定例チャット第七回討論会、過去ログ]
「守護大名・守護代と戦国大名について」

平成十九年皐月四日金曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(参加者:武藤舜秀様、林光明様、足利左馬助義輝様、味舌政宗様、畠山義綱)


小姓 > 畠山義綱殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > テーマは「守護大名、守護代、戦国大名について」です。
小姓 > 武藤舜秀殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > こんばんは(^-^)v
畠山義綱 > こんばんわ>武藤様
小姓 > 林六郎光明殿が入室なされましたぞ。
林六郎光明 > こんばんわ、みなさん
武藤舜秀 > 林様、こんばんは
畠山義綱 > こんばんわ。お久しぶりです>光明様
畠山義綱 > いっきに3人揃いましたね。
畠山義綱 > 今日のテーマは「守護大名、守護代、戦国大名について」ですが、かなり広いテーマですよね。
小姓 > 足利左馬頭義輝殿が入室なされましたぞ。
武藤舜秀 > 公方様、こんばんは
畠山義綱 > 特に守護大名がどのように戦国大名に脱皮していったのか、または脱皮できずに没落して言ったのか。地域の特性やその方法論などを語れると良いと思うのですが。
林六郎光明 > 公方様、こんばんわ
畠山義綱 > こんばんわ。>公方様
足利左馬頭義輝 > みなさま。こんばんわ。連休如何お過ごしでしたか?
武藤舜秀 > ←二日酔い中
畠山義綱 > 仕事ばかりでございます(泣)<連休>公方様
林六郎光明 > 今日は早めに仕事を切り上げてきました(笑)
足利左馬頭義輝 > 九州は今日から雨。で、昨日まで筑前筑後と豊前廻り。
畠山義綱 > 最近色々なお城を訪問されていますね>公方様
足利左馬頭義輝 > 今は酒宴と体休め・・・脚が痛い・・・。
武藤舜秀 > 豊前まで遠征されましたか!肥後からだとかなり遠いのでしょう
足利左馬頭義輝 > 特に少弐、菊池、大内、大友と名族関係を主に。連休前半は大宰府に泊まりました。
林六郎光明 > 大宰府なら九博が近いですね
武藤舜秀 > おぉ!大宰府に。武藤太宰少弐
足利左馬頭義輝 > 武藤様縁の太宰少弐。戦国史の入り口で重要な役割を持ってたので関心高かったですね。
足利左馬頭義輝 > それが九博には行っておりません(笑)その裏ッ側の有智山城跡に行ってきました
武藤舜秀 > 有智山城はどなたの城です?
足利左馬頭義輝 > もともと少弐氏の詰めの城で、相当な要害でした。少弐頼尚で特に有名ですね。
足利左馬頭義輝 > 足利尊氏も九州落ちの際、逗留してます。
畠山義綱 > 大内氏との合戦で奪いあったと言われていますね<有智山城
林六郎光明 > 私は九州は疎いので、そのあたり、ぜひお聞かせ下さい<有智山城
足利左馬頭義輝 > 左様にございます。大内が九州に出張ってきて、少弐が迎え撃ちこれに大友が絡む三つ巴。
足利左馬頭義輝 > あ、九州探題渋川氏もいました。失念。
畠山義綱 > そもそもどうして大内氏は九州に版図を広げようとしたのでしょうか。中国地方に拡大に限界があったのかな?
足利左馬頭義輝 > 九州は戦国の成功者島津と敗者少弐との比較で判りやすいかもしれません。
武藤舜秀 > 今川了俊もいましたね。
足利左馬頭義輝 > 修理殿、博多ですよ。堺に匹敵する大商業港湾都市!
