定例チャット第十一回討論会、過去ログ14
「室町幕府と将軍権力〜義稙・義澄期流浪する将軍たち〜」

平成廿壱年睦月参日土曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:武藤舜秀様、公方様、畠山義綱)



小姓 > 武藤舜秀殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > あけましておめでとうございます
武藤舜秀 > チャットが去年の正月のまま・・・
武藤舜秀 > 宿禰守様、こんばんは&あけましておめでとうございます
畠山義綱 > あけましておめでとうございます>武藤様
武藤舜秀 > 去年は楽しかったですね
畠山義綱 > 本当にありがとうございます。江馬氏館とか、とっても印象深いです。最後デジカメの残量がなくなったのが残念でしたね。
武藤舜秀 > あれから4GBのメモリーカード買いました(笑)
畠山義綱 > 2人しかいませんが(苦笑)定時になったので、おいおい始めましょうか?
畠山義綱 > これで3泊してもデジカメ大丈夫ですね(笑)
武藤舜秀 > 先ほど宿禰守様が参加者のところに書かれていましたが。
武藤舜秀 > そうですね。次はどこへ行きましょうか?
小姓 > 左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。

左馬頭義輝 > あけましておめでとうございます
左馬頭義輝 > 修理殿、武藤様
武藤舜秀 > 公方様、あけましておめでとうございます。
畠山義綱 > あけましておめでとうございます>公方様
左馬頭義輝 > 少し遅れ申しました
武藤舜秀 > まだ始まってはいないので
左馬頭義輝 > 昨年はお二方、近江へご遠征された由、実に羨ましいです
畠山義綱 > お子様の面倒も大変なところ、お忙しいところありがとうございます>公方様
畠山義綱 > 近江だけでなく、能登や飛騨・美濃にも参りました>公方様
左馬頭義輝 > いえ、子供の成長を見られるのは親冥利に尽きるもの。結構楽しいですよ
武藤舜秀 > 私も跡継ぎがほしいです。
左馬頭義輝 > をををっ!畠山、姉小路、土岐!
畠山義綱 > 我が嫡男も着実に成長しておりまして、世継ぎへの教育を始めねばと思っております(笑)
左馬頭義輝 > 子は天の授かりもの、果報は寝て待て、でございます>武藤様
武藤舜秀 > ほかにも神保、冨樫もありますね。
武藤舜秀 > しかし、奥もまだいないわけなんで、まづ、そちらを先に(笑)
左馬頭義輝 > 頼もしい限り。成長の暁には、まずは守護代対策からですな(笑)
畠山義綱 > 飛騨の江馬氏館は庭園と会所が復元されておりますが、同館は花の御所をモデルにしたと言われます。なかなか美しい庭でした。
左馬頭義輝 > 近江、神保氏と言えば、本日の課題の義稙、義澄と大いに関係がありますね>武藤様
武藤舜秀 > 1月に大河ドラマの「花の乱」のDVDが出ます
畠山義綱 > 無論でございます(笑)専制政治をできるくらいの器量をつけようと思っております(爆)<守護代対策
武藤舜秀 > そうですね。放生津にもいきましたし。
左馬頭義輝 > ええっ!マジっ!?・・・もとい、本当ですか!?>花の乱
武藤舜秀 > 完全版です。
左馬頭義輝 > ううむ・・・段銭、棟別銭を・・・
武藤舜秀 > 私はレンタルします
畠山義綱 > 義稙・義澄を語るときにどうしても欠かせないのが、やはり「明応の政変」(1493)年かなと思いますが…
左馬頭義輝 > 身供、美濃は結構運びましたが、飛騨は全然。江馬氏館庭園、興味ありますね>修理殿
左馬頭義輝 > 近江朽木の秀隣寺庭園のような感じでしょうか?
武藤舜秀 > 朽木よりはましですね。
畠山義綱 > 国立歴史民俗博物館のこのページに詳しいです(http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/shoukyouto.html)<花の御所がモデル
左馬頭義輝 > 明応の政変、事実上の戦国時代の入り口ですね
畠山義綱 > 朽木は全然手入れされていませんからね。
左馬頭義輝 > 身供は明応の政変と、関東の堀越公方滅亡の両輪が戦国時代到来期と思っております
左馬頭義輝 > 応仁・文明の乱は決して戦国時代到来ではない
武藤舜秀 > 私は嘉吉の乱が戦国時代到来だと思っています。
畠山義綱 > ここに、江馬氏館庭園の写真あります(http://blue.ap.teacup.com/applet/noto/200810/archive
左馬頭義輝 > 自治体の力もありましょうが、朽木は曲がりなりにも管領・細川高国の作庭、何とかして欲しいものです
畠山義綱 > 戦国時代論には様々ありますね。嘉吉の乱、応仁の乱、伊勢親九郎の伊豆進攻、明応の政変などなど
畠山義綱 > 朽木庭園は無料で見学できる利点がありますが、やはりいいものは費用をかけて整備してもらいたいものです。
左馬頭義輝 > ありがとう存じます。早速貼り付けます>写真サイト・修理殿
武藤舜秀 > 旧秀隣寺って、なぜ旧?
畠山義綱 > ううん。発言が3つになりました。整理してどっから話しましょうか?戦国時代論?明応の政変?庭園?
左馬頭義輝 > 現在は興聖寺という名になっております>武藤様
武藤舜秀 > 興聖寺っていうお寺だから整備はしにくいのでしょうか?
畠山義綱 > 旧秀隣寺を現在は興聖寺(こうしょうじ)が管理しているという意味でしょうかね。
左馬頭義輝 > 明応の政変と戦国時代論は結構リンクしての論議がなされてますので、その二つで行きましょうか?
武藤舜秀 > それでいきましょう
畠山義綱 > 興聖寺は別のところに本寺があって、旧秀隣寺の整備には熱心ではないのかも(あくまで想像ですが)
