平成十九年葉月十九日日曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:味舌政宗様、武藤舜秀様、長続連様、畠山義綱)
畠山義綱 > 定例のチャット討論会は延期になりまして、フリートークの座談会となります。
小姓 > 味舌政宗殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > こんばんわ>味舌様
畠山義綱 > こちらこそ、ご無沙汰しております。
味舌政宗 > 四国はいかがでございましたか?私は歴史散歩もかねて金剛山に登ってきました>義綱様
畠山義綱 > 非常に楽しかったです。河野氏、一条氏、阿波足利氏などのマイナーな歴史を堪能してきました>四国
畠山義綱 > 金剛山はいかがでしたか?
味舌政宗 > 涼みにいったのですがあまりに暑くて大変でした。戦国とは関係ないですがはやり楠正成がらみになりますね。>義綱様
畠山義綱 > はい、松山城には行かずに湯築城に行きまして、桂浜もそこそこに中村で堪能しました(笑)
畠山義綱 > 阿波国では14代足利義栄の軌跡を辿ることができました。マイナーなところばかり行きましたね。
味舌政宗 > 足利義栄!!。ということは平島御所だったかな、そこにもゆかれたんですね。
畠山義綱 > 今年の8月は本当に暑いですね。埼玉の熊谷では40.9℃(汗)
味舌政宗 > 異常な暑さです。大阪・京都でも37度は越えていましたから本当に大変でした。
畠山義綱 > はい。平島の阿波公方資料館では、足利関連の書籍がばっちり購入できました。足利義維(義栄の父)の漫画なんかもありまして、驚きでした。無論購入しましたが(笑)
味舌政宗 > そんな漫画があるんですね。四国にはいったことがないのでしりませんでしたが、はやり資料館があるくらいだからそれを慕う風があったのでしょうかね。
畠山義綱 > そういえば、味舌様は精力的にコンテンツを作成準備なさっていらっしゃるようですが、今度はどのようなものを取り上げられますか?
畠山義綱 > 阿波公方足利氏は江戸時代になっても領民から一目置かれていたみたいです。江戸時代においては文化面で貢献していたみたいです<阿波公方
味舌政宗 > コンテンツ作成はまだまだ途上ですが、分国法と家訓はしっかり残してもう少し戦国時代初期でも的をしぼろうかと
畠山義綱 > 分国法って有名な割には、その作成意義だとか、内容とかはあまり知られていませんよね。
味舌政宗 > 畿内が中心になりそうですね。webでは関東からと書いていますがいずれは一旦止めることになります。
畠山義綱 > 私は、六角氏式目にちょっと注目しているのですが、ひとくくりに分国法といっても、大名家によって作成意義も違うでしょうし、なかなか掘り下げると深く深くなりそうですよね。
味舌政宗 > 分国法の作成意義も内容も深くは知られていないですね。もともと御成敗式目と建武式目だけで済んでいたものが時代に合わなくなってきてということかもしれません
味舌政宗 > それに各大名家や地方で違いがあるから一律の規定では御しきれなくなったというべきでしょうか
畠山義綱 > 『クロニック戦国全史』と言う本に、現代語訳の主な分国法が書かれていて、それまではほとんど内容も知りませんでした。(教科書で出てきた喧嘩両成敗くらい?)
