平成十九年文月十五日土曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:武藤舜秀様、林光明様、足利左馬助義輝様、畠山義綱)
武藤舜秀 > おさらい。1335年中先代の乱
武藤舜秀 > 1336年湊川の戦い
武藤舜秀 > 足利尊氏、光明天皇擁立。後醍醐天皇吉野へ。
武藤舜秀 > 建武式目制定
武藤舜秀 > 1338年足利尊氏、征夷大将軍就任。
武藤舜秀 > 1339年、後醍醐天皇没
武藤舜秀 > 1349年観応の擾乱勃発。
武藤舜秀 > 1358年足利尊氏没。
武藤舜秀 > 1367年南朝、北朝に講和申し入れ、北朝は拒否。
武藤舜秀 > 1368年足利義満、征夷大将軍就任。
武藤舜秀 > 1371年今川了俊九州探題に任命され、九州の南朝方と戦う。
武藤舜秀 > 1378年義満、花の御所に移る。
武藤舜秀 > 1379年細川頼之失脚
武藤舜秀 > 1390年土岐康行の乱
武藤舜秀 > 1391年明徳の乱
武藤舜秀 > 1399年応永の乱
武藤舜秀 > 1400年今川了俊引退
武藤舜秀 > 1416年上杉禅秀の乱
武藤舜秀 > こんなとこですかね。
小姓 > 畠山義綱殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > こんばんは
畠山義綱 > こんばんわ。武藤様
畠山義綱 > 早速室町幕府初期をまとめてくださいましたね。
武藤舜秀 > 簡単に。高校の教科書の一部から抜粋しました(笑)
畠山義綱 > 激動の室町幕府初期時代。幕府もなかなか安定しない。そこに義満が安定をもたらす図ですな。
武藤舜秀 > 足利幕府といっても、全く平和な世の中がきたわけではなく、戦乱ばかりの室町時代ですね。
畠山義綱 > 鎌倉幕府も江戸幕府も初代将軍が強い権力を持っていましたが、室町幕府はそうではありませんね。
畠山義綱 > どちらかというと、足利尊氏も味方を得るために征夷大将軍になったような気もします。後醍醐天皇と敵対しているままでは逆賊扱いですし。
武藤舜秀 > 将軍も、守護大名もなれ合いのような政権ですね。
畠山義綱 > そうですね。もともと尊氏が内乱で困った状態で将軍に就任しているので、これを打開するには多くの味方が必要です。そうなると必然的に大名の地位が高くなる気がします。
畠山義綱 > 義満が巨大な権力を手に入れるのは、やはり南朝勢力の減退が理由でしょうか?
武藤舜秀 > 尊氏は違う系統の天皇を立てて多くの大名を味方につけさせる必要があったわけですね。
畠山義綱 > そうだと思います。逆賊では味方もどんどん離反するでしょうし、より多くの味方を得るためには、別の天皇を立てざるを得なかったのではと思います。
武藤舜秀 > それもあると思いますが、両方ともに厭戦気分になっていったのでしょう<義満
小姓 > 林六郎光明殿が入室なされましたぞ。
小姓 > 足利左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
足利左馬頭義輝 > こんばんは。少し遅れ申しました
畠山義綱 > こんばんわ>公方様・光明様
武藤舜秀 > 義満は後の徳川家光と同じで「生まれながらの将軍」ですから、強行に出たのでしょう。
林六郎光明 > こんばんわ。義綱様、武藤様、公方様
武藤舜秀 > こんばんは。>公方様、林様。
畠山義綱 > しかし、徳川家光の場合と違い足利義満の場合は幕府が安定しませんでしたので、よく強行にでることができたものだと思います。
足利左馬頭義輝 > 南北朝末期は、南朝方の政権交代と幕府細川頼之の思惑で進んでいましたね
武藤舜秀 > やはり、それだけ細川頼之らの力があったものでしょう
畠山義綱 > 幕府初期の財政とはどんな感じだったのでしょうか。軍事費増大で完全赤字のような気がしますが、何で収入をまかなっていたのでしょうか…
足利左馬頭義輝 > 吉野朝では強硬派の長慶天皇が退き和平派の後亀山天皇に代わったことで、頼之も交渉しやすくなったのだと思います
武藤舜秀 > 日明貿易だけではとてもうまくいくはず無い・・・。
林六郎光明 > ほんとの初期の頃は、高師直などに代表されるような畿内荘園の押領でしょうね。
畠山義綱 > 尊氏・義詮の頃にも日明貿易はやっていたのでしょうか?
