまだまだ継続できる・・・将軍も管領もそう考えたと思います
畠山義綱 > そういえば、10代将軍・義稙も京都動座が多かったですが、これも幕府再興にかけた戦いを真剣に行っていたため。ということは、動座が多い将軍=幕府権力強化のために様々な行動を起こした将軍ともいえませんか?
左馬頭義輝 > もっとも、権力の行使をもっとも欲しがったのは管領でしょうが・・・
武藤舜秀 > なるほど。
畠山義綱 > そう思うと、従来動座が多くて流浪の将軍など評価が低かった将軍義稙・義晴も最近の義輝公同様再評価される必要があると
左馬頭義輝 > 義稙の動座の多さは、自ら戦いに赴くわけではなく権威の裏づけで味方を募った動きと思われます
畠山義綱 > 将軍権力が停滞して管領やそれに準ずる実力者がいる場合は動座は少ない無いですか?例えば11代・義澄、14代・義栄、15代・義昭の前半
武藤舜秀 > 動座を逃亡と見るか再興への前進と見るかでは全然見方が違ってきますよね
左馬頭義輝 > 対して、義晴・義輝父子の動座の多くは合戦に望んでの動きと区別できますね
畠山義綱 > 確かにそうですね<義稙の動座
畠山義綱 > そうなんです!そう考えると義晴の評価がガラリと変わった気がします>武藤様
左馬頭義輝 > 実際、義晴は六角定頼と共に山科本願寺攻めに参加していますし。これは明らかに後期の動きですね
武藤舜秀 > 幕府内が静かならば無能でも運営はやっていける
左馬頭義輝 > 義晴の動座の圧巻はやはり中尾山城築城の逸話でしょう
畠山義綱 > 私もそうお思います。江戸幕府の将軍がそうですよね<幕府内が静かなら無能
畠山義綱 > どんな話でしょうか?>公方様
左馬頭義輝 > 防壁に石や砂利を詰めた鉄砲対策を自ら指示した行動は、戦う将軍の面目躍如でしょうね
武藤舜秀 > http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/gekokujyouseiken1.html
畠山義綱 > そんな義輝公ばりのエピソードが、義晴にもあるんですね。>公方様
左馬頭義輝 > これ、万松院穴太記にある話です
左馬頭義輝 > もっとも義晴はそれで力を使い果たしたのか、直後に死去してしまいましたが
畠山義綱 > 「穴太に着いた義晴は前年来の病が癒えず、一歩も動けなくなっていた。果汁の粥をすすっての進軍であったが、それもかなわなくなった。」ってすごいエピソードですね。
武藤舜秀 > 穴太記ということは石積みの穴太衆側の記録なんですか?
左馬頭義輝 > この義晴の行動は結構涙ものです
畠山義綱 > 義輝が剣豪なのは、突発的なものならず、父親譲りだったのですね。
武藤舜秀 > http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/oshiro/kyoto/nakao.htm
武藤舜秀 > こっちの方が中尾城に詳しいかも
左馬頭義輝 > 義晴の終焉地が近江穴太の常在寺であったことからこの名があります>武藤様
武藤舜秀 > 血の気が多い将軍ですね。
武藤舜秀 > なるほど
畠山義綱 > 義晴と義輝が描く「幕府再興計画」の方向性がなんとなく見えてきましたね。
左馬頭義輝 > 義晴が中尾山城築城を急がせたのは義藤の行く末を案じての行動と思えます
畠山義綱 > そして、このお題のテーマも核心に迫ってきました。ではいよいよ義輝期の話題に入りませんか?
武藤舜秀 > 了解
左馬頭義輝 > つまり膨張しつつある三好長慶の力を自分の代で少しでも防ごうとする親心か
畠山義綱 > 武藤様の「将軍による幕府の方向性が見えてこない(泣)」という言葉が最大のヒントになりましたね!
武藤舜秀 > ん?この落穂ひろいってところは畠山様のところとリンクされていますね
武藤舜秀 > どうしたかったかというのが見えていない物で・・・
畠山義綱 > はい。ふーむ様のサイトですね。すごい考証の深さで定評のあるサイトです!<落穂ひろい
畠山義綱 > いえいえ、私もわかったつもりになっていましたが、武藤様のおかげでまとめることができました。やはり3人集まるとものすごい討論会になりますね(笑)
武藤舜秀 > 義輝公はやはり剣豪と言うことが目立っていますが、
左馬頭義輝 > 義輝期の核心ですか・・・長くなりそうです
武藤舜秀 > 剣豪という以上に将軍としても血の気が荒く、幕府再興に燃えていたと言うイメージが強いですね
武藤舜秀 > ただ、将軍としての力は乏しく、三好や細川の力を借りて幕府再興を志す・・・?