味舌政宗 > 六角式目はよく日本版マグナカルタと呼ばれています。有力家臣が守護の恣意を大きく規制するのが特徴ですし。
畠山義綱 > そうですね。家臣が大名を統制するために出したものといわれていますね。ジョン王のように。
味舌政宗 > クロニック戦国全史はのどから手が出るほど欲しい文献です。分国法の訳があるのが本当に助かっていました。
畠山義綱 > でも、本当に有力家臣が、守護権力を削ぐという意義だけなのでしょうかね。さらに他の意義もあるような気がしますが…。
味舌政宗 > 元はといえば六角義治が後藤賢豊と新藤氏を成敗したことから始まったみたいですしね。
小姓 > 武藤舜秀殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > こんばんは
畠山義綱 > クロニックは15000円ほどしますからね…(買うのがきつかった)
味舌政宗 > まだ勉強不足でそこまでは理解には至っていませんが、それだけではないでしょうね。<六角式目
畠山義綱 > こんばんわ>武藤様
味舌政宗 > 武藤様こんばんわ
味舌政宗 > 15000円ならば決して高くはありませんね。<クロニック戦国全史
武藤舜秀 > 私もオークションで購入いたしました。>クロニック
畠山義綱 > 全くの私論なのですが、六角氏式目には、大名側にも利点があるような気がするんです。内容も決して家臣を利するものだけではありませんし。
畠山義綱 > 少しはオークションで安くなりましたでしょうか?<クロニック>武藤様
畠山義綱 > 超高いとは言いませんが、おいそれと出せる金額ではありませんでした(汗)<クロニック
武藤舜秀 > 14000円ですね。
畠山義綱 > 気持ち…安くなりましたね>武藤様
味舌政宗 > どの法もそうですがあまり一方的な法はありませんね。だいたい法を発布しても家臣の同意が得られなければ法が法とはならないわけですから。
畠山義綱 > そうなんです。武田信玄の甲州法度次第などは大名権力を強化するもののように言われますが、これは家臣にとっても利点のあるものだと私は思います。
味舌政宗 > かなり古い通史ものですが中公文庫の日本の歴史13「戦国大名」あたりにはこのあたりが1章たててありますので分かりやすいですよ。
畠山義綱 > 法があることによって、大名の恣意的な政治を排除し、家臣にもわかる政治を展開できます<分国法
武藤舜秀 > 塵芥集も署名に中野・牧野・桑折氏などの名がありますね。
味舌政宗 > その通りです武藤様。塵芥集でも12人の重臣の連署があります。中野宗時などがそうですね。
畠山義綱 > どのような内容でしょう?<中公文庫の日本の歴史13「戦国大名」
畠山義綱 > 伊達だと分国法のきっかけは天文の内乱(稙宗と晴宗の乱)が原因でしょうか?>武藤様
武藤舜秀 > 塵芥集はどの時代まで使われていたんでしょうかね?江戸時代まで使われていたとは思えないのですが。
味舌政宗 > 有名どころの分国法の概説は書いてありますね。更には法が制定できなかった毛利氏を引き合いにしてたりして分かりやすいです。>日本の歴史
畠山義綱 > ん?違うみたいですね。塵芥集の成立は天文5(1536年)となりますね…(自己反省)
武藤舜秀 > いえ、天文の乱の前に制定されたものでしょう
畠山義綱 > 法が制定できない毛利氏?どうしてでしょうか?>味舌様
味舌政宗 > 塵芥集についてはどうも実際には使われていなかったらしいですね。見つかったのが江戸期に入ってかららしくそれも伊達一門の田村氏が見つけたと聞いています。
畠山義綱 > 稙宗がそのあと、晴宗と戦って敗北している影響でしょうか…>味舌様