畠山義綱 > 私もその程度だと思うのですが、それで幕府財政をまかないきれるのでしょうか?>光明様
足利左馬頭義輝 > 足利幕府の財政は確かに初期より臨時税に頼っていたところがあり、相当に不安定でした。
武藤舜秀 > 勘合貿易は1404年〜1411年まで。1432から再開。
林六郎光明 > 公的な貿易としての日明貿易が出てくるのはもう少し後で、尊氏の頃は天竜寺船ですね。それまでは幕府軍といっても私兵集団ですから。
畠山義綱 > となると、尊氏や義詮の頃は幕府と言っても、公的な組織と言うより、私的な大大名なような存在だったと見るべきでしょうか?
足利左馬頭義輝 > 直轄料は微々たるものなので、財源の主は守護からの国役、あと分一銭とか段銭・棟別銭、土倉役酒屋役といった臨時税に勘合貿易が少々、と言った所でしょうか
畠山義綱 > やはりもともと室町幕府は財政面での脆弱性を抱えていたのでしょう<直轄領は微々たる
林六郎光明 > 大名とひとくくりにすると話がややこしくなりますが、私兵が幕府を作ったようなものですから、権威としての朝廷が必要だったという感じでしょうか。
足利左馬頭義輝 > 結局将軍は当初より権威で持っていた存在でしたから、守護の立場を認めてやる代わりに国役の徴収を図っていたんだと思います
畠山義綱 > 確かに!室町幕府は「権力」よりも「権威」という感じがしますね<公方様
林六郎光明 > 室町幕府の面白いところは、京都と言う都市の経済からうまく資金を調達していることですね。土倉役とか酒屋役、これ当座の銭が入ってきますし。
畠山義綱 > その私兵集団である幕府が義満の頃には、やはり政体も変わってくるでしょうか…。
足利左馬頭義輝 > 将軍としては国役が最重要な訳ですから、守護がなくなっても困るし、かといって自分を脅かすような勢力になってもらっても困る。だから義満のように「合法的」な守護勢力削減を行ったのでしょう
足利左馬頭義輝 > 生かさず殺さずってやつですね。義持・義教もかなり熱心にやっておりましたが、段取りとしてはやはり義満が一枚も二枚も上手でした
武藤舜秀 > しかし、義満の守護大名つぶしもすさまじいですが、すぐに気に入った大名の国替えをコロコロ行いすぎますね。
畠山義綱 > 室町幕府が京都に開かれた意義。それは京都における朝廷の権威の必要性と、京都の都市としての経済力。
畠山義綱 > 反対に捕らえれば、義満には守護を幕府の味方に変える必要性があったのでしょうかね…>武藤様
武藤舜秀 > 義教の時代まで将軍筆頭の連立政権って云う感じがします。
畠山義綱 > 幕府が諸大名に影響力があると、公権力を見せつけるため?<大名の国替えをコロコロ
畠山義綱 > それはよく言われますよね。諸大名の連合政権と。であるなら、やはり守護大名は自分の意のかかる人物でないと大変ですね。
武藤舜秀 > 将軍家にこれだけの力があるということを各大名に見せつけ、鎌倉公方への威嚇にもなりますね。
足利左馬頭義輝 > 義満が国替えや削減を熱心に行った大名先を見ると、やはりそこに経済基盤が高い箇所を抱えている大名が多いですね
畠山義綱 > そうですね。しかもそれが前例になれば積極的な守護大名への介入もできますし>武藤様
林六郎光明 > 当時の大守護の軍事力は結集させると幕府つぶすぐらい簡単にできたはずですから、それをいかに各個撃破していくか、ということでしょう。
畠山義綱 > 加賀も幕府領が多く守護への介入が頻繁に行われていました>公方様
武藤舜秀 > 京都の周りは山名か、細川で、どちらかが謀反の気があれば簡単に京都へ大軍を送れますよね。
武藤舜秀 > だから、どちらかを味方につけていましたよね。
畠山義綱 > 義満期になると、幕府財政もいくらか豊かになるようですが、財政基盤の根本的な変化があったのかな?それともやはり勘合貿易の利潤でしょうか?
畠山義綱 > あれっ?でも細川氏って足利一門ではなかったでしたっけ(違っていたらごめんなさい!)