左馬頭義輝 > もちろん、将軍が暗殺されたので、権威の失墜と言う点では広義の戦国時代とも言えますね>嘉吉の乱
畠山義綱 > 了解です。庭園トークもぜひ、後半でまたやりましょう!
武藤舜秀 > 私はそういう意味合いで嘉吉の乱=戦国時代到来と思っています。
畠山義綱 > 確かに将軍が一守護大名に殺されるというセンセーショナルな事件ですよね。ただ、その後の義政や義尚は一応将軍親政(義勝は不明)を行っています。
武藤舜秀 > 光秀が信長を殺した以上の下克上暗殺
畠山義綱 > その後の応仁の乱は、義視と義尚の将軍家分裂を招きました。その結果地方が巻き添えを食って分裂しました。
左馬頭義輝 > 少なくとも、明応の政変以前の足利義材までには将軍権威は残っておりましたし>修理殿
畠山義綱 > いや、私は将軍権威(強制力を伴う権力とは別)は最後の義昭まであったと思っています。もちろん権力があったのは義材までだと思いますが>公方様
畠山義綱 > 嘉吉の乱では、中高の教科書ではあまり取り上げられませんですが、赤松氏は追討を受けてほぼ滅んでいます。室町幕府の権力が曲がりなりにもまだある証拠かと。(無論、将軍権力が嘉吉の乱で著しく低下したことは事実です)
武藤舜秀 > ところで、義尹ってなんていうんですか?
畠山義綱 > 義尹で「よしただ」だったかな?
左馬頭義輝 > そうですね、権力は義材も持っていましたね。だから畠山政長や若狭武田、赤松なども一声の元動員できた
武藤舜秀 > よしただ。ですか。
武藤舜秀 > 新語登録しておかなくては・・・
左馬頭義輝 > よしただ です>武藤様 修理殿
畠山義綱 > ある意味、将軍を追放し、自分の思い通りの将軍を立てた「明応の政変」の細川政元も下剋上だと思います。しかも、政権の中枢を維持するところがやはり下剋上。(前述の赤松は権力を維持するどころか追討されているので)
武藤舜秀 > 下克上でしょうね。
左馬頭義輝 > 政元の場合、結構はっきりとした権力簒奪の意思は持っていましたね
畠山義綱 > 赤松=追い込まれての反逆。細川=計画的な権力奪取のための政変と思えます。
畠山義綱 > その通りです>公方様
畠山義綱 > とすると、どうして細川政元は政変を起こそうと考えたのか、それだけの権力を持ちえたのかを考える必要があるかも。
左馬頭義輝 > まぁ、政元はそれ以前に山城国一揆を見てきてましたし、それが領国丹波に飛び火して立場が危うくなった焦りもあったでしょうが
武藤舜秀 > 1509年にも義稙襲撃されてますね。(暗殺未遂)
畠山義綱 > えっ!?そうなんですか?その詳細は?<義稙襲撃>武藤様
左馬頭義輝 > 政元が欲したのは、領国の直接統治だと思います。だから山城国人の被官化を執拗にやってみたり、丹波国一揆は根切りにしてみたり
武藤舜秀 > 足利義澄・細川澄元が起死回生をかけた暗殺未遂だそうです
畠山義綱 > ということは、幕府政治を統制する主体的意思はなかったのでしょうか<領国の直接統治>公方様
武藤舜秀 > 実行者は円珍という甲賀者。
左馬頭義輝 > 義材はその前にも、日野富子から毒殺されそうになりました。捕らわれて越中に逃れる直前です>修理殿、武藤様
畠山義綱 > なるほど、義稙が将軍復位して一年後ですからね<掲示板予習から
左馬頭義輝 > 政元は当時の為政者としてはかなり完成された実力者だと思います
畠山義綱 > なぜ、そんなに将軍の権威が義稙期になって軽くなったんでしょうか?(義稙以降、将軍が京都にいない期間が多くなるので)
武藤舜秀 > ちなみにその日は宴会をやった後で、みんな寝ていたようです。襲撃された義稙に呼ばれて近臣が気づいたそうです
左馬頭義輝 > 義材廃位のあと、物凄く周到な準備で足利義遐を擁立し「下克上」を一応有名無実化させてしまった
畠山義綱 > とういことは、暗殺は未遂でも襲撃は実行されてしまったんですね>武藤様
左馬頭義輝 > だから、「室町殿」で最も権威がなかったのは義澄(義遐、義高)だと思います>政元
武藤舜秀 > 義稙も7〜9カ所傷を負っただけですんだようです
畠山義綱 > 「義昭」よりもですか?>公方様
畠山義綱 > そういう話(襲撃)を聞くと、義輝公の襲撃事件を彷彿とさせますね>武藤様
左馬頭義輝 > 義昭は御教書の発行で諸大名を動かせる力を持っていましたが、義澄は命令一下、誰も動きませんでした>修理殿
武藤舜秀 > そうですね。明応の政変の時にも政元は上原元秀を遣わして義稙を追討していますね。
畠山義綱 > 山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館によりますと、権力がないとされる義澄時代でも、義澄が政元の政策に反対し「出家する」と御所を退くと、政元も出家のところに言って謝罪するを得なかったとありました。全くの傀儡ではないような気もしますが…>公方様
武藤舜秀 > でも反対して「出家する」っていうのは・・・自分が傀儡だということに気づいていたんですかね。
畠山義綱 > その通りだと思います。権力があれば表だって反対しますゆえ。ただ、鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍と比べると義澄の方が権威を持っていると思えるのです。>武藤様
武藤舜秀 > 確かに鎌倉は公家のくせに政治に口出すな」的なものがあるんではないでしょうか?
左馬頭義輝 > 義澄が出奔したのは京・岩倉で、出奔前に政元に対し後柏原天皇の即位式を求めるなどの五か条を提示したのですが、政元の謝罪で京に帰ってみるとそれが簡単に反故にされてしまった