武藤舜秀 > こんな感じになるんでしょうか?
畠山義綱 > その幕府再興計画が、前政権を引き継ぐものであった。つまり義晴政権と義輝政権は連続している、という前提で見ていかねばなりませんね。
畠山義綱 > 大方、そのイメージが一般の歴史好きの義輝政権のイメージですよね。>武藤様
武藤舜秀 > 実際はどうだったのでしょうか?
左馬頭義輝 > 義輝の権力志向は、父義晴が見せた硬骨感を更に高じさせたところに凄みがありますね<義晴政権と義輝政権は連続している
畠山義綱 > 掲示板にある事前資料をみると、義輝期の政策に「天文二十二年〔一五五三〕 足利義藤、織田信長、斉藤義龍、上杉政虎らと謁見」とあり、新興勢力との関係を結び三好長慶に対抗しようという明確な戦略が見て取れます。しかし、結局は三好と和睦をする。
左馬頭義輝 > 義晴は将軍在位25年間、担がれる存在でしかなかったんですが、自身は決して傀儡に甘んじる気は無かった・・・
畠山義綱 > 私は三好との和睦を「理想論から現実路線への転換では?」と仮説を立ててみたいのですが
武藤舜秀 > 斉藤義龍とも謁見していたんですか?
左馬頭義輝 > その傀儡を非とする考えが少年の頃から常在戦場にあった義藤に力の思考が備わったんだと思います
左馬頭義輝 > 義輝としては、三好長慶はどうしても許せない存在だったんでしょうね。和睦したのは六角義賢の斡旋ですし
畠山義綱 > その義藤の想いが、「自身の剣の腕を強くする」ということの一旦だったのかもしれませんね
左馬頭義輝 > 現に上杉政虎と最初の謁見をした翌年には、早くも和議は決裂しています
左馬頭義輝 > 義藤が剣技に没頭し始めたのはこの頃と言われています
武藤舜秀 > 一説に、義輝と細川藤孝は兄弟だとか・・・
左馬頭義輝 > そしてこの頃居合わせた細川藤孝も同じように剣技を習っています
左馬頭義輝 > 左様にございます。異母兄弟です>武藤様
武藤舜秀 > 事実なんですか?
左馬頭義輝 > この辺りの描写は、加来構三著『細川家の叡智』に興味深く書かれています
左馬頭義輝 > ↑異母兄弟、剣技の熱中あわせて
畠山義綱 > 1552年の三好との和睦の崩壊は六角定頼の死去も影響してそうですね。
武藤舜秀 > 加来耕三さんってどうなんです?作家ですよね?
畠山義綱 > そこで、六角家に代わる新たな後ろ盾の構築に向けて「天文二十二年〔一五五三〕 足利義藤、織田信長、斉藤義龍、上杉政虎らと謁見」という動きがあったのでは?後ろ盾がなければ、三好と和睦しても対等に渡り合うことはできません。パワーバランスが崩壊していますから。
左馬頭義輝 > 義輝としては自分に接見してくる大名を見て権威の自覚は高まったと思います。逆にこのときある種の錯覚に陥った
左馬頭義輝 > 六角氏は年来の庇護者であり同盟者でもあり、これに上杉、織田、斉藤らが加われば三好ごとき!と思ったと考えます
畠山義綱 > 1553年〜1558年の義輝・三好長慶和睦まで、三好氏が自前の畿内政権を築いていた気になります。将軍権力によらない支配。
武藤舜秀 > 丹波の大名はこの時点では三好一派ですか?