足利左馬頭義輝 > 加賀は幕府にとって特に重要な御料地だったので、能登や越前に畠山・斯波といった信頼の置ける大名家を配置して加賀経営に当たっていたようにも見られますね
武藤舜秀 > 鉱山の開発もあったと思いますよ。金閣寺を建てるくらいですから。
林六郎光明 > 義満期になると、京都五山などの臨済宗大寺院からの莫大な銭を受け取っています。
武藤舜秀 > 一門ですが、直系ではないですから、山名も細川も同じ源氏と云うだけですから。
林六郎光明 > 加賀の場合は、有力守護がいないだけに、幕府もけっこうやりたい放題してますね。冨樫が可哀想ですよ。
畠山義綱 > やはり幕府の権力が増した義満期になると、財政も豊かになっていますね。だからこそ安定したと言えるかな。
畠山義綱 > 強大な権力を持ち得ない幕府だからこそ、有力守護ではないところから影響力を増していこうとしたのでしょう<加賀
足利左馬頭義輝 > 足利一門で、将軍家に最も近いのは鎌倉公方ですが、それ以外となると斯波氏でしょうか。その次は吉良氏に移り、更に進むと今川氏。将軍継承権は斯波・今川となりますね。
畠山義綱 > 義持期になりますと、勘合貿易がストップしますよね。これで貿易利潤+抽分銭(輸入税)もなくなったのに、そこそこの権力基盤が維持されている。やはり幕府としての骨格基盤が整ってきたのでしょうか。
畠山義綱 > 基本的な質問ですが、どうして鎌倉公方は将軍家筋と近い間柄なのに、それほど険悪な仲になったのでしょうか?血筋が近い故の将軍職争い?>公方様
足利左馬頭義輝 > 義持期はある意味、頼朝が理想とした体制に近いですから、将軍-守護大名の封建体制が完成していたものと思われます。だから義嗣の叛乱も実にすんなりと解決できたのでしょう>修理殿
林六郎光明 > 勘合貿易は幕府財政の中でウエイトは大きかったものの、基本的には棟別銭などの都市税がメインですね。幕府として土地を持っているわけではないですし。
武藤舜秀 > それと、全国的の農業の普及・進化もあったものと思われます。
畠山義綱 > 私も義持時代の治世は本当に落ち着いていますよね。義嗣の叛乱のような大きな戦でもそれほど周りが動揺せずに解決できていることも、幕府の権力の大きさを物語っているような気がします>公方様
畠山義綱 > そうですね。南北朝期を境に農業なども非常に発達したと言われていますし>武藤様
足利左馬頭義輝 > 鎌倉公方の始祖は足利基氏で尊氏の次男です。この人物、実に優秀で同時期の義詮と比べると政治手腕は雲泥の差だったそうです。でも次男と言うだけで京から鎌倉にやられ、自系統は決して将軍にはなれないといった鬱積が連綿と続いたのでしょう。
武藤舜秀 > 後に足利幕府が弱体化していった最大の理由は幕府と鎌倉府の二元政治にあると思いますよ。
畠山義綱 > 南北朝の争乱のために、鎌倉に一門を配置し大きな権力を持たせたがゆえにこのような二元政治になってしまった。それが結果的に幕府を危機に追いやった?
足利左馬頭義輝 > 義持・義教期は、「武家」としての統一政権としては義満期よりも完成されていたと思います。だからこの両人からすれば鎌倉府の存在自体が許せない、と言った所でしょうか
武藤舜秀 > はい。それが謀反の種にも成り、関東以北と中央の温度差はかなりあったと思われます。ただ、東北はまだ中央寄りですよね。
畠山義綱 > なるほど、中央政権としての幕府が完成してくれば、必然的に地方権力である鎌倉府は邪魔な存在になってくる。だからこそ対立が生じるのか…。
林六郎光明 > 将軍の個性論も否定はしませんが、当時の幕閣の遠国融和策も考慮する必要があると思いますよ。要はほったらかし政策ですが。
足利左馬頭義輝 > 義持は義嗣の乱に乗じて鎌倉公方を攻めようとしましたが、この時は何と足利持氏が赦免を請うたので事なきを得ましたが、義教は違いましたねぇ
畠山義綱 > できれば少し詳しくお聞かせ願えませんか?興味ありますゆえ<当時の幕閣の遠国融和策
林六郎光明 > 義持・義教期の「満済准后日記」とかを読むと、幕閣の畠山とか細川とかが、とにかく将軍の強硬策をなだめすかして、遠国はほっとくにかぎると説得する記事がけっこう出てきます。
畠山義綱 > 確かに、強行のイメージが強い義教ですが、畠山満家などがかなり意見していますね>光明様
林六郎光明 > でも、これが結果的に鎌倉府の強大化を招くことになるんですよ
武藤舜秀 > 義教も恐怖政治といわれるほど恐ろしい政治を行ったとされますが、一色義貫、土岐持頼の暗殺や比叡山焼き討ちなどそういうイメージが先行していますが、実際に「恐怖」だったのでしょうか?