武藤舜秀 > 大内氏は明との勘合貿易の権利も手に入れていましたし、博多を狙うのもうなずけますね。元寇の時も博多に来ましたし。
足利左馬頭義輝 > 下関と備後の鞆の津だとどうしても細川とぶつかりますからね。この二者。歴史的にも仲悪いし。
畠山義綱 > 大内氏の領国・長州などでは貿易できなかったのでしょうか?九州に大内氏が進出してから、大内氏を追い出そうとする勢力も増えましたよね。
畠山義綱 > なるほど<どうしても細川とぶつかりますからね
畠山義綱 > でも、本国から海で離れた九州に領国をちょこっと持っていても、防衛するのも大変だし、その辺の経済感覚はどうだったのかなと思うのです
足利左馬頭義輝 > 少弐はまず菊池に博多をとられ、次に今川了俊、そして渋川探題ととられっぱなしだったのでその回復に血眼になった
足利左馬頭義輝 > 北部九州は倭寇の取締りで幕府からある程度の自治権をもらってたんでその利権が欲しかったんでしょう。
畠山義綱 > なるほど、領国の経済基盤だけでなく、政治的権力も考えるといいのですね。大内氏は戦国時代後期になると、朝廷から少弐氏より上位の官途をもらって支配を正当化しようとするなど、並々ならぬ九州制圧の意欲を感じます。
武藤舜秀 > 大体の大内氏の本拠は周防・長門で九州の隣に位置し、九州を狙うのは自然でしょう。
武藤舜秀 > 大友氏は豊前から筑肥を狙っておりぶつかるのもわかりますよね。
足利左馬頭義輝 > 大内の戦国化の鍵はやはり対明貿易にあったのだろうと思います。利益が桁違いでしたから。
畠山義綱 > 大内氏は結構巨大な大名で、東に尼子氏との戦も抱えています。そこに西の少弐氏との戦も抱えていくと両方面での作戦を展開しなければなくなります。海で寸断された補給線を考えると、どうも大内氏の行動が納得できないのですが・・・>武藤様
畠山義綱 > 確かにそうですよね。巨大な利益があるからこそ戦争できるだけの経済力を持ちえるわけですから>公方様
林六郎光明 > 対明貿易での輸入品の最たるものは明銭ですから、ここを押さえるのは大事だったと思うのです。
足利左馬頭義輝 > 大内は九州攻略の際、豊前の門司城を最重要視していました。関門海峡がある海の要衝です。大内は門司城の門司氏を支配下に置き、本国との補給線を確保しています。
武藤舜秀 > しかし、大内氏は最低でも周防・長門は守護国でそれに石見、安芸、豊前は守護国になっていなくても影響力はあったのである程度の防衛ラインは東は石見、安芸。西は門司までは確保していますから両面侵攻は可能でしょうし、どちらかが停戦してもう一方を攻める作戦もあります。
足利左馬頭義輝 > 林様の仰せのとおり、大内の力の根源は明銭です。これがあるからこそ大盤振る舞いもできたし家臣も繋ぎ止められたのでしょう。
武藤舜秀 > 尼子氏にとっても、まずは石見、そして安芸。大内・尼子にとっても重要なのは石見の大森銀山。
畠山義綱 > やはり両方面作戦ができるのも、貿易マネーのおかげですかね?>武藤様
武藤舜秀 > やはり、将軍家にも影響あったくらいですから財力は当時日本一だったと思います。
畠山義綱 > 確かにそうですね。将軍家にも朝廷にも献金量が半端じゃないですからね。うらやましい(苦笑)>武藤様
足利左馬頭義輝 > 大内の狙いは経済戦だったと思います。博多を狙うのも石見に盛んに出るのも貿易の利益による富国をめざしたのでしょう。石見はもちろん銀山。
畠山義綱 > とすれば(財力日本一の大内氏)、その大内氏が滅亡する理由となった陶晴賢の反乱はどうして起こるのでしょうか?通説どおりなんでしょうか。領国支配などの体制とかも気になりますね。
武藤舜秀 > しかし、大内氏の弱点は内部崩壊。吉見氏と陶氏の仲違い。
畠山義綱 > ああ!私も同じことを考えていました(笑)>武藤様
畠山義綱 > 大内氏の体制は典型的な守護大名体制ですよね。きっと…たぶん。だからこそ、下剋上の下地はあったんでしょうか?
足利左馬頭義輝 > 尼子も版図を相当拡大しましたが、土地的に見て石見・因幡・出雲はそう豊かな土地じゃない。そこで目に付けたのが石見と三保関での貿易。それと砂鉄。
小姓 > 味舌政宗殿が入室なされましたぞ。
畠山義綱 > おお!味舌政宗様こんばんわ!