左馬頭義輝 > よーく見ると、上杉、織田、斉藤らは皆下克上で主家を凌駕した者たちです
左馬頭義輝 > つまり彼らは自分の正当性を幕府に求め、それを瞬時に理解し取り込もうとした義輝の思慮がうかがえるようで面白いです
畠山義綱 > 1553年の時点で、義維の子・義栄が細川持隆に担がれて将軍を目指しますが、三好義賢の反対で頓挫します。この時もし三好家が一枚岩で義栄が将軍に就任していたら義輝の再起はなかったかもしれません。
左馬頭義輝 > 丹波はこの頃は細川晴元の最後の拠点でしたが、実権は既に波多野、内藤らに奪われていました>武藤様
武藤舜秀 > なるほど。
畠山義綱 > つまり三好長慶にとって、義輝との再和睦はムリ、義栄の擁立も難しい。それゆえの三好独立政権。それゆえ、義輝の近江動座も5年の長きに渡った。
左馬頭義輝 > 将軍権力によらない支配の限界は実際のところ長慶の思ってた以上に早く来たんだと思います>修理殿
畠山義綱 > そうなんです!結構いろいろな歴史学者が三好政権の脆弱性を語っています。本論からずれるし詳しくないのでそれは割愛しますが、5年後の1558年には再び義輝の力を欲するに至ったということになりますね>公方様
左馬頭義輝 > 畿内を制圧して初めて、長慶は畿内にある権門のありように戸惑いそして途方にくれた
左馬頭義輝 > 結局幕府が寺社や公家領の庇護者である以上、幕府権力が無ければただの征服者に過ぎず、最終的には袋叩きに会う以外ないと考えたのでしょう
畠山義綱 > ひとつの例が後奈良天皇の崩御でしょうか。崩御後、朝廷は三好長慶に葬儀費用の寄進を求めたそうですが、なかなか集まらずに葬儀は2ヶ月半も延期されています。つまり、三好政権は全国の大名に対する影響力はない畿内政権に留まった。それゆえに朝廷などの中央の連携に悩んだ、という感じでしょうか。
武藤舜秀 > なるほど
左馬頭義輝 > だから三好長慶全盛期の頃、畿内各所8カ国!(これはスゴイことです)支配していながら権力の行使がままならなかった原因と思いますね
畠山義綱 > 三好政権の概要はさらりと流して義輝政権の後期に入りましょう(笑)
武藤舜秀 > 河内和泉摂津大和山城丹波淡路讃岐阿波
畠山義綱 > 三好政権については僅か数行で核心を着いちゃいましたね(笑)
左馬頭義輝 > 義輝もこの頃になると長慶の力は認めつつも、三好は結局自分なしに存立し得ないと確信して最終的な和議に応じたんでしょう。ちょうどこの頃細川晴元も完全に衰退しきっていましたし
畠山義綱 > 義輝にとっても、1560年代の三好政権が十河一存死去や久米田合戦で三好義賢戦死などで斜陽であることも幕府権力再興に好都合だったのかもしれませんね。
左馬頭義輝 > 義輝はこの頃既に塚原卜伝から一の太刀の奥義を授かっており、将軍としての自我の確立が完成していたものと思います
左馬頭義輝 > ただ義輝の最大の錯覚と誤算はありましたね
畠山義綱 > 確かに、三好は1558年の三好政権崩壊と同時に、どんどん斜陽していき、状況的には義輝方有利になるのですが、松永久秀という新たなやっかいものが出てきました。
武藤舜秀 > 三好以上の厄介者・松永!
畠山義綱 > ウィキペディアの松永久秀の項にこんな記述を発見しました「(松永久秀は)永禄4年(1561年)にそれまで称していた藤原氏から源氏を称するようになった。またこの頃、足利義輝から桐紋と塗輿の使用を許されたが、これは長慶親子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる。」
左馬頭義輝 > 錯覚は、新興の大名に調停や偏諱を与えても、彼らは本質的に幕府を否定する立場だし、それらの台頭を意味することであって決して将軍権威の復活にはつながっていないこと
武藤舜秀 > 幕府による懐柔作戦ですかね
畠山義綱 > 義輝公は松永久秀を三好長慶を牽制する役目として期待していたのでしょうか?
左馬頭義輝 > そして最大の誤算は松永久秀の台頭
左馬頭義輝 > いえ、義輝は上杉輝虎同様久秀を蛇蝎のごとき忌み嫌っていたフシがあります
畠山義綱 > おお!その例が知りたいです<松永久秀忌み嫌う>公方様
武藤舜秀 > 知りたいです
左馬頭義輝 > 久秀の拠って建つところはつまるところ金以外なかったわけですから、義輝が久秀を利用するとすればその資金力以外なかったと思います
左馬頭義輝 > 実際、輝虎が永禄二年に二度目の謁見を果たしたとき、久秀誅滅の話がかなり具現化したとされています