畠山義綱 > 全くの推論で主観かもしれませんが、細川政元も戦国期の三好長慶のように主体的な政治を行わなかったのでは?とも思ったのですが、織田信長のように将軍権力に取って代わるという意思はなく、あくまで管領としての地位で行動しているような気がします。
武藤舜秀 > そんなところじゃないでしょうか。
畠山義綱 > 公家は公家で武士は武士というのを執権・北条氏は利用していたわけで、細川氏は同じようなことをするだけの力はなかったのかなと。
左馬頭義輝 > つまり政元としては担げる公方であれば誰でもよかったわけで、その点義材は結構硬骨漢だったので扱いに駒って放逐したのでしょう
畠山義綱 > すると、なぜ政元は「一応の謝罪」をしてまで義澄の「復位」をさせたのでしょう。また将軍を廃位して新たな将軍を擁立したり、幕府を信長のように滅ぼす手もあったかと。
武藤舜秀 > 胤がなくなれば関東から跡継ぎをよんでくる・・・
左馬頭義輝 > 確かに政元と三好長慶は似たような行動をとっていますね>修理殿
畠山義綱 > そうですそうです。義澄自体が足利政知の子なので、また廃して関東から子を連れてくればという思いがあります>武藤様
左馬頭義輝 > 政元の存立意義は結局幕府以外にないため幕府を残す必要は是非ともあった
武藤舜秀 > でも、堀越公方も伊勢氏長に滅ぼされる
畠山義綱 > 1570年に織田信長が足利義昭に五ヵ条の掟書を突きつけて、それを入れないので結局1573年追放してしまいました。
左馬頭義輝 > ただ、義澄を廃してしまったら次の傀儡用の手持ちの駒がなくなってしまうのもまた事実です
畠山義綱 > やはり信長と政元の差はそこかと。そして、室町幕府の権威もそれに従い義稙期・義澄期もそこそこはあったと思うのですが>公方様
畠山義綱 > 傀儡用の手持ち駒がなくても自立できる信長と自立できない政元。
左馬頭義輝 > 関東では堀越公方が滅亡し、古河公方家からはとても呼べない、かといってまた誰かを還俗させれば今度こそ足元を見られかねない、そんな思いが政元にはあったのでしょう
武藤舜秀 > ほかに傀儡候補は・・・いない!古河公方しかいないです。
畠山義綱 > とすれば、そこに付け入った義澄の読みもまたなかなかと(ニヤリ…義澄やるなあ爆<)/FONT>
武藤舜秀 > 自分は殺されないとわかっているのでねぇ〜
畠山義綱 > 義稙は非常に主体的に幕政を立て直そうとする意思がありませんか?例えば義輝公のように。そこに政元は反発したのでしょうか?
左馬頭義輝 > 政元と信長の端的な違いは、被官化による不安定な軍事力と知行制による常備軍の存在、ってところでしょうか?
左馬頭義輝 > まったくそのとおりだと思います!>修理殿
畠山義綱 > 自分の利用価値を踏んで、なんと権力を取り戻そうとする点は義輝公と似ていますね>武藤様
武藤舜秀 > でも義輝公は殺されちゃいましたし。
畠山義綱 > 義勝・義政と幕政を重臣に任せる時期が続きました。義尚で親政が復活して六角討伐などが行われましたが、病死で短期間で修了。それに対し義稙は非常に意思が強かったのではないかと…。
左馬頭義輝 > 義稙の究極の目的は幕府権力の建て直しで、そのためには独自の軍事力が必要。近江遠征はその筆頭政策だったんでしょう
畠山義綱 > ある意味、義稙と違って義輝公は幕権強化が成功しすぎてしまったのかも。そのための暗殺とも考えられますね。
畠山義綱 > ということは、義尚政権が長続きしていれば同じように「政変」が起こっていた可能性がありますね>公方様
左馬頭義輝 > 実際義材の近江遠征はある程度成功し奉公衆が強化され、気をよくして次の河内遠征と続くわけですが・・・
武藤舜秀 > ちなみにそれ以前の将軍で遠征した将軍って義尚ぐらいですか?
左馬頭義輝 > 政元は、義尚のときも義材のときも近江遠征には頑強に反対してましたから、いずれにしても政変は起きえたでしょうね>修理殿
畠山義綱 > うん。なんか非常に義材政権の位置と政変へのつながりがスムーズに理解できますね<気をよくして次の河内遠征と続くわけですが・・・
左馬頭義輝 > 河内遠征は政元にとっての死活問題でして、どうしても阻止する必要がありました
畠山義綱 > どうでしょう?義満は大大名を処分していますし。義持も関東公方を滅ぼしています。義教もさかんに攻めていますね>武藤様
左馬頭義輝 > ひとつは管領・畠山政長の今以上の権力増大
畠山義綱 > ぜひ、その背景を!<河内親政>公方様
左馬頭義輝 > もうひとつは山城・大和の奉公衆侵食、ここ、両方とも政元が苦労して被官化した箇所です
武藤舜秀 > 河内遠征は政長は応仁の乱の時に細川方だったからですか?
武藤舜秀 > だったから阻止したかったのですか?
左馬頭義輝 > だから義材と政長が河内を制圧したら、次は山城と大和と言うことは目に見えていたことですから
畠山義綱 > なるほど、だからこそ公方様は「政元が欲したのは、領国の直接統治だと思います。」とおっしゃったんですね。
畠山義綱 > そうすると、幕府の権力手にしたかったのも自分の領国を守るため、そのために領国に介入してくる将軍の存在が邪魔だった。
左馬頭義輝 > ここで政元がとった行動が常人では考えられない。何と畠山基国(義就の子)と手を組んだ!
左馬頭義輝 > もはや応仁の乱も何もあったもんじゃないですね(恐)
畠山義綱 > 政元の行動は、応仁の乱における、山名宗全と細川勝元と同じですね。
左馬頭義輝 > 結局この当時、細川政元も畠山政長も同じことをしようとしていたわけです。政長の場合河内が大事で大和は知ったこっちゃないし
武藤舜秀 > 目的のためなら敵とも結んでしまう。
畠山義綱 > 義材の幕権強化の行動は、応仁の乱の義政政権の反動である、義尚政権の継続。だからこそ起こった管領家の反逆だったのですね。