味舌政宗 > 塵芥集はあったとしても伊達晴宗時代には封殺されたみたいです。そりゃ敵対した親父のものだからかもしれませんね。>義綱様
武藤舜秀 > それは、伊達家重臣ではなく、外様ともいえる田村ということは、かなり、蚊帳の外におかれていたようにも見えますね。
畠山義綱 > 確かに、晴宗とすれば心情的には使いたくないでしょうね<塵芥集
武藤舜秀 > 伊達政宗も稙宗のやり方に酷評してましたね。
畠山義綱 > ただ焼き捨てたりしなかった、という面では一応の価値はあったのでしょうか?<外様ともいえる田村
味舌政宗 > 実効していたかどうかも不明です。みつかったのは伊達綱村の時代1650年台らしく名前もついていなかったようです。>塵芥集
武藤舜秀 > 譜代の家になく、外様の家にあるということは、伊達本家から「もういらないからこれを読んで勉強しなさい」という意味があったのでしょうか
畠山義綱 > 分国法って、必ずしも強大な大名だけが制定しているわけではありませんよね。例えば六角、結城。新加制式も三好長治の時代だから決して磐石とはいえない頃です。
味舌政宗 > 毛利氏はその都度、掟は交付していましたが成文法は作れなかったです。
畠山義綱 > そこが不思議なんです。教科書なんかでは、戦国大名として権力を確立するための分国法とか書いておきながら、実際は結構違う<毛利氏
味舌政宗 > 分国法を制定した面子をみると以外な事がわかると思います。ほとんどが守護大名なりそれ相応の権威を持つ大名だけなんですよ。>分国法
武藤舜秀 > ほかにも、相良氏や、結城氏も制定していますよね。
味舌政宗 > 伊達、武田、今川、六角、結城、三好、相良ぐらいでしょうか>分国法制定
畠山義綱 > 確かにそうですね。朝倉や三好も制定したのは格式を確立した後ですよね。
味舌政宗 > 相良にしても結城にしてもその土地ではかなり古くから土着していた名門ですしね。>武藤様
畠山義綱 > 地域にばらつきがありますし、守護大名も戦国大名も入り混じっていますし、権力の強大も差がある。とすれば、味舌様がおっしゃった「それ相応の権力を持つ大名」という共通点が一番ですね。
味舌政宗 > 毛利ができなかったのがこの権威がなかったのと家臣(国人層)とは元は同列だったこともあるでしょうね
武藤舜秀 > 大内や朝倉、長曽我部も出してますが、長曽我部は制定が1599年ですから、実効していたかは定かならず
味舌政宗 > 権力もそうですが権威もいるでしょう。特にその地方にいる土着の武士にとっては>義綱様
武藤舜秀 > そうですね。新興勢力の制定は朝倉、三好くらいでしょうね。
味舌政宗 > 大内はかなり早いし、朝倉のは分国法というよりも家訓かなという気がしています>武藤様
畠山義綱 > やはりある程度の権力がないと、みんなに共通する法は制定できない、と。
武藤舜秀 > 家訓みたいなものですね。確かに。
畠山義綱 > 三好も、宗家の義継ではなく、阿波三好の長治というのがちょっとひっかかります。
武藤舜秀 > 新加制式も篠原長房が作ったようですし。
畠山義綱 > 篠原長房は阿波三好氏の有力家臣ですよね。長治も絶対的な権力を得ているとは言いがたく、これも権力基盤が弱い大名の制定のうちに入りますね。
武藤舜秀 > そうですよね、三好氏のNo.2なので、時期は1562年。
畠山義綱 > 全くの私論に過ぎませんが、この分国法を出すことによって、大名家全体の統制を取ることに繋がり、結局は大名も家臣も利益を得ているのではないかな、なんて思ったりもします。であるならば、分国法の制定は大名と家臣の共同作業かな?
武藤舜秀 > 1562年と後半になってますし、長房謀殺後は効果を無くしていると思われますね。