足利左馬頭義輝 > <遠国融和 策 上杉禅秀の乱の後、幕府は関東の諸勢力に対し懐柔策をとります。白河結城氏や常陸山入氏等を幕府扶持衆としてみたり、信濃守護小笠原氏や駿河守護今川氏にわざわざ関東目付けを命じたり・・・要は幕府自身で関東を平定する余力が無かったわけですが・・・>修理殿
畠山義綱 > どういう理由で幕閣たちは「放置政策」を主張したのでしょうか。財政面?京都を空けるのが心配?色々な側面があったのでしょうが、幕閣が主張するその主なる理由はどこにあったのでしょうか?>光明様
武藤舜秀 > 義教よりも、義満の方がよほど怖いと思いますが。
林六郎光明 > 当時の発言では「等持院様(尊氏)以来の政策」と言ってますが、実際は公方様ご指摘の通りだと思います。
畠山義綱 > 確か性格面で義教は短気だったようです。幕閣の面々がそれをたしなめるように苦言もしています>武藤様
足利左馬頭義輝 > 義教の怖さは、政治以外の面での理不尽な「逆ギレ」が多かったからだと思います>武藤様
畠山義綱 > なるほど<放置の理由
武藤舜秀 > 時代は違えども、信長とよく似ていますよね>義教
足利左馬頭義輝 > 義持期は西国の動乱がまだ収まりきっておらず、このことが関東への前面介入を躊躇させた一因とも思います
畠山義綱 > 室町幕府のような守護大名に推戴される存在の将軍家の中で、こういう「性格」の将軍というのは問題ありなのでは?だからこそ嘉吉の乱が勃発したような気もします。
畠山義綱 > 確かに! 義教=信長 嘉吉の乱=本能寺の変>武藤様
足利左馬頭義輝 > 義教はいい意味での政戦両略の天才でした
足利左馬頭義輝 > 天才と言ういう意味で信長に近いものがありましたが、自身の権威の高まりが権力の高揚につながったと錯覚したのが命取りになったのでしょうね
畠山義綱 > 大名連合体の盟主たる将軍であれば、諸大名に求められるのは天才的なセンスではなく、人間関係調整力。現代における内閣総理大臣と同じような気もする…。
武藤舜秀 > 大名の連合であるからこそ、なあなあの政治だったし、将軍もきつく言えなかったでしょう。
足利左馬頭義輝 > 義教の施策の第一は奉公衆の強化にありましたが、それを行うには養うだけの土地がいる・・・それを権威だけで成し遂げられると義教は考えたのでしょう。だからそこに大名達と不要な軋轢を生じたのかもしれませんね
畠山義綱 > 全くの私論ですが、義持は利害関係の調整能力が抜群で、室町幕府の政体にかなりマッチングしていたような気がします。また、幕府が安定化しているうちに次の将軍・義量に継承し幕府の権威を築こうと努力もしていましたし(結局、義量継承は失敗しますが…)
畠山義綱 > 少し足利義量の話もしてあげたかった私(笑)
林六郎光明 > 義満の将軍独裁路線を宿老の合議制度に戻したのは義持の最大の功績ですね。
武藤舜秀 > しかし、なぜ、将軍家の直轄の国を持たなかったのでしょう?