左馬頭義輝 > それ以上に政長は政元の権力低下を望んでいたし、義材もそれは同じ。てことで政元は河内遠征というカモネギで一気に反対2大勢力の葬ってしまった
左馬頭義輝 > ある意味、政元は悪魔的天才の持ち主ですね
畠山義綱 > だからこそ、政局の中心になれたんですね政元は。
武藤舜秀 > 明応の政変 義稙派:畠山政長 清晃派:政元、畠山尚順、赤松氏、若狭武田氏、土岐氏、伊勢氏 といったところですか?
左馬頭義輝 > 目的のためなら敵とも結ぶ。まさに下克上を地で行ってますよね>武藤様
畠山義綱 > ナイスまとめですね。武藤様。でもこれだと義稙派が少なすぎますね。他にもどんな人がいたんでしょう?
武藤舜秀 > 清晃派が大内氏、古市氏
左馬頭義輝 > 畠山尚順は義稙派です。政変の後紀伊に落ち延びてます。ちなみにその後は稙長・長経・政国・高政・・
武藤舜秀 > ほんとだ
武藤舜秀 > 明応の政変 義稙派:畠山政長・尚順 清晃派:政元、畠山基家、赤松氏、若狭武田氏、土岐氏、伊勢氏、大内氏、古市氏
畠山義綱 > 畿内に勢力の中心がある義澄と、北陸・中国に支援勢力が多い義稙。
武藤舜秀 > ひょっとしたら大内氏も義稙派?
武藤舜秀 > 朝倉氏や能登畠山氏も義稙派?
畠山義綱 > そうです!>武藤様
左馬頭義輝 > 義澄には、政元暗殺後味方になったのは細川澄元・三好之長などの阿波衆しかいませんでしたね。悲哀
武藤舜秀 > 明応の政変 義稙派:畠山政長・尚順、大内氏、朝倉氏、能登畠山氏 清晃派:政元、畠山基家、赤松氏、若狭武田氏、土岐氏、六角氏、伊勢氏、古市氏
畠山義綱 > 見事守護大名たちが割れているんですね。こりゃ、幕府の権力が落ちるわけですね。
左馬頭義輝 > ところがところが、六角氏はその後義稙派に鞍替えします>武藤様
左馬頭義輝 > で、政元暗殺後はいよいよ細川家の二川分流時代が到来します
武藤舜秀 > あらら・・・六角氏が鞍替え。このときの京極氏の動きはどうだったのでしょうか?
畠山義綱 > ただ、義稙が将軍に復位した後、次に将軍になったのは義澄の子の義晴なのはどうしてでしょう。
左馬頭義輝 > 僭越ながら。義稙、義澄、義晴に至る守護大名の動きは物凄く複雑怪奇で、たぶんそれだけで本一冊できるんじゃないかと思います>修理殿、武藤様
畠山義綱 > 本当に複雑。ここはあまり単純にならない方がいいですね。大まかな全体像をつかんでいきましょう。
武藤舜秀 > 義稙には子供がいないのでしょうか。系図にはないですね
畠山義綱 > ただ「明応の政変」が起こった原因はだいたいつかめましたね。
武藤舜秀 > そういう本を出してほしいですね(笑)>公方様
左馬頭義輝 > たとえば六角氏、応仁の乱では反細川、乱後は親義材、明応政変後はどちらかと言えば親義澄、義稙復帰後は親義稙、とまあ目まぐるしいこと
畠山義綱 > 中間まとめ:「明応の政変」が起こった原因は、将軍足利義材の幕権強化政策にあり。自身の領国統治の深化を狙った管領・細川政元が将軍の存在を否定し起こしたクーデター。
武藤舜秀 > 六角氏は節操ないですね。
左馬頭義輝 > 義稙に子はいませんでしたが、阿波で義澄の子・義維を養子としています>武藤様
畠山義綱 > 義尚政権と義材政権の連続性というのが私的に興味深い。
武藤舜秀 > ライバルの子供を養子に?
左馬頭義輝 > 現在、取りまとめ中です(笑)何せ面白いんで。商売はできませんけどねぇ(寂)>武藤様
左馬頭義輝 > 将軍の存在を否定し起こしたクーデター>全くその通りだと思います!
武藤舜秀 > それしかないでしょうね。
畠山義綱 > ぜひそれで、サイトを作って欲しいです!<商売はできませんけどねぇ(寂)>公方様
左馬頭義輝 > 義晴、義維は二人とも義澄の実子ですが、義澄はその直後死去しているんで、二人とも親の顔など全く知りません>武藤様
武藤舜秀 > そういえば、将軍家のサイトってないですよね?
畠山義綱 > ここです→http://homepage3.nifty.com/yoshiaki/
武藤舜秀 > 義昭公のがあるんですか。
左馬頭義輝 > がんばってみます(笑)できるかなぁ・・・
武藤舜秀 > 義稙に子供ができないから二人を養子にしたのですか?
畠山義綱 > 応仁の乱と違ってあまり取り上げられませんが、義稙・義澄期ってまさに応仁の乱と同じ状態ですね。支援勢力が二分して裏切り、裏切られ。
武藤舜秀 > 戦闘こそ酷くはないので地味ですよね
畠山義綱 > 義維は義澄が没してから義稙の養子になっていますね。
左馬頭義輝 > いえ、義澄没後、義晴は朽木経由で播磨赤松氏へ預けられ、義維は澄元没落後阿波へ送られています。このとき義稙は義維を養子とした訳です>武藤様
畠山義綱 > 急ぐ必要はありせんので、ゆっくりとお考えをまとめて世に公表してください!応援しておりますゆえ<サイト>公方様
左馬頭義輝 > この義晴の子が後の義輝・義昭、義維の子が後の義栄で今に続く阿波公方家
武藤舜秀 > 私が言いたいのは敵の子供を養子にしたということなんですよ。やはり、この時代はそういう概念ってなかったんでしょうか?
左馬頭義輝 > ありがとう存じます>修理殿
左馬頭義輝 > 身供の推測ですが、義維は親を見たことがありませんし当時比較的安定していた阿波で大事に育てられていた
左馬頭義輝 > で、たまたまそこにいた義稙が阿波で世話になっているうち阿波に気心を寄せて同じように流浪してきた義維と親子同然の間柄になった
武藤舜秀 > そんな感じだったんですか?
左馬頭義輝 > だから義維としては自分を弄ぶ畿内衆よりも阿波衆の方がずっと大事にしてくれると思ったんじゃないかなと思うんです>武藤様