武藤舜秀 > でも、分国法はまだ滅んで資料がないような大名も作っていると思われ、今、挙がっているのは一部だと思うんです。
畠山義綱 > そう考えると、あくまでこの分国法が有効なのは、大名とその制作した家臣団の中であって、対立する家臣が実権を握ったり、大名が交代すると効果は薄れると思います。これは三好の例もしかりかな。
畠山義綱 > 私もそう思います。先ほどの伊達の例にてしてもそうですし、どこか倉庫にしまったままになっていたり、戦乱で紛失したものがかなりあるのではないかと…。
武藤舜秀 > 分国法は一代限りではないでしょうが、そうなっている家もありますね。
味舌政宗 > 北条早雲も作っていたらしいです。小和田哲夫氏が最近発表していたみたいですね。
畠山義綱 > その一方で、分国法の残っている大名家がかならずしも、勝者の大名ではないのがミソですね。
畠山義綱 > 私も、討論していてそう思ってきました、基本は一代限り。朝倉家のようなものがむしろ例外かもしれませんね>武藤様
味舌政宗 > 観音寺城ですか。安土城とセットで軽い山歩きになりますね。結構勾配のきつい山にあったみたいです。滋賀県のきぬがさ山が観音寺城だとおもいます。
畠山義綱 > 北条早雲が?そうなると、かなり分国法の制定にしては時代がさかのぼりますね>味舌様
味舌政宗 > 1代限りですか。まあ武田も今川も滅んでしまった大名だし、よく見ると伊達と相良以外は江戸期までは持ってませんしね
武藤舜秀 > 今川仮名目録は2代にわたって制定されていたり、大内家も制定は1490年代。
味舌政宗 > 昔読んだ書籍で17か条の法を作っていたらしいとのことでした。一度どんなものか小和田氏の研究のものを見てみたいですね。
味舌政宗 > 今川は氏親、氏輝、義元の3代ですし、大内は大内政弘時代ですね。>武藤様
畠山義綱 > 2代にわたって制定されると、分国法の焼き直しみたいなものなのでしょうか。新たに制定することで、先代のものを受け継いでさらに自分の代で追加するという感じで
畠山義綱 > ちょっと時代は後になりますが、江戸幕府が作った武家諸法度は将軍が交代するたびに新たに発布されたと聞きます。これに分国法も近い形だったのではないでしょうか。新たに2代目が制定しなければ、その分国法は効力を失う。
武藤舜秀 > 伊勢宗瑞十七箇条ですか?>早雲
畠山義綱 > 分国法は、大名と家臣の契約書みたいな側面もありますので、代替わりすれば単に継承されるのではなく、再契約をしなおすという考え方ではないでしょうか…>味舌様
味舌政宗 > その通りです。>伊勢宗瑞十七か条
味舌政宗 > このあたりまで詳しく書かれているものは見たことがないので制定者が引退したあとの引継ぎも勉強しないといけないですね。>義綱様
武藤舜秀 > 代替わりの度に制定と言うことは、畠山様がおっしゃる再契約みたいなものなんでしょうね。
武藤舜秀 > 日本史大事典にも載っていました。>十七箇条
畠山義綱 > では、今までは分国法と言う扱いではなかったということでしょうかね<十七箇条
武藤舜秀 > 存在としては前からあったんでしょうが、今回中身を吟味したと言うことでしょうか。>十七箇条
味舌政宗 > 早雲の場合は家訓が大きくクローズアップされていますから影に隠れていたのかもしれませんね。
畠山義綱 > なるほど>武藤様・味舌様
武藤舜秀 > ほかにも家訓二十一箇条残していますから、家訓と分国法と区別していたんですかね。>早雲
畠山義綱 > 内容はちょっと違いますけど、徳政令も代替わり徳政というものがあり、大名が交代すれば、契約もやり直し、という観念が庶民にもあったようですから、庶民と武家がまざりあっていた中世では、土豪なども同じような感覚をもっていたのでは…?