畠山義綱 > しかも将軍の権威を損なわないような宿老の合議制度でした。だからこそ幕閣も守護大名も結構落ち着いていた時代だと思うのですが。
林六郎光明 > 建前として、将軍は守護ではないので、地方国を担当できないというのはありますよね。>武藤様
足利左馬頭義輝 > 足利義量の不運は、義持が確立した宿老合議制と言う心身ともに疲労が激しい仕組みに晒されてしまったことでしょうね。父親がなまじ頑強すぎたこともあってその任に耐え切れなかったのでしょう
畠山義綱 > 将軍権力がもともと弱かったという理由もあると思います。だからこそ、御料所も各国にチマチマとあるのではないでしょうか(取り上げた土地を地道に直轄領にしたとか)>武藤様
畠山義綱 > 公方様、私も同感です。宿老合議制という組織の中では、将軍個人に相応の利害関係調整能力が必要になります(重臣の我が侭をうまくかわすなど)、それに耐え切れなかったし、強い前将軍の影響力でより幕閣たちが義量をなめきっていたのかもしれません。
武藤舜秀 > それでも、大和の守護に興福寺に任せるくらいなのですから、どこか、大名を取りつぶして将軍の息子を入れるとか、代官を送ったりしようと思えばできたはず。
林六郎光明 > 当時の税は銭納が当たり前の時代で、しかも最大の銭集積地である京都を押さえていたことは大きいと思います。何より、銭経済が格段に発達した時代ですから。
足利左馬頭義輝 > 義持としては、義量の将軍就任にあわせて出家し息子の後押しをしようとしましたが、義量自身あまりにも繊細すぎて心身ともに疲れ果ててしまったんだと思います
畠山義綱 > 大和守護は南都(南朝)の関係もあり、おいそれと興福寺と争うわけにはいかなかったのではないかと思います。幕府が大和の衆徒へ守護興福寺への忠誠を誓わせたくらいですから>武藤様
武藤舜秀 > 義量は業績を残さないまま夭折していますし、後ろに義持もいたわけですから幕府としてはそれほど大きな痛手にはならなかったのはないでしょうか?
足利左馬頭義輝 > 実際義持はどこへ行くにも義量を同伴させ、また義量も弓馬を好む青年だったそうです。ですので、死の直前、酒色におぼれて死期を早めたと言うのはにわかには信じがたいと思うのですが・・・
畠山義綱 > 偉大な前代がいると次の将軍は本当に苦労しますよね>公方様
林六郎光明 > 何より、当時の地方国は荘園がまだあちこちに残っていますから、戦国後期のような一国の一円支配など夢のまた夢だったと思います。
武藤舜秀 > うーん、当時の比叡山延暦寺と興福寺はどちらが勢力大きかったのでしょう?
畠山義綱 > 義持が大の酒嫌いだったので、義量の大酒喰らいは誇張表現らしいという論文もあります。ましてや酒色におぼれて早世などという記録は存在しないようです<義量
武藤舜秀 > 比叡山の方が大きいのであれば、興福寺だって討とうと思えば討てたでしょうし、後南朝もそこまで気になるほど勢力を保っていたとは思えないんです。>公方様
林六郎光明 > 経済力と僧兵の数では比叡山、春日大社を含んでいた興福寺は大和国内の国人統率などの政治力に優れていたようです。>武藤様
武藤舜秀 > そうなると、酒に関する持病があったから諌められたのか、義持からすれば、人並みでも「大酒」に見えたのかもしれませんね。>畠山様
足利左馬頭義輝 > 歴史のもしもは禁句ですが、もし義量が健在で、義持の築いた体制がそのまま円滑に進められていたら、室町幕府の進む方向も少し変わっていたかもしれませんね。義量が病弱であったとしても、満斎のような有能な幕閣も大勢いた訳ですし
武藤舜秀 > そうなると、興福寺は政治的にも利用価値はあったわけですね。>林様
畠山義綱 > 私も義量の死は幕府の大きな影響を与えたと思います。幕府の完成期に至ってまた混乱する一要因になったと思います。>公方様
林六郎光明 > 大和国内では興福寺衆徒と春日大社系国民の対立が激しくて、それをうまく捕まえられるのが興福寺しかなかったという特殊事情がありました。>武藤様
足利左馬頭義輝 > こうしてみると義持・義教の間にあってすごく影の薄い義量ですが、ある意味歴史の重要なキーパーソンだったかもしれませんね>修理殿
畠山義綱 > 私も公方様と話していて、そう感じました!義量の事績をただみるだけでは考えられないことです!素晴らしい発見!<キーパーソン
武藤舜秀 > 仏教対神道ですか。そういうから身はやはり国内だけにとどめておく必要はあったでしょうね。>林様