畠山義綱 > さらに新興大名だけでなく、守旧派の大名も積極的に接近していますね。例えば能登畠山家(畠山義綱)、駿河今川家(今川氏真)、伊予河野家、伊予宇都宮家(宇都宮豊綱)等が貢物の献上等しています。もちろん、どの大名も先の赤松の例のように自分自身の立場が危ないので、国内追討令などの公的な証がほしいと言う理由ですが。これも義輝が「幕府の再興への自信を深める根拠」になると思います。
左馬頭義輝 > これは近衛前久も加わっての謀議で記録もあります。ただ少し不確証ですが
畠山義綱 > 逆に言えば、それほど粛清したい人物であるにも関わらず、その資金を目当てにそれなりの優遇をしたということでしょうか。
武藤舜秀 > 嫌いながらも懐柔しようとすると言うことは漁夫の利を狙うとか・・・
左馬頭義輝 > 弾正誅滅の話を知ったときの久秀の狼狽は知る由もありませんが、このとき久秀のとった行動が輝虎への卑屈すぎるほどの接待を繰り返したそうです
畠山義綱 > 輝虎?というと上杉謙信へ久秀が接近していたのでしょうか?>公方様
左馬頭義輝 > 悔しいですが、この事例からも久秀があらゆる意味で一枚も二枚も上手だったんでしょうね
左馬頭義輝 > 久秀が「自分は無害ですよ」と言わんばかりに輝虎の元へ足しげく通ったみたいです。輝虎としては迷惑千万でしょうが
畠山義綱 > 輝虎を介して将軍・義輝に圧力をかけよう、という具合でしょうか。
畠山義綱 > その資料の出典を教えていただけませんでしょうか!すごく興味深いです<松永久秀と上杉輝虎(謙信)
左馬頭義輝 > 大体は『言継卿記』ですが、似たような記述は『細川家記』にもあります。後者は特に細川藤孝から見た世情の様子などを記していますので信憑性は高いと思います>修理殿
畠山義綱 > 公方様ありがとうございます。松永久秀かぁ、やはりもっと調べなきゃいけませんね。信長に関係する人物なのであまり興味がなく全然知りませんでした<輝虎へ久秀が接近
武藤舜秀 > なるほど
左馬頭義輝 > 義輝としては卑屈にへりくだった久秀を見て、いつでも討伐できると思ったんでしょう。これが最大の誤算でしたね>武藤様
畠山義綱 > しかしなぜ、将軍義輝が検討して近衛前久まで相談になった、久秀の粛清が行われなかったのでしょうか?
武藤舜秀 > しかし、ここまで三好が憎いのに将軍自身で討伐令出さないんでしょう?
畠山義綱 > う〜ん、そうでしょうか。三好家の1560年代の大量変死を考えると、松永久秀の粛清の必要性を強く痛感するのですが。
畠山義綱 > 義輝が冷静だった、という気もします。結果論ですが足利義昭は信長追討令で逆に追い込まれましたよね。勝てる確証がないかぎり自らの首を絞めるだけのような気がします。<三好討伐令
左馬頭義輝 > 先ほどの『細川家の叡智』では、輝虎が義輝に対し久秀誅殺を申し出てこれを義輝が思いとどまらせた記述があります。出典が不明なので想像でしかないのですが、久秀のヤッコのような態度に義輝が引っかかってしまったのかと・・・う〜何だか悔しいぞ
武藤舜秀 > そういうことになりますか。義昭がやったように三好包囲網ってのはなかったんでしょうか?
武藤舜秀 > それは聞いたことあります。>松永誅罰
畠山義綱 > 恐れながら申し上げます。私はもう少し義輝公の肩を持ちたいと。久秀誅殺思いとどまらせるような状況だったのではないか、と思うのです。かなり警戒心が強く暗殺が裏目に出るとか。>公方様
左馬頭義輝 > 義輝としては、長慶が健在なうちは三好は使える駒、長慶亡き後は自軍に取り込もうとしたのかも。現に大名家への調停や偏諱はこれ以降かなり多くなっていますし
武藤舜秀 > 上杉輝虎は5000の兵を引き入れてきていて、もしも義輝公の命が下れば直ちに松永を討ちましょう
武藤舜秀 > なんて言ってたような気がします
左馬頭義輝 > ありがたいお言葉痛み入ります。世上の義輝の評価は必ずしも高くありません。修理殿のお言葉、感涙の極み・・・>修理殿
畠山義綱 > 長慶死去が1564年ですが、それ以降に大名家への調停や偏諱はこれ以降かなり多くなるのでしょうか。
左馬頭義輝 > それです。輝虎二度目の上洛は兵を引き連れての行動でした>武藤様
武藤舜秀 > やはり合っているんですね
畠山義綱 > ひょっとすると、三好追討令がでなかったのは周囲の大名の動きにもあるのではないでしょうか?織田信長追討令は周りの大名も脅威に思っていて、将軍の追討令は渡りに船の状況でした。それに対して三好の場合はそれほど周囲の大名に脅威を与える存在ではなかったのではないかと思います>武藤様
武藤舜秀 > それ以上に、三好を敵とする勢力も少なかったのではないでしょうか?