味舌政宗 > 分国法とは違いますが、引継ぎという点ではよく置文といわれる遺言書が残っていますね。まあ家訓に近い性質かもしれませんが。
畠山義綱 > 武田信玄がその死を隠しておけとかいった類のものでしょうか<置文
味舌政宗 > まあ、そんなところですね。場合によっては事細かにかいてある者があります。例えば大友義長条々とか...。
武藤舜秀 > そうですよね、新しい領主が領民に対して代替わりした証にそういう代替わりの再制定なんでしょうね
味舌政宗 > 代替わりによる再制定もあっては不思議はないでしょうね。それよい例が仮名目録追加みたいですし。ただ、制定は家督をついですぐではなかったですが
畠山義綱 > むしろすぐには出来ないのではないでしょうか。大名と家臣との微妙な位置関係もありますし、それだけ大名家も家臣統制に慎重だったと言えるのでは?>味舌様
武藤舜秀 > 家督を継いだ最初の仕事が仮名目録再吟味なんでしょうね。
味舌政宗 > それはいえてますね。仮名目録の追加分では守護不入権をもつ大家臣に対して認めない旨を示していますから周到な根回しなどがないと反発を受けるでしょうから>義綱様
畠山義綱 > そうであれば、分国法のひとつの側面である、大名と家臣との再契約と権利関係の確認という意義が理解できますね。六角氏式目もそうですし、だからこそ、稙宗が作った分国法も使われなかった。
味舌政宗 > 稙宗は伊達の全ての家臣を敵に回していますから当然使われなかったと思います。>義綱様
畠山義綱 > 今川家の家督を継いだ新当主は、法の内容はずいぶん精査したのではないでしょうかね。>武藤様
武藤舜秀 > やはり再契約みたいなところでしょうね。仮名目録もその発布されて、次の発布までの時間の流れで内容も変わってくるんでしょうし。
畠山義綱 > そうでしょうね。変化の激しい戦国時代ですから、新しい流れに法も対応させなければなりませんよね>武藤様
小姓 > 長続連殿が入室なされましたぞ。
味舌政宗 > 常に法律が固定されていては変化にはついてゆけませんのでうまく対応するためにも精査は必要だったのでしょう。
長続連 > こんばんは。おくれました。
畠山義綱 > こんばんわ>対馬守殿
武藤舜秀 > こんばんは>長様
味舌政宗 > 長続連様こんばんわ。
武藤舜秀 > 相良氏も代替わりの度に内容を足して再発布してますね。
畠山義綱 > と考えると、なぜ毛利氏は制定されなかたのでしょうか。織田信長もそうですよね。出していませんね。
長続連 > 〉皆様。皆様の発言を見て話の流れをつかみますのでしばしお待ちを。
畠山義綱 > 分国法の制定意義を考えているところでございます>対馬守殿
武藤舜秀 > 信長はもう、「私がルールブックだ!」ではないですけど、「余が分国法じゃ!」って言いそう(笑)
味舌政宗 > そこなんですよね。織田信長は個別では楽市楽座令などは出してますが分国法というものはないですね。>義綱様
味舌政宗 > それはそうかもしれませんね(笑)>武藤様
畠山義綱 > 私もそう思いました(笑)それに仮に制定したら、「えっ、俺そんなこと言ったっけ?」とかなりそう(笑)
長続連 > ありがとうございます。〉殿
味舌政宗 > 毛利は元就は分国法制定を望んでいたけれどもできなかったみたいです。もともとが小さな国人の出で同等の国人の連合体みたいなものでしたし。
畠山義綱 > それでも、輝元の頃には出してもよかったのではないでしょうか?長曽我部も後年に制定していることですし>味舌様
長続連 > 織田の場合、領主連合的な武田とかとやはり違うんじゃないですかね。信行とかと戦った尾張統一過程でそのような面を払拭したようなきがします。
味舌政宗 > 輝元時代でも関が原で負けるまではこの体質からは脱却できなかったみたいで。江戸期にはいってからですから制定もできなかったでしょう。
武藤舜秀 > 織田は領主連合ではなく、一族連合ですからかなり織田家内にも異論噴出でしょうな。
畠山義綱 > そういことが、関が原で負ける原因でもあったのかも。
味舌政宗 > 織田氏でも信長の流れは領主連合よりも明らかに違いはありますね。どちらかというと同等領主は討伐していったような感じもしますし。>長さま
畠山義綱 > 確かに。織田政権は一族重視ですよね。>武藤様
味舌政宗 > そうですね一族連合だったですね。(といっても守護代家も織田ならばその奉行も織田尾ですからね。)>武藤様
長続連 > 領主連合を克服した、織田権力の特質がやはり織田が台頭した背景ですかね。〉皆様
武藤舜秀 > 織田信秀−信長の頃は一族連合でしたが、上洛の頃にはそういうものも見られなくなっていますね。>信長
畠山義綱 > 確かに。一族であれば団結力も堅いですからね。しかし、その点一族以外の者には反発もでるでしょうが>対馬守殿
味舌政宗 > 信長の代で払拭してしまったのでしょう。岩倉の織田氏や斯波氏も滅ぼしていますからね。
長続連 > 織田の権力は確かに一族連合というありかたすらも克服してますね。
味舌政宗 > 逆に一族だからこそ宗家に変わろうとする場合もありますよ。武田信虎などはそれとの戦いに明け暮れてましたし。>義綱様
畠山義綱 > ちと分国法の話に戻りますが、この法は商人取引などにも内容が及んでいますので、庶民にも影響があるわけですよね。商人たちが分国法制定に関わることはなかったのでしょうか?