畠山義綱 > なんか見事に、尊氏・義詮・義満の頃をさらっと流して、義持・義量・義教への話題に入っていけましたね!(すごい)
足利左馬頭義輝 > よく教科書などでは、義満が室町幕府の最盛期とされていますが、身供的には義持期が最盛期と思います。貿易に頼らず将軍権威も高まり、後継者も確定し大きな戦乱も無い・・・
林六郎光明 > 正式には興福寺は大和守護に任命された記録はないんですが、このような事情から、「守護レベル」とせざるを得なかったんです。>武藤様
武藤舜秀 > 最盛期というか、一番平和な時期と云うだけのような気がします。>公方様
畠山義綱 > 公方様と全くの同感でございます。私も義持が最盛期だと考えています。無論、義満期で幕府権力を確立できたことが大きいのではありますが…>公方様
畠山義綱 > 加賀の本願寺の守護職と同じような状況でしょうか?<「守護レベル」>光明様
林六郎光明 > 確かに義持期って、幕府が一番安定していますね。政治的にも経済的にも一段落ついたって感じです。
武藤舜秀 > でも一瞬でも平和な時期を迎えていた義持はもっと顕彰すべき人物ですよね。
畠山義綱 > 戦乱が一段落すれば都市の経済も活発化する。そうすれば、都市税を中心としていた幕府財政も潤う。そう考えれば経済的にも安定した理由が納得。
足利左馬頭義輝 > 義持と大和国との関係を見ると、義持はこの頃幕府公的な信仰対象として春日大社へ奉幣しています。そのため幕府は敢えて大和には守護をおかず、寺社奉行によって実質的に大和の支配者である興福寺の利権を認めたのかもしれませんね。公権者として・・・>武藤様・林様
林六郎光明 > 確かに興福寺と本願寺は似ていますね。ただ、興福寺は守護としての扱いを他から受けていますが、本願寺はそこまで好意的には見られていないようです。
畠山義綱 > 全くの的外れ意見かもしれませんが、近世は「武家諸法度」のようにかちっとした形態がありますが、どうも中世では現実に即した対応が求められ、形式などはその次というような社会な気がします。守護も本来なら武家がなるべきものですよね…。
武藤舜秀 > 今少し調べたら、興福寺には守護を。春日大社には宇智・宇陀両郡を。両門跡に大和東西支配を認めたとありますね。
畠山義綱 > 本願寺は周り大名との関係がうまくいかない時期があったからでしょうかね。
畠山義綱 > 今まで各国の守護を見てきましたが、山城国の守護職というのは立場的にみるとどのようなものなのでしょうか?
足利左馬頭義輝 > 修理殿の申されるとおり、中世の価値観はまさに現世利益であり、そこに江戸期の儒教的な考え方は希薄だったかと思います。だからこそ「下克上スル成出者」が公然と跋扈できる訳で・・・
足利左馬頭義輝 > 山城守護職は、今で言う東京都知事見たいなもの、と思います>修理殿
畠山義綱 > 山城の守護というと、山名・京極・畠山・細川・一色・赤松など一定化はしていません。
林六郎光明 > 厳密に言うと、興福寺と言うより、興福寺の一乗院と大乗院の両門跡が守護としての扱いを受けていたんです。>武藤様
畠山義綱 > でも、京都はほぼ幕府が掌握仕切っているはずですよね。私は山城守護とは名誉職みたいな実態のないものなのかな?とも思ったのですが…。
畠山義綱 > でも、であれば京都以外の山城の支配体系ってどうなっていたんでしょう?戦国時代の末期まで荘園がいっぱいあって一国支配ができず点でバラバラ状態?
足利左馬頭義輝 > 当時の守護の支配権は、山城国とか近江国とかの領国支配権よりもむしろ宇陀郡とか高島郡とかの「郡代」支配が主で、その集合体として「領国支配」が成り立っていたと考えられています。
林六郎光明 > 守護は命令権はあるものの、その場所を支配しているというわけではないんです。それぞれの土地に国人や地侍がいましたから、彼らを取り込めるかどうかが領国支配の行方を占うものでした。
足利左馬頭義輝 > 従って、幕府の支配権の一つとして、例えば「山城国青龍寺城」のようなポイント毎の支配はあってもその領国までは支配権が及んでいなかったのが実情でしょう
林六郎光明 > 特に山城は国人や惣村の勢力が強かったので、山城国一揆が起こったんです。これは国人一揆と言う意味ですから。
畠山義綱 > 山城守護のようにコロコロ変わったらそれこそ国人達を取り込めない気がします。逆に言うと取り込めないからコロコロ変わる?