武藤舜秀 > 主な敵と言えば赤松、河内畠山、将軍家・・・
畠山義綱 > 父・義晴政権との連続性を考えた時、三好長慶との和睦は有り得ないと思うのです。ということはかなり義輝は理想論と現実論のバランスの取れていた人物だと私は思っています。その義輝が久秀誅殺を中止したのであれば、何かしら義輝の意図したものがあったのだと思うのです。それが久秀の行動を見抜けないほどのものとは到底思えないのです。
畠山義綱 > そうです!私もそう思います<三好を敵とする勢力>武藤様
武藤舜秀 > その一方、義昭の時の信長の場合は敵ではなかった物の、将軍を担いで落としたために敵が増えただけでしょうか。
左馬頭義輝 > 勿論、義輝なりに久秀の危険性は察知していたと思います。当時の二条御所はまるで城砦のようであったと言われていますし。不測の事態には何らかの手立ては打っています>修理殿
武藤舜秀 > 三好は将軍を上げたもそれほど落としはしなかったけど、信長は将軍を上げて落とした
畠山義綱 > 例えば久秀の誅殺が成功したとしても、それに対する報復措置を考えての中止などがあったのではないでしょうか。
武藤舜秀 > 上杉が帰ってからの報復ですか?
畠山義綱 > 私もそう思います<信長は将軍を上げて落とした>武藤様
左馬頭義輝 > 義輝が三好を手なづけようとしたのは、ひとえに直下の久秀の危険性を三好で防ごうとしたのかもしれませんね
畠山義綱 > なるほど。だからこそ久秀を義輝も身分の上で優遇したと。<直下の久秀の危険性
左馬頭義輝 > 義輝は伊賀者を使った諜報機関が意外なほど発達していたと考えられますので、大和にあっての久秀の行状や長慶亡き後の三好の状況などある程度把握できていたものと考えます
畠山義綱 > というと、久秀の義輝襲撃は、「義輝が思い通りにならない」に加えて、「久秀の個人的な報復」という側面もあるのですね。
左馬頭義輝 > あ、この場合の伊賀者とは伊賀上野一之宮城主森田浄雲のことです
畠山義綱 > それではなぜ、久秀の襲撃をかわすことができなかったのでしょうか<伊賀者
左馬頭義輝 > その通りと思います>修理殿
武藤舜秀 > ほうほう
畠山義綱 > 上杉もいつまでも在京できるはずはないですからね。直轄軍がほぼないに等しい将軍は常に暗殺の危険にさらされます。その点将軍からのアクションは慎重でないと自らの身を滅ぼしかねません>武藤様
左馬頭義輝 > まず全く不意を突かれたこと、そしてよもや三好義継が久秀と同心するとは想像だにしなかったことでしょうね
左馬頭義輝 > 三好三人衆には三好長逸のようにある程度出来た人物もいた、にもかかわらずです
左馬頭義輝 > 久秀の思考はまさに一事が万事、常人ではおおよそ理解不能な思考回路であったことも義輝の判断を遅らせた一因かと・・・
畠山義綱 > なるほど。ということは、実は三好長慶が義輝暗殺の時期に関係していた、と。三好長慶は義輝の暗殺に反対していたのではないでしょうか?その長慶が1564年に死去したからこそ、暗殺が翌年に実施された。
小姓 > なまや殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > 確かに将軍暗殺というの常人ならざる行動ですからね。あの信長ですらも久秀の行動に、「こいつ(久秀)はすごい男だと」言っていたようですし。
畠山義綱 > なまや様、こんばんわ。
武藤舜秀 > こんばんは>なまや様
畠山義綱 > 将軍暗殺は、あの猜疑心の強い6代・義教でもやられてしまうような出来事です。不意をつかれる隙は十分にありそうですね。
なまや > こんばんは
武藤舜秀 > でも、義教暗殺以降歴代将軍でも殺されると頭に入っていたのではないですか?
なまや > 難しいので退室します。失礼しました。
小姓 > なまや殿が退室なされましたぞ。
武藤舜秀 > むずかしい・・・
武藤舜秀 > やはり、この時代は難しいのですね
畠山義綱 > もっと言葉を平易に使わねばなりませんね。勉強になります・・・。
武藤舜秀 > (^-^)
畠山義綱 > 最後の将軍義昭でも追放に留まっているあたり、いかに将軍謀殺が天下の罪としての意識があるか、わかる気もします。
左馬頭義輝 > もとい・・・暗殺の危険性は歴代将軍共通の問題だったでしょうね
畠山義綱 > そろそろ11時と時間も過ぎていますし、まとめましょうか?
武藤舜秀 > もう23時ですか
左馬頭義輝 > 身供、『足利義維が「堺公方」と言われるほど実力を持っていた時期』を丁度外していたようです。何か結論達しましたでしょうか?
武藤舜秀 > どうなっていましたっけ?