畠山義綱 > 阿波公方資料館でもらった資料にも同じようなことが書いてあります。「若い新妻と近江に逃れた実父足利義澄に捨てられ京都に残されてしまった我が母である先妻清雲院はわたしを産んだ」
武藤舜秀 > では、義維としては将軍には興味がわかなかったのでしょうか。
武藤舜秀 > 湧かなかったにしても担ぐ人がいればならざるを得ないでしょうが。
畠山義綱 > 「顔すら知らぬ父の死に悲しみすらわかず、母とともに京都の細川館にかくれすんでいた。」
左馬頭義輝 > 義維の将軍への執着は高かったと思います。ただその支援勢力が細川晴元と三好元長だったのが彼の不運でしょう>武藤様
武藤舜秀 > うーん、要するに、浮気相手と蒸発した親父を恨んでいたということですか?(笑)>畠山様
畠山義綱 > そして、義稙が京都に戻ったとき、清雲院が面会したとき、義維の養子縁組を申し入れた(義維の境遇に哀れんだ)とあります。「義維をこの十代将軍義稙の後継者とし、次の将軍とする」とあります。
左馬頭義輝 > 義維についての資料が少なく推測でしか語れませんが、生誕後の足跡など詳しい文献などがあれば是非ご教授くださいませ>修理殿
畠山義綱 > 我がサイトですが、一応「足利義維」について語っております(http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/retuden/ashikaga_yoshitsuna.html
畠山義綱 > 文面からするとそうなりますね。ただ、これは阿波足利氏方の資料ですので、美化されている気もしますね。同じ境遇に哀れんで養子にしたと考えるのが妥当かもしれません。ただ義維の将軍への執着はかなり熱いものがあるので、相当に父義澄をうらんでいるのでしょう。
畠山義綱 > 後に義維は義晴と対立して「堺公方」として幕府の権力を握ろうとしていますので。それが叶わないとみるや息子の「義栄」の将軍就任に執着していました。
左馬頭義輝 > ところで、義澄死去の地が近江岡山とありますが、史跡としては残されているんでしょうか?義晴死去の地として近江穴太と並んでよく判らないんです
左馬頭義輝 > 顔を知らない親を恨むのも悲しいことですが、実の兄とも争うと言うのも何か哀れですね。義維の境遇>修理殿
武藤舜秀 > 私もあまり南の方は行っていないのでよくわからないですね。
畠山義綱 > 将軍家という血筋を担がんがために周りが色々と利用した結果ですね。現代で考えるととてつもなく寂しいことですね>公方様
武藤舜秀 > 守山城物語には足利義足が岡山城にこもる足利義澄を攻めるとありますが・・・義足?
武藤舜秀 > 誤植が多いから誤植なんでしょうが。
左馬頭義輝 > 義澄は義稙と違って大きな流浪は経験していませんが、その生涯が完全に義稙の生涯に内包され、その存立意義が傀儡としてのみあったという点に悲哀を感じます
畠山義綱 > 『阿波の足利 平島公方物語』(那賀川町役場発行)によると「細川家を二分した、舟岡山の決戦の火ぶたが切られようとしていた。義澄はこの決戦を待たずに永正八年八月十四日、近江の岡山城中で病を得て、三十二歳の一生を終った。」とあります。
左馬頭義輝 > おそらく管領・細川高国率いる幕府軍を「足利義尹率いる」と誤植したのではないかと。管領が率いても幕府軍でしょうし>武藤様
武藤舜秀 > 近江で陣没とは義尚と一緒ですね。
畠山義綱 > あっ、この本に義晴は義澄の和妻の子とある。捨てられた先妻の子の義維と対立する理由が生まれたときからあったわけですね。
左馬頭義輝 > 異母兄弟・・・事態を深刻化させるには充分な背景ですね(恐)>修理殿
畠山義綱 > 見方を変えると、異母兄弟という背景を利用して義稙は養子にしたのかもしれません。義澄派の取り込みを狙ったとも(想像の域を出ませんが)
左馬頭義輝 > 近江岡山>知っている限りでは南近江守護代・伊庭氏の家臣・九里氏の拠点ですね
畠山義綱 > さっき書きかけで忘れてしまったんですが、「明応の政変」というのはちょっと言葉がたらないのかなと思います。というのは、義澄が将軍になって以降、義稙と義澄でたびたび合戦が起こっている状況を考えると「乱」と定義する方が適切ではないかなと思うのですが。
武藤舜秀 > 九里氏の本貫地は蒲生郡九之里ですね<。/FONT>
左馬頭義輝 > 何だか義晴、義維、堺大樹の域に入っていきましたね。進むべきか留まるべきか・・・(笑)
畠山義綱 > 「応仁の乱」というとその後も争いが続いた感じがありますが、明応の政変というとクーデターが成功して終ってしまったという感じがします。しかし実際にはその後も義稙・義澄は一進一退。
畠山義綱 > 政権論を語る上で次の話はやはり必要ですので進むべきかと。しかし大論はあくまで義稙・義澄であるのがよろしいと思われます>公方様
畠山義綱 > おお!恐れながらも地方大名である私が公方様に進言してしまった(笑)
左馬頭義輝 > 明応の政変はよく明応のクーデターとも呼ばれています。これは政元がただ一つの戦で政敵・畠山政長を屠っただけであとは政治的な駆け引きが主流であったためと思います>修理殿
左馬頭義輝 > 政変後、畿内での大乱は坂本での義稙・政元の戦が合ったくらいで後は義稙の周防落ちで一応安定しましたから
畠山義綱 > 1493年だけをみると確かに「明応のクーデター」で終るのですが、その後の流れを考えると、義稙が北陸勢を得て上洛、中国勢を得て上洛など「明応の乱」とも言える状況があるのではないかと。>公方様
左馬頭義輝 > で、政元暗殺から細川澄之討滅、義澄・義稙の舟岡山合戦までが永正の錯乱というくくりで枠取りできるのではないかと
畠山義綱 > その通りです>公方様