味舌政宗 > 遅れてきましたがこんばんわ。
武藤舜秀 > 晴賢の反乱は義隆の京都数寄から端を発して寺を建てたり公家を招いて供応したりとかなり重税をかけていたようですが?
武藤舜秀 > 味舌様、こんばんは。
林六郎光明 > こんばんわ>味舌政宗様
味舌政宗 > 皆様こんばんわ。大内の話で盛り上がっておられますな
足利左馬頭義輝 > 政宗様、こんばんは。お初にお目にかかります。
味舌政宗 > こんばんわ>林さま
味舌政宗 > こんばんわ>武藤様
畠山義綱 > なぜ、大内義隆は家臣の求心力が下がるような行動をしたのでしょうか?文化にのめり込みすぎといいますが、何か理由はあったのでは?
味舌政宗 > お初にお目にかかります>足利左馬頭義輝様
武藤舜秀 > 尼子氏は東中国の守護職を兼務し一時期は播磨まで勢力を伸ばしました。しかし、支配体制が行き渡らないというか、一気に領国を伸ばしすぎたためか、あっという間に元に戻りましたが。
畠山義綱 > 対明貿易をして儲けていた大内氏ならば、対幕府交渉や対朝廷交渉は重要だと思うので、そのために公家の招請などを行っていたのだと私は思っています。それなりに義隆の行動には理があったと思うのです。
畠山義綱 > やはり身の丈にあった版図の広さというものがあるんでしょうね<尼子氏>武藤様
味舌政宗 > 大内、尼子両氏とも経済活動は一流ではありましたが、結局のところその国内にいた在地領主の上に乗っていただけに過ぎないですから、領内の武士達が実力行使しだすと止められなかったんではないでしょうか?
武藤舜秀 > あまり詳しくはわかりませんが、大内義隆の趣味にも似たことではないでしょうか?
足利左馬頭義輝 > 大内は義興の代に家臣の統制が完成しました。銭による家臣への報奨と土地の保障が確定したからです。その陶は周防守護代で筆頭家老。忠節は持ちますね。
畠山義綱 > そうですよね。守護大名的支配体制の大内氏は、豪族の連合盟主のような存在なんでしょう。でも、その体制でここまで版図が広がったのに、なぜ実力行使を使うに及んだのでしょうか?
足利左馬頭義輝 > 大内義隆の勘違いは、陶、内藤、杉等の家臣が銭で繋ぎ止められたと思ったことかも。晩年、義隆は陶の領地から旧東大寺の周防の領地を返還しようとしました。陶隆房はこれに猛反発したそうです。
味舌政宗 > おそらくは出雲遠征の失敗によってめっきがはがれたのかもしれませんね。これは尼子も同じで弱小だった毛利を破れなかったのが求心力低下の要因だったように思いますが>義綱様
林六郎光明 > 石見の大森銀山の産銀量は世界史的レベルでしたし、博多での貿易利益も多かったでしょうが、公方様の言われるように、武士の一所懸命という性格とは少し違っていったような気がします。
畠山義綱 > 連合盟主では、強気の時はみんな付いて来ますが、一端弱さが見えてしまって求心力が低下すると脆いですからね>政宗様
足利左馬頭義輝 > 結局、守護大名家のよりどころは「土地」だったのでしょう。主君に従う家臣郎党は、自分達を保障してくれる者だけを必要としてますから。
畠山義綱 > では、大内義隆はその「土地の保証」関係のまずさがあったのでしょうか?>公方様
畠山義綱 > また、陶晴賢はその「土地の保証」関係をどのように構築して言ったのだろうか、興味があります。
足利左馬頭義輝 > 大内義隆の悲劇は、戦争で土地を増やさなくても領国維持できると思ったことにあると思います。それはやはり貿易利潤が大きかったからだと思います。そのため土地政策を重要視しなかった。
畠山義綱 > なるほど、そうなると、陶晴賢の行動にも納得ができますし、下剋上した晴賢に付き従うのもうなずけます>公方様
足利左馬頭義輝 > 義隆が多くの公卿を山口へ住まわせたり、寺社へ異常とも思える寄進をすることは、その土地を支配する家臣たちにとっては堪りませんからね。
林六郎光明 > 家臣団と言っても在地の国人や土豪層は基本的には在地領主ですし、その土地が脅かされたときに守ってもらえない殿様にはついていきたくないでしょうね。
畠山義綱 > 確かに寺社への寄進は自分の貰う分の領地の削減に繋がります。しかし、一方で寺社勢力を味方につけるというのは、戦略上はけっこう有効ではなかろうかと思うのですが、(事実、史実の畠山義綱も寺社への寄進が多かったのです)。>公方様
足利左馬頭義輝 > 当時、西国では寺社勢力と言うのは甚だ微弱で、全く戦力とはなり得なかったのが実情でした。その点が畿内・北陸とは違っていたのかもしれません
畠山義綱 > ええ意外!<西国では寺社勢力と言うのは甚だ微弱
畠山義綱 > であるならば、義隆が寺社勢力に寄進した理由は…趣味でしょうか?>公方様
足利左馬頭義輝 > 尼子経久・晴久も出雲大社へ盛んに寄進してましたが、これは民意を引き付けるための施策だったように思います
畠山義綱 > それが義隆に至っては、過剰過ぎた。ということでしょうか?