林六郎光明 > だから畠山氏が国人を被官化して、裏側から山城国を乗っ取ろうとした…応仁の乱へ続く、というところでしょうか
足利左馬頭義輝 > 林様の申されるとおり、「国」の実質的な支配者を如何に取り込むかが守護の命題でもあり死活問題でもありました。近江に幕府奉公衆の直轄地が多くありそれを六角高頼が横領し幕府の追悼を受けたなどは、土地領国問題の最たるものでしょうね
畠山義綱 > なるほど、だからこそ一揆で畠山を追い出そうとした。これも惣村が強かったからできた。
足利左馬頭義輝 > 話を義持・義量期に戻しますが、この当時この類の領地問題は鎌倉府を除いてほぼ確定しており、それが幕府の安定期につながっているものと思います
林六郎光明 > 権威としての足利将軍家が安定していると、領地問題も安定してきますね。
足利左馬頭義輝 > ところが義教期になるとこの安定が徐々に崩れ(つまり、小規模名横領が頻発し)、義教としては合議制よりも手っ取り早く解決できる領国支配への直接介入が最善と思い始めた・・・
畠山義綱 > 義持は朝廷からもちょっと距離を置いていますよね。義満の太上天皇の追号を辞退したり、武家政権としての権威を取り戻しつつあるような気がします。それと同時に朝廷との共存も図っていたのかな(義満は朝廷を軽視していたような気がします)
足利左馬頭義輝 > よく気まぐれで大名への守護奉任を推し進めたと思われがちな義教の施策は、ある意味崩れ始めた土地政策の再編だったと思います。
足利左馬頭義輝 > つまり自分の思い通りになる人物を守護に据え、土地政策を安定化させようとしたのかもしれません
畠山義綱 > 強権主義は義教の性格的なものあると思いますが、義持の側に基本的にいなかったから、幕府の組織の実態をみていないからこそできたのではないかとも思います。しかし、将軍職就任してからは現実を思い知ったことでしょう(いかに大名の権力が強いか)
林六郎光明 > 考えてみると、義持は公武協調の尊氏路線、義教は権威主義的な義満路線と言えますね。
畠山義綱 > あ!なるほど。そう考えることもできますね>光明様
足利左馬頭義輝 > 修理殿の仰せの通りです!義教はそれまで禁欲的な天台座主にありそれが突然現世の世俗に放り込まれたわけですから、その世俗的な駆け引きが堪えられず強権主義にはしったのかもしれません
畠山義綱 > 近世的な法体系・儒教体系の世界なら幼君でも経験のない将軍でも務まりますが、中世のような世界での将軍となると、現実的対応は実際の体験から学ばなければいけないのかもしれませんね。
畠山義綱 > 考えてみると、義教も冨樫政親もちょっと似ているような気がしました。確固たる権力を獲得しようとすると、各所から反発があり結局殺されてしまう…。
林六郎光明 > 徳川幕府の場合は老中などは家臣がなっていますが、足利幕府の宿老会議のメンバーはそこまで家臣団化されていませんしね。
林六郎光明 > 最近、高尾城合戦を考えていて、あれは守護を打倒したのではなくて、守護「でもある」冨樫政親個人を攻撃したのではないかと…<義綱様
足利左馬頭義輝 > 宿老会議は外様が入りそこに各自の利害が絡み紛糾しそうですが、義教前期までの治世では三宝院満斎や畠山満家などの中立勢力の発言が強く、そのために穏やかにまとまっていたと思います
畠山義綱 > 冨樫政親家を倒したいのではなく、政親個人を葬りたかったということですか?>光明様
畠山義綱 > でも確かに、赤松満祐が嘉吉の乱で狙ったのも「足利義教」個人で幕府全体を狙ったものではありませんよね>光明様
畠山義綱 > 確かに冨樫政親個人を狙ったのだとすると、冨樫泰高を擁立したのも説明が納得がいきますね。(空白になった冨樫家の家督を補充しなければならない)
林六郎光明 > 高尾城合戦の場合は、政親の妻娘は保護されていますし、政親と袂をわかった被官もいます。こういうことを考えると、個人への攻撃と言うのは意外と大切なことなのではないかと思い始めています。
畠山義綱 > なるほど<個人への攻撃
林六郎光明 > 赤松が暴走し始めた義教を倒したのは、幕府ではなく義教自身が危険だと考えたからですが、それでも義教は現役の将軍だったため、追討を受けざるを得なかった…これは統治方法としての宿老会議がシステムとして未熟だったということでしょうか
畠山義綱 > ではそろそろ23時になります、御題のまとめに入りましょうか?
足利左馬頭義輝 > この当時、宿老制は機能していない状態でしたね。主だった人物は死去し、残ったのは義教のイエスマンばかり・・・
畠山義綱 > テーマ「シリーズ・室町幕府と将軍権力〜幕府の創世記から義持・義教期〜」のまとめ。この時期の将軍権力をどうみるか?