武藤舜秀 > 船岡山の戦い 義稙派 細川高国、大内義興、畠山義元、畠山尚順、尼子経久、吉川国経、毛利興元、吉見頼興  義澄派 細川澄元、細川政賢、松田頼亮、畠山義英、赤松義村
武藤舜秀 > 阿波細川家と、その有力被官である三好之長は動向不明
畠山義綱 > 武藤様がおっしゃったように、応仁の乱と比べると「地味」なのが大きく取り上げられない原因かと(苦笑)
畠山義綱 > 背景が複雑すぎて理解するのが本当に苦労しますね。このあたりの時代は(特に畿内)
左馬頭義輝 > 政元暗殺後に登場した重要人物・細川高国。この人が義澄・澄元を裏切らず、義稙・大内義興勢との戦いを細川vs大内としていればある意味違った展開にもなったんでしょうけどねぇ
畠山義綱 > そろそろ開始3時間ですので、まとめに入りましょうか。
武藤舜秀 > ほんとだ、3時間ですね。
左馬頭義輝 > そうですね。将軍家だけでも分裂しているのに、管領家も分裂して収拾がつかなくなっている・・・大変だ。これは(笑)
畠山義綱 > あっという間ですね。しかも公方様のおっしゃるように、この頃の背景は語ろうと思うとそれこそ本が10冊シリーズくらいになっちゃう(笑)
武藤舜秀 > 足利将軍家について書かれている本てあんまりないですね。
畠山義綱 > この間、吉川弘文館の人物叢書で『足利義持』買いました!
左馬頭義輝 > 将軍家・細川家の相克が問題なんですが、これに畠山家、六角家、若狭武田家等々のお家事情も合わせるとそれこそ・・・
武藤舜秀 > 今谷氏が書いたのがあれば・・・
武藤舜秀 > 人物叢書って小説?
左馬頭義輝 > かなり古い本ですが、講談社現代新書新日本史4 戦乱と一揆 上島有著というのが簡にして要を得ており非常に面白いです
畠山義綱 > 今谷明氏の『室町幕府解体過程の研究』ですね。昭和時代までの室町幕府研究はほとんど管領などほとんど室町将軍の傀儡性などを記したものが多く、将軍の権力と権威を正面から捉えたものは少ないです。
畠山義綱 > 人物叢書は伝記です。
武藤舜秀 > 伝記ということは、研究したものではないんですか?
畠山義綱 > 私は 山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館.2000年が一番ですかね。戦国期の将軍家権力と権威を一番的確に分析しているのが山田氏だと思っています。
武藤舜秀 > いろいろ検討してみます。
畠山義綱 > 研究書よりは平易に書かれています。古文書の表記などありますので、フィクションはないと思います。読みやすさで言えば新人物往来社の「○○一族」くらいでしょうか。
武藤舜秀 > そういう程度ならば読んでみる価値ありますね。
畠山義綱 > では、まとめていきましょうか。テーマ:「室町幕府と将軍権力〜義稙・義澄期流浪する将軍たち〜」です。
畠山義綱 > 詳しく調べている時代(私なら戦国期)以外なら、やはりある程度平易に書かれていないと私には理解が難しいので(苦笑)
左馬頭義輝 > 義稙・義澄期まとめ>冒頭申し上げましたが、おそらくこの時期、最も将軍権威権力が衰微して言った時期であろうと思います
畠山義綱 > 義稙・義澄期まとめ>将軍親政を止めようとして政変や争いが頻発した時期。結果将軍の権力は失墜した。そこに周りの守護大名たちが複雑に絡んで対立を起こした。
武藤舜秀 > まとめるならば・・・「応仁よりの混乱を引き継ぎ将軍権力を失墜させた義稙・義澄の闘争」
畠山義綱 > すごい複雑な時期を3時間でまとめようとするのが大変ですね。次は「義晴・義輝期」ですね。いつものように副題を考えてきましょう。
左馬頭義輝 > まず義稙ですが、将軍権力の向上間近で明応の政変に遭い自らその権威を低下させてしまった
畠山義綱 > というと、義稙は権力向上を急ぎすぎたとみることができますか?>公方様
左馬頭義輝 > そして義澄。完全な傀儡で、細川管領家の存立意義にのみ利用されてしまった悲哀の将軍、となりましょうか?
武藤舜秀 > 義昭は?
畠山義綱 > 次回が「義晴・義輝期」で、その次が「義栄・義昭期」です>武藤様
左馬頭義輝 > 足利義材も畠山政長も細川政元もお互いとにかく急いでいたんだと思います。ただ実行に移した政元が勝ったのでしょう
武藤舜秀 > 義晴・義輝〜流浪の末の暗殺。細川氏の没落と三好、松永氏の勃興〜
畠山義綱 > 急速に改革を進めると反動も大きい。軟着陸をするには妥協が必要。という感じがありますね。江戸時代の後半のようですね。
武藤舜秀 > 義栄がまだ残ってましたね。
左馬頭義輝 > 信長の場合、義昭は自己の権力確立の暁には不要なものとして扱っていましたから最初から存立意義はなかったんでしょう>武藤様
畠山義綱 > 前回長続連様が提案した「〜室町幕府の黄昏〜」っていう副題もいいですね。
左馬頭義輝 > 義晴・義輝期>いよいよ我が将星の核心!わくわくします。復興にかける将軍たち
畠山義綱 > なのに、御内書を出して比較的権威を集めた義昭をうっとおしいと思ったのかもしれませんね。
左馬頭義輝 > 足利義維を加えても面白いかもしれませんね。将軍にはなれなかったけど左馬頭でしたし
畠山義綱 > いよいよ公方様の出番です!義晴は積極的に復興がなかなかできなかったですし〜
畠山義綱 > 副題は中間をとって「室町幕府と将軍権力〜義晴・義輝期復興にかける将軍たちの苦悩と三好たちの勃興〜」でどうですか?
左馬頭義輝 > この両者、とにかく戦、戦、戦・・・幕府の復興にまさに血道を開けようと抗った足跡に打たれます(泣)
武藤舜秀 > いいですね>畠山様
畠山義綱 > 義維は義栄と将軍を争ったので、そちらで扱った方が論じやすいかもしれませんね。
左馬頭義輝 > よろしいかと思います>修理殿
畠山義綱 > 次回のポイントはやはり義輝公の復権にかける勢いと暗殺事件の検証でしょう。