左馬頭義輝 > もし次回も同様な討論会が催されるのであれば、この足利義維も加えたいなと思うのですが・・・足利義栄とのリンクで
畠山義綱 > 「堺公方」については、義晴期の権力低下のひとつの証左として使われただけであまり深入りはされませんでした。
畠山義綱 > ただ、「堺公方」と亡命中の義晴で間で、朝廷がどちらに味方するか困るだろう、という話もでました。実際は、「堺公方」に左馬頭を任官したけど、将軍の地位は与えていない、改元の相談などは亡命中の義晴にされているという点で、義晴重視で義維も保険で朝廷は交渉していた、という結論でした。
左馬頭義輝 > 「堺公方」は細川晴元の阿波衆か丹波衆かの選択で著しく左右されたものと認識しております。一度時間をかけて話してみたいですね
畠山義綱 > 次のテーマでやりましょう。もしくは番外編で!>義維
左馬頭義輝 > まとめの主眼、何に置きましょう?
武藤舜秀 > ふむふむ
左馬頭義輝 > 面白そうですね。単独で実施しても面白いかもです>義維
武藤舜秀 > それまでに戦国三好一族熟読する必要がありますね
畠山義綱 > 「義晴・義輝時期の幕府の位置づけ」でどうでしょうか?
畠山義綱 > う〜む買おっかな?<戦国三好一族
左馬頭義輝 > 幕府は国政の最高機関であり続けた、でどうでしょう
左馬頭義輝 > 受け売りになりますが・・・
左馬頭義輝 > 幕府は国政の最高機関であり続けた、でどうでしょう
武藤舜秀 > まとめるとすれば、「力のない武闘派将軍による外交戦争」
左馬頭義輝 > これ、上島有著『戦乱と一揆』から導き出された結論です
武藤舜秀 > 三好一族> http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=13502
左馬頭義輝 > まさにその通り(爆)>修理殿
畠山義綱 > 「力のない武闘派」とは面白い表現ですね。
左馬頭義輝 > 室町幕府は甚だ脆弱で、権力の交代・中断があってもなお国政を司る機関は室町幕府でしかなかった、と言うのが論述です
畠山義綱 > 権力を奪われた将軍たちが、権威を背景に幕府の再興を目指した時代。だからこそ頻繁に動座が行われ、将軍自身での権力回復にこだわった。また、もっとも盛んに行われた大名協調外交の時代でもある。って感じです。長いか・・・。
武藤舜秀 > 一言で言えばそうなりました。
左馬頭義輝 > でも義輝は丹波の戦いで松永久秀を破ってるんですよぉ(泣)
武藤舜秀 > だから武闘派なんですよ>義輝様<丹波での合戦
畠山義綱 > 私は室町幕府の後期を「衰微」と捉えるのはどうかと思うのです。ある意味、室町幕府は形を変えて進化をしていると思うのです。時代とともに戦国大名が、高度な地方分権になりました。しかし、一方で下剋上の社会だからこそ、幕府の権威は高まったのではないか?とも思えるのです。時代の変化に合わせて幕府も変化しているといえませんでしょうか?
畠山義綱 > 一生懸命やっても結果がでないと人は無気力になってしまいます。例えば、足利義政もそうかもしれませんし、一条兼定、今川氏真もそうです。彼らも後半の人生だけで酷評される部分もあるのですが、前半のがんばろうとした人生もちゃんと評価しないといけないと思います。しかし、将軍義晴・義輝は最後まで混乱した日本、そして幕政を立て直そうと努力しました。その結果、過労死・・・というか無念の死去を迎えてしまったのではないかとも思います。
左馬頭義輝 > そうですね。地方が発展していながらも結局は幕府の存在なしには存立し得ない事実、これこそが室町幕府の権威であり国政の要であり存在意義でもあった。そう思います。
畠山義綱 > だからこそ、室町幕府は応仁の乱後100年あまりも続いたわけですよね。>公方様
畠山義綱 > では次で定例チャット最終回(一応、番外編もあるかも)ですが、義栄・義昭のお題を決めて終わりましょう。
武藤舜秀 > 最終回なんですか?!
左馬頭義輝 > 義晴・義輝はおそらく中世のくびきから必死に近世への脱皮を無意識に成し遂げようとしたんだと思います。でも結局思考がどうしても将軍と言う立場上劇的に変換できなかった。そこに悲劇と悲哀を感じます
左馬頭義輝 > 幕府の黄昏〜去り行く将軍たち〜 でいかが?
畠山義綱 > 一応15代将軍全て終わってしまうことになります<最終回
武藤舜秀 > 次、関東公方でやりませんか?