足利左馬頭義輝 > 義持期から義教期まで。全く正反対の体制が共存した時期、とでも言いましょうか
畠山義綱 > 比較的守護勢力の強い幕府体制にあって将軍権力の模索が続いた時代。(義満期の強権獲得・義持期権力緩和そして、義教期の強権発動)
足利左馬頭義輝 > 室町幕府のありようを明確に、しかも対極的に具現化した時期と言えるかもしれませんね
林六郎光明 > 宿老合議制度の機能していた義持期と、それを乗り越えようとした義教期の違いは大きいですね。
畠山義綱 > そのような対極の具現化も、先ほど公方様が指摘したように、義量の早世がなければなかったかもしれせんね。
足利左馬頭義輝 > 個人的には、義教は悲劇の将軍、義量は悲運の将軍、そして義持は幕府功労者であると思います。もっと氏の評価を世間は高めて欲しい・・・
林六郎光明 > 公方様に全く同感です。もっと学校で教えてほしいですね(笑)
畠山義綱 > さて、次回の御題は今回のシリーズの続き「室町幕府と将軍権力〜義勝・義政・義尚期の戦国への胎動〜」で如何でしょうか?
足利左馬頭義輝 > 足利義量についてこれほど深く談義できたことは喜びに堪えません。歴史は奥が深くあってこそ価値が高まるもの!
畠山義綱 > 室町将軍と言えば、中学校段階ではもはや尊氏・義満しかでてきません…。それにしてもネットで足利義持を検索したら、事績を詳しく説明するものはほとんどありませんでした。残念。評価をもっと見直して欲しいです。
足利左馬頭義輝 > おぉ!!これはまた面白い!是非にも採用をお願い申します!>修理殿
林六郎光明 > 本シリーズの続きですね。よろしくお願いします。
畠山義綱 > 義量談義、私も嬉しく思います。やはり歴史はただ人物単体で見るものではなく、その背景を含めないと全く理解できません。その意味でも貴重な義量に関する見解を頂くことができました。有難うございます!
足利左馬頭義輝 > 義尚は歴史的に見て毀誉褒貶の激しい人物なので、充分に調べてみますね。近江も多く絡むので、武藤様も積極的になるかと思います。
畠山義綱 > 次回のテーマは応仁の乱を含んでいますので、室町幕府の解体過程を明らかにする面白い話し合いができると思います。楽しみです。
畠山義綱 > 日程的にはお盆の頃をと考えていますが、8月18日(土)など如何でしょうか?
足利左馬頭義輝 > 突然ですが、オフ会。なんだか「しなければならない」ような気がしてきました。まぁ、できれば、の話ですができたらさぞかし面白く活発な談義ができそうです。面つき合わせて話すると色々話も通し易くなるでしょうし・・・
足利左馬頭義輝 > 日程に問題ないと思います。最近定期的になってきてすごく楽しみが増えました。感謝いたします!
林六郎光明 > とりあえず8月18日は大丈夫だと思います。オフ会も是非お知らせ下さい。
畠山義綱 > もし、うまく日程が調整できたら、8月18日(土)にチャットじゃなく京都オフでもできたら良いですね…(笑)
畠山義綱 > もし、オフになったらレコーダーないと過去ログアップできないなぁ(笑)
畠山義綱 > 過去ログもできるだけ早期にアップできるように心がけます(苦笑)
足利左馬頭義輝 > たぶん酒が入りますんで(理性は保ちつつ)声が大きくなるかも。木屋町あたりでできたら良いですね!
林六郎光明 > ということは、京都一泊ですね>公方様
畠山義綱 > 私は義量のように、一般的に大酒喰らいのように見られますが、たしなむ程度でございます(爆)
足利左馬頭義輝 > 身供は肥後なので、完全に一泊です。カミさんに怒られるかも(笑)。九州人の酒の飲みっぷり、ご披露仕ります!
畠山義綱 > 公方様、大酒はいけませぬぞ。この御相伴衆の義綱めが…もっと酒を勧めまする(苦笑)
足利左馬頭義輝 > まぁゆるりと参りましょう。何から何まで決めてしまうと苦しくなります故・・・酒も談義も。でも皆で会うと楽しいでしょうなぁ!
畠山義綱 > そうですね。ゆるりと行きましょう。それでは、本日も遅くまで有難うございました!また次回よろしくお願い申し上げます!
林六郎光明 > 有難うございましたm(_ _)mおやすみなさい>各位
小姓 > 林六郎光明殿が退室なされましたぞ。
足利左馬頭義輝 > こちらこそどうぞよろしくお願い申し上げます。ではお休みなさいませ。
小姓 > 足利左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。
畠山義綱 > おやすみなさいませ>皆様
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。
−これにて終了−