畠山義綱 > いや〜やはり話したりなので、リアルオフがしたいですな〜。
左馬頭義輝 > ではまたキーパーソンと略表を準備することにします(笑)長くなるかなぁたぶん
畠山義綱 > よろしくお願いします!>公方様
左馬頭義輝 > リアルオフ>身供的には、この義晴・義輝期でやってみたい・・・と思います
武藤舜秀 > みんなで旅行とか行くといいでしょうね。京都とかリアルタイムで話ができるわけですから。
畠山義綱 > 夏くらいにリアルに京都でリアルオフを募ります?
左馬頭義輝 > ただ時間の周波が合わないことには難しいですね(泣)
武藤舜秀 > 夏あたりいいですね。鱧を食べながら一杯きゅう〜っと
畠山義綱 > そうですね〜。仕事の都合もありますゆえ…。今回試しにメールなどのやり取りで3人の予定を夏に合わせてみませんか?実現するかしないかは別にして。
左馬頭義輝 > 京で開く上は、二条御所(否二条城)を皮切りに・・・
畠山義綱 > どこぞやのマンションの1階に花の御所の庭があるみたいですよ
武藤舜秀 > やりましょう。是非にも。
左馬頭義輝 > いいですね!それ!>修理殿
武藤舜秀 > 私は土日を重ねていただければいくらでもok
左馬頭義輝 > うーむ、史跡木っ端微塵。悲しくもあり憤りもあり
畠山義綱 > 一部らしいですが(私有地なので、おおみっぴらに入るわけにはいかず)。室町幕府の御所が今やマンションのエントランスとは…この国は一体どうなっているんでしょう…
武藤舜秀 > そのマンションの住民になってみたい気もいたします(笑)
畠山義綱 > 住民になりたい気もしますが、一方で恐れ多く感じるやもしれません。<花の御所庭マンション
畠山義綱 > では時期は夏ごろ(7月か8月)で、場所は京都。1泊2日くらいかな?午前中について史跡周りをして、夕方から次の日にかけてリアル討論。という感じでしょうか?
武藤舜秀 > 1泊2日ですか?
左馬頭義輝 > 夕方から次の日にかけて>朝まで討論!ですか、すごい!
畠山義綱 > 2泊だと仕事の休みが取れるかどうか…。
武藤舜秀 > 2泊3日がだめなら1泊2日で
畠山義綱 > あっもちろん夜はしっかり寝ます(笑)飲んで寝て、朝起きて討論。
武藤舜秀 > 上御霊神社には是非とも訪れてみたい。
左馬頭義輝 > 二部構成ですね
武藤舜秀 > 西陣や、船岡山のあのお店にも(笑)
畠山義綱 > 詳細はまた詰めていきましょう。
武藤舜秀 > あのレストランですか。
武藤舜秀 > 考えるだけでもわくわくします
畠山義綱 > おいしかったですよね。あのお店!>武藤様
武藤舜秀 > 時間に余裕があるのならば丹波や近江にも攻めてもいいかと思います
武藤舜秀 > 行きたいなー
左馬頭義輝 > 本年最大の大戦、陣立てを考えておかねば・・・
畠山義綱 > 時間の関係もあるので、訪れる場所と討論の時間を調整しないといけませんね。私はまず花の御所庭マンションに行きたい…。
武藤舜秀 > それまでに軍旗Tシャツ作らなければ
武藤舜秀 > 場所はご存じですか?>花の御所マンション
左馬頭義輝 > 山科本願寺跡・・・行けるかな?
畠山義綱 > 私も二引き両Tシャツが欲しい…。ネットで調べておきます<花の御所マンション
武藤舜秀 > 山科はまだいけると思います
武藤舜秀 > 二つ引き両作りますよ
畠山義綱 > 畠山関係のグッズがなかなかないので、ぜひぜひ!<Tシャツ
左馬頭義輝 > 花の御所>「足利将軍室町第跡」の石碑なら判りますが、そことは違います?
畠山義綱 > ここです→http://takayama.tonosama.jp/html/hananogosho.html
左馬頭義輝 > なんにしてもたくさん歩きそうです(笑)
畠山義綱 > ここにも→http://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki39.html
武藤舜秀 > マンション作るときに発掘されたのでしょうか?
畠山義綱 > そうみたいですよ。でも、開発優先で破却されました。忍びないので一部を公開…。情けない。京都の市街地じゃ仕方もないですが。
畠山義綱 > おお。まぶたが重いそろそろ落ちそうです。
武藤舜秀 > あらら、もうですか。
左馬頭義輝 > 拝見しました。同志社大学今出川キャンパス。なんとなく判ります>修理殿
左馬頭義輝 > 日付変わりましたね。そろそろ退散するといたします。
武藤舜秀 > なるほど。了解しました。
畠山義綱 > ホントですか!ぜひいってみたいです。私では場所が検討もつかないので>公方様
武藤舜秀 > マンションの許可を得てから行きましょうね(笑)
左馬頭義輝 > 御成り初めは疲れますからね。お体お気をつけて
畠山義綱 > すみません。私に合わせていただきまして…。過去ログはすばやくアップいたしますので、今日話したことを元に計画を立ていきましょう。
武藤舜秀 > 了解です
畠山義綱 > うっ!肝心なことを忘れていた<マンションの許可>武藤様
左馬頭義輝 > 判り申しました
武藤舜秀 > 電話か、管理人さんに聞いて許可もらいましょう
畠山義綱 > 公方様も臣下のものが挨拶周りで大変かと思いますが、世継ぎを育てまして、一層の幕府の安定に努めていただければと!
畠山義綱 > 公方様、武藤様、毎回参加ありがとうございます。次回も(ひょっとしたら次回はリアル討論会かもですが)よろしくお願いします!
武藤舜秀 > はい、わかりました。
左馬頭義輝 > ありがとう存じます。幕府再興には三管四職の力が必要(笑)これからもどうぞよろしく
畠山義綱 > では、おやすみなさいませ>皆様
武藤舜秀 > では、おやすみなさい
小姓 > 武藤舜秀殿が退室なされましたぞ。