畠山義綱 > 激しく同意<義晴・義輝はおそらく中世のくびきから必死に近世への脱皮を無意識に成し遂げようとしたんだと思います。
左馬頭義輝 > 鎌倉公方・古河公方でやってみたいですね
畠山義綱 > いいですよ〜関東公方、古河公方、堀越公方、堺公方、小弓公方と入れればまだできますね。
武藤舜秀 > 犬公方
畠山義綱 > 義栄・義昭〜振り回された将軍たち〜もいいかと<次お題
左馬頭義輝 > う〜む 鎌倉・堀越・安房・古河・・・遠くなるなぁ
畠山義綱 > それは、江戸の5代将軍でしょう!(ツッコミ)>武藤様
武藤舜秀 > にやっ(^-^)v
畠山義綱 > さらに東北にも○○公方ってありませんでしたっけ?
武藤舜秀 > ありますね
畠山義綱 > 武藤様は次のお題いかがでしょうか?
武藤舜秀 > 稲村公方、篠川公方
武藤舜秀 > それで良いですよ>お題
武藤舜秀 > 斯波氏については http://okhome.fc2web.com/siba/index.html
左馬頭義輝 > 斯波氏も元々は奥州の出。行く末三管四職家も題材にしたいですね
武藤舜秀 > それも良いですね>三管四職
畠山義綱 > ではその辺りも含めて、次回に決定しましょう。次回は夏か2011年の正月でいかがでしょうか?
武藤舜秀 > え?来年ですか(笑)
左馬頭義輝 > 番外をどっかで設定して、年始と年始の間にやりたいですね
左馬頭義輝 > 番外はそれこそ段銭・棟別銭的な臨時扱いで(笑)
畠山義綱 > いや、私は次のお題が早くはやくやりたいです。この義晴・義輝期をうけての次の義栄・義昭が楽しみでなりません。それをお預けとはごむたいな(笑)
武藤舜秀 > GWあたりではだめです?
左馬頭義輝 > では主題を五月に、番外を適宜、仕切り直しで新たなシリーズをでいかが?
左馬頭義輝 > 特に次の主題は阿波が主役となりそうなので期待十分です!
畠山義綱 > う〜ん、GWの半分以上は仕事は毎年入っているので(泣)、ちょっと相談してみます。でも、裏を返せば家に居るのでチャットができる環境でもあります(笑)
武藤舜秀 > 阿波が主役?あわわわわ・・・
畠山義綱 > コラコラ!武藤様!合間合間にギャクをムリに入れないで(笑)
武藤舜秀 > ダジャレは大の得意なので
畠山義綱 > ではちょいと眠たくなってきたので、そろそろ落ちます。本当に充実した討論をありがとうございました。過去ログはできるだけ早く載せますので、よろしければみてください!>公方様・武藤様
武藤舜秀 > わかりました。私もトイレ行きたいのでそろそろ落ちます
左馬頭義輝 > 承知いたしました。年のせいか身供もそろそろ限界にございます。
畠山義綱 > では、次はGWにでも!時期が迫りましたら掲示板にカキコしておきますので、チェックをよろしくお願い申し上げます。
左馬頭義輝 > ではお先に失礼します。楽しい時間ありがとうございました。
小姓 > 左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。
武藤舜秀 > おやすみなさい>公方様
畠山義綱 > おやすみなさい!>公方様
武藤舜秀 > では、落ちます。
畠山義綱 > おやすみなさい>武藤様
小姓 > 武藤舜秀殿が退室なされましたぞ。
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。


−これにて終了−


☆参考資料(公方様がチャット討論会に先立って用意して下さった資料)

略歴年表

キーワード:堺大樹 将軍暗殺

キーパーソン筆頭:細川晴元 三好長慶

キーパーソン他:足利義維 細川高国 細川持隆 細川藤孝 三好元長 柳本賢治 三好義継 松永久秀

足利義晴
 永正八年〔一五一一〕 - 天文十九年〔一五五〇〕
 父:足利義澄
 母:末者阿与〔詳細不詳 九里氏の縁者か〕
 将軍在位:大永元年〔一五二一〕-天文十五年〔一五四六〕

足利義輝〔初名・義藤〕
 天文五年〔一五三六〕 - 永禄八年〔一五六五〕
 父:足利義晴
 母:近衛尚道の娘
 将軍在位:天文十五年〔一五四六〕-永禄八年〔一五六五〕