武藤舜秀 > そういわれると、確かに取引とか、土地に関するものが多いですよね。
味舌政宗 > 特に質入などの話が主体になるでしょうね。表立ってはなくても御用商人なんかがいて裏ではなんてことはあっただろうか??
味舌政宗 > 分国法では土地や権利といった関係が非常に多いですし、領主達の関心もそこにあったのでしょうね。でも土地の質入についてはなかなか規制できなかったみたいです。
畠山義綱 > 武士が圧倒的な力がある時代ではありませんので、いかに武士の権利が関わっているといえども、一方的な制定はできないのではないでしょうか。
長続連 > 戦国時代は武士とか商人とかボーダレスの時代ですから、商人的武士の存在に配慮することはあったのではないですかねえ
畠山義綱 >私自身が分国法の内容を事細かに見ているわけではありませんのでなんともいえませんが、内容も庶民に対して配慮されていたものではないかと思うのです。むろん、制定に半武装勢力化した寺社や商人や農民もある程度関わっていたのではないでしょうか…。
武藤舜秀 > 堺も武装していますので商人がある程度武装してもおかしくないですね。
畠山義綱 > 分国法も大名対家臣という構図だけで見るより、国人や土豪、庶民などとの関係も考慮しないといけないのでは、と思ったりします。
長続連 > 制定に関わるというか、大名が制定する際、寺社・商人・農民に配慮したという感じでないでしょうか
味舌政宗 > 制定するに当たっ ては考慮した形跡はありますね。寺社などはそうですし、農民といっても土豪層は陪臣であれ戦力ですからそこが不利になるようなことはできないでしょう。ただし、庶民に対しての配慮はあまりなかったように思います。特に塵芥集は武家の庶民とでの刑罰の差が激しかったですし。
武藤舜秀 > 大名対家臣・寺社・商人・農民って言う感じですよね。
畠山義綱 > 対立関係というか、大名が協調関係を生むために分国法を作ったような気がするのですが・・・>武藤様
長続連 > 確かに農民といっても定義を確定しないと、土豪的農民とそれに使役される下人的農民を一緒に論じてしまうと問題かもしれません
武藤舜秀 > それもあるでしょうね。>畠山様
畠山義綱 > 制定に関わらない庶民には厳しく、戦力に当たるような土豪・国人には懐柔をする。というような事もあった?>対馬守殿、味舌様
長続連 > そうでしょうね。諸階層の調停者、そこに大名権力の公的意義があったのでしょう。
畠山義綱 > そろそろ終了予定時刻ですね。テーマをまとめてみましょうか?テーマはやはり「分国法のその存在意義」でよろしいでしょうか?
武藤舜秀 > 農民に対する見せしめにもなりますからね。>庶民厳しい
味舌政宗 > そうだと思います。>土豪国人の懐柔
武藤舜秀 > そうですね、分国法ですね。
味舌政宗 > 大名に期待されたのが長様がおっしゃるような調停機能だったように思います。
長続連 > まあ庶民に対してとかでなく、、私なんかは大名権力の政治的位置によって変わるのかなと思います。
味舌政宗 > 分国法の存在意義でしょう。話の流れからするとまさにそんな内容でした。
畠山義綱 > そうですね。度々この討論会で議論になっているものですね<味舌政宗
味舌政宗> 大名に期待されたのが長様がおっしゃるような調停機能だったように思います。
長続連 > 遅れてきたくせに差し出がましいのもなんですが、テーマの件は異存ございません。
畠山義綱 > ありがとうございます<テーマ設定>みなさま
畠山義綱 > では、テーマ「分国法の存在意義」みなさんはどのように考えられますか?