左馬頭義輝 > ごきげんよう。おやすみなさい。
小姓 > 左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。

畠山義綱 > 庶家のため、関連の家柄がございませんが、ぜひ御相伴衆に任じてくださいませ!>公方様
畠山義綱 > それでは、おやすみなさい
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。



−これにて終了−


☆参考資料(公方様がチャット討論会に先立って用意して下さった資料)

キーワード:細川家二川分流

キーパーソン筆頭:細川政元

キーパーソン他:細川高国 細川澄元 細川澄之 畠山政長 日野富子 大内義興 三好之長

当事者略歴

足利義稙〔初名・義材 のち義尹 義稙〕
文正元年〔一四六六〕- 大永三年〔一五二三〕
父:足利義視
母:日野重政の娘〔日野富子の妹〕
将軍在位:延徳二年〔一四九〇〕-明応三年〔一四九三〕
永正五年〔一五〇八〕-大永元年〔一五二一〕再任

足利義澄〔初名・清晃 のち義遐 義高 義澄〕
文明十二年〔一四八〇〕-永正八年〔一五一一〕
父:足利政知
母:柳原〔武者小路〕隆光の娘
将軍在位:明応三年〔一四九四〕-永正五年〔一五〇八〕

足利義稙・義澄関連年表

和暦 西暦 出来事
延徳二年 一四九〇 足利義材、第十代将軍就任
延徳三年 一四九一 足利義材、近江討伐
明応二年 一四九三 二月 足利義材・畠山政長、河内出陣
明応の政変〔三月〜五月〕 管領・畠山政長自刃
清晃還俗 義遐、次いで義高と改名
明応三年 一四九四 足利義高、第十一代将軍就任
足利義材、細川政元により将軍職剥奪
六月 足利義材、越中へ脱出〔越中公方・越中御所〕
明応七年 一四九八 足利義材、義尹と改名
明応八年 一四九九 足利義材、越前へ下向
十一月 近江・坂本合戦 足利義尹、堺へ敗走
明応九年 一五〇〇 足利義尹、周防へ下向
文亀二年 一五〇二 足利義高、義澄と改名
永正四年 一五〇七 永正の錯乱勃発 細川政元横死
細川澄元、細川澄之を討滅
永正五年 一五〇八 四月 足利義尹・大内義興・細川高国上洛
足利義澄、近江へ逃亡
七月 足利義尹、将軍職復位 足利義澄、将軍職廃位
永正八年 一五一一 足利義尹・細川高国、丹波へ敗走
八月十四日、足利義澄、近江・岡山で死去 享年三十三歳
大内義興・細川高国、船岡山合戦で勝利 足利義尹・京へ帰還
永正十年 一五一三 十一月 足利義尹、義稙と改名
永正十五年 一五一八 大内義興、周防に帰国
永正十六年 一五一九 細川澄元、阿波で挙兵 細川高国、近江に敗走
永正十七年 一五二〇 細川高国、京を奪還 足利義稙、高国と対立
大永元年 一五二一 足利義稙、淡路に出奔
十一月 足利義晴、第十二代将軍就任
大永二年 一五二二 足利義稙、堺に上陸 細川高国と戦うが敗れ阿波に退却
大永三年 一五二三 四月九日 足利義稙、阿波・撫養で死去 享年五十六歳

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