和暦 西暦 出来事
永正八年 一五一一 八月五日 足利亀王丸、近江九里氏館で誕生
永正十一年 一五一四 足利亀王丸、赤松義村を頼り播磨へ逃避
大永元年 一五二一 足利亀王丸帰京、元服し義晴と改名 第十二代将軍就任
播磨守護代・浦上村宗、守護・赤松義村を暗殺
大永六年 一五二六 六月、管領・細川高国、香西元盛を殺害
十一月、波多野稙道、柳本賢治ら丹波で蜂起 細川高国大敗
十二月、足利義維・細川晴元・三好元長ら堺に上陸
大永七年 一五二七 二月 足利義晴、細川高国・武田元光らと近江守山へ逃避〔江州大樹〕
六月、足利義維、堺で従五位・左馬頭叙任〔堺大樹〕
足利義晴、朝倉・六角勢と合流 下京合戦で入京
享禄元年 一五二八 朝倉孝景帰国 足利義晴、近江朽木へ逃避
足利義維・細川晴元、上洛せず堺に逗留 柳本賢治入京
享禄二年 一五二九 柳本賢治と三好元長の対立激化 三好元長、讒言により失脚
享禄三年 一五三〇 五月、柳本賢治の足利義晴帰京策失敗 柳本賢治、播磨へ寄留
六月、浦上村宗、柳本賢治を播磨で暗殺
六月、足利義晴、細川高国・浦上村宗らと共に摂津へ進攻
享禄四年 一五三一 二月、細川晴元、三好元長を阿波より再び呼び寄せる
六月、天王寺合戦 浦上村宗敗死 細川高国、尼崎で自刃〔大物崩れ〕
足利義晴、近江へ敗走
天文元年 一五三二 木沢長政と三好元長の対立激化
六月、細川晴元、本願寺証如と謀り三好元長を討滅
足利義維、阿波守護・細川持隆を頼り、堺より阿波へ帰国〔平島公方〕
七月、天文法華の乱勃発 法華宗門徒、山科本願寺を攻撃
足利義晴、近江守護・六角定頼と共に山科本願寺を攻撃
天文二年 一五三三 細川晴元・本願寺証如和睦
天文三年 一五三四 足利義晴、近江桑実寺で近衛尚道の娘と婚儀
六月、足利義晴帰京〔細川晴元の鞍替え〕
天文五年 一五三六 三月十日 足利菊幢丸、南禅寺で誕生
七月、延暦寺門徒と法華宗門徒下京で合戦 法華宗門徒壊滅〔法華の乱終息〕
天文八年 一五三九 三好長慶、細川晴元と対峙 摂津半国守護代となる
天文十一年 一五四二 三好長慶、河内太平寺で木沢長政を破る
天文十五年 一五四六 足利菊幢丸、元服し義藤と改名 第十三代将軍就任
天文十六年 一五四七 足利義晴・義藤父子、北白川城にて挙兵 細川晴元と対峙
七月、足利義晴・義藤父子、近江坂下へ逃避
天文十七年 一五四八 足利義晴・義藤父子、細川晴元と和睦 帰京
この頃から三好長慶と三好政長の対立激化
天文十八年 一五四九 三好長慶、細川晴元に対し挙兵 足利義晴・義藤父子、中尾山城築城
六月、江口合戦 三好長慶、細川晴元・三好政長らを破り三好政長討死
七月、三好長慶、細川氏綱を擁し入京
天文十九年 一五五〇 五月四日 足利義晴、近江穴太で死去 享年四十歳
十二月、中尾山城落城 足利義藤、近江朽木へ退避
天文二十年 一五五一 三月 足利義藤、刺客を用い三好長慶暗殺を謀るが未遂に終る
天文二十一年 一五五二 一月、足利義藤、三好長慶と和睦し帰京 細川氏綱管領就任
天文二十二年 一五五三 足利義藤、織田信長、斉藤義龍、上杉政虎らと謁見
足利義藤、和を破棄 細川晴元と同心し霊山城へ入城
八月、足利義藤、霊山城の合戦に敗北 近江朽木へ退避
天文二十三年 一五五四 足利義藤、義輝と改名
永禄元年 一五五八 六月白川口合戦 足利義輝・細川晴元、三好長慶と戦い敗退
足利義輝・細川晴元、三好長慶と和睦し帰京
十一月、三好長慶・義興父子、御相伴衆叙任
永禄二年 一五五九 足利義輝、上杉政虎と再度謁見 上杉政虎、輝虎と改名
永禄四年 一五六一 五月、細川晴元、摂津富田普門寺に隠棲
五月、十河一存死去
永禄五年 一五六二 三月、久米田合戦で三好義賢戦死
永禄六年 一五六三 六月、細川晴元死去
八月、三好長慶嫡男・義興、松永久秀により暗殺
永禄七年 一五六四 五月、安宅冬康、松永久秀の讒訴により誅殺
七月、三好長慶死去
永禄八年 一五六五 五月一九日、足利義輝、松永久秀らの襲撃を受け討死
享年三十歳

以上


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