味舌政宗 > テーマには異存はありません。
畠山義綱 > 大名と家臣・国人・土豪などの勢力との利害調整のための法。そして、大名とその他の勢力との契約という意味があったので、代替わりにおいて再契約することが必然であった。
長続連 > やはり従来、京都だの鎌倉だのを頂点に構成されていた法体系が初めて地域地域、中央より自立した法体系を構成したと言う点でしょうか
武藤舜秀 > 分国法はその、家の家風でもあるし、法律でもあるし、その一方で重臣に支持されなければ保たないもので新領主は分国法一つで自分に対する家臣の忠義をはかれるものだと思われます。
味舌政宗 > 武家の基本法が地域地域で独自の進化を遂げたもの、そしてそれは大名そのものが中央の官吏ではなくその土地に根を張っていいたことの証でもありますね。
畠山義綱 > そうですね。長対馬守殿や味舌様がおっしゃるように、中央から法体系が流れてきたという見方がわかりやすいですね。
長続連 > そうすると、なぜそのような地域独自の法体系を構築した政治権力が近世将軍権力に統合されていくのか、その背景を考えていくのも必要ですね
畠山義綱 > それが次回の課題ですね。また、今後は分国法の内容をよく読みこんで、その内容の意味をじっくり考えてみたいですね。そのためには、ひとつの分国法を取り上げて、詳しく見ていくのがいいのかもしれませんね。
味舌政宗 > 終わりかけで申し訳ありませんが、嫁さんが呼んでおりますのでここで失礼させていただきます。有意義な討論といろいろな情報をいただいてありがとうございました。分国法の内容を取り上げるならば今川仮名目録あたりがわかりやすいかもしれません。とりあえずここで退散させていただきます。お休みなさいませ
長続連 > そうですね、次はその辺りを押さえて一つの分国法を対象に論じたいですね。
小姓 > 味舌政宗殿が退室なされましたぞ。
武藤舜秀 > 足利将軍シリーズの後ですかね。
畠山義綱 > 味舌様、お疲れ様です。
武藤舜秀 > おやすみなさい>味舌様
長続連 > 失礼します〉味舌様
畠山義綱 > そのためには、皆さんに共通な分国法の内容(クロニックなどの現代語訳がついたもの)が手元にあればいいですね。
武藤舜秀 > なにか、分国法の現代語訳を畠山様のところか味舌様のところでアップしてあると見ながらチャット出来ますよね。
長続連 > その辺りはまたテキストを決めましょう。岩波書店思想大系の『中世政治社会思想』に収録されているテキストも解説もついているのでよいかもしれません。
畠山義綱 > 次回は、「シリーズ・室町幕府と将軍権力〜義勝・義政・義尚期の戦国への胎動〜」がテーマですね。日程は追って掲示板にてお知らせ致します。
畠山義綱 > 分国法は内容盛りだくさんなので、アップするのは相当キツイですね〜(汗)
長続連 > 了解しました。予習をしてまた臨みます。皆様お疲れ様でした。〉皆様
畠山義綱 > 今夜もとても有意義で中身の濃い討論会ができましたことを、御礼申し上げます。ありがとうございました。
武藤舜秀 > 打ち込むだけで一日かかるでしょうね・・・きついですね。参考資料をメールで配布とか?
武藤舜秀 > 今日はお疲れ様です。>皆様
畠山義綱 > そうですね。参考文献を挙げておかねばなりませんね。
長続連 > では失礼します。次は早く来ます。おやすみなさいませ〉皆様
小姓 > 長続連殿が退室なされましたぞ。
畠山義綱 > それでは、今回のテーマ「分国法の存在意義」を終了したいと思います。皆様ありがとうございました!
武藤舜秀 > ありがとうございます。
武藤舜秀 > では、また今度のチャット楽しみにしております。
武藤舜秀 > では
小姓 > 武藤舜秀殿が退室なされましたぞ。
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。
−これにて終了−