林六郎光明 > 寺社への寄進というのは、祈りの力を自分用に確保すると同時に、周囲への宣伝効果もあったと思います。
畠山義綱 > そうでした。また現代人感覚で考えてしまうところだった<祈りの力を自分用に確保する
足利左馬頭義輝 > ある意味、趣味だったと思います。度が過ぎた趣味は浪費につながりますし。民への慰撫は良いにしても、より現実的な家臣たちにとっては「おい、この御館大丈夫か?」となりますし。
武藤舜秀 > 寺社寄進と荘園返上でかなり対外的に名を挙げることになりますね。
武藤舜秀 > 一条氏も大内氏もほとんど趣味的にしか見られない。
足利左馬頭義輝 > 更に義隆はその民にも重税をかけて反感を買った・・・つまり家臣領民から嫌われた・・・のでしょう。嗚呼悲哀。でも自業自得。
林六郎光明 > 当時も今も、神仏にのめり込むのは注意が必要ですね。一線越えると、歯止めがかからなくなる(笑)
畠山義綱 > 四国の一条氏は、公家大名という家柄から考えると、寺社に寄進するのはある意味自家のプライドにも繋がりませんか?
畠山義綱 > 林様の意見に激しく同意。
足利左馬頭義輝 > 大内と全く反対の政策で苦労したのが細川と六角でしょうね。歴史的に見て細川は失敗し、六角は成功した。
武藤舜秀 > それはあるでしょうね。>一条氏の寺社寄進
足利左馬頭義輝 > 一条氏が出てきましたねぇ。この戦、長引きそうです・・・(笑)。
畠山義綱 > そうであるならば、陶晴賢の反乱は、土豪などの意見を集約した結果のものであり、晴賢が起こさなくてもいずれ義隆はクーデターを起こされたのでしょうか。また、ということは、晴賢もまた担がれたリーダー?
畠山義綱 > 一条氏、私は好きなんですよぉ〜(笑)>公方様
武藤舜秀 > 国司は飛騨・伊勢・土佐だけなんでしょうか?
足利左馬頭義輝 > 陶晴賢がクーデターを正当化するなら、わざわざ大友から晴英を呼ばなくても、毛利元就のように自ら支配できたはずでしたから。
足利左馬頭義輝 > 身共は、土佐一条氏は、房基で完成し、そして滅びた・・・と
足利左馬頭義輝 > 一条房家・房冬はどこか公卿!としていましたが、房基は完全に戦国大名でしたから。
畠山義綱 > 確かに。それだけでも、晴賢の一人意思ではなく、家臣たちのクーデターということが伺えますね。クーデターのリーダーは晴賢だけど、大内家のリーダーにはさせない。>公方様
味舌政宗 > そうですね。結局は自分で体制を作り出せなかったから、大内と同じ運命を辿ったんでしょう?<足利様
味舌政宗 > 毛利は郡山合戦のあと大内の権威をうまく利用して自己領を拡大してゆきました。そして国人の連合体的な性格をうまく主従の関係にもってゆけたんです。10年ほどかけてほぼ安芸一国を一円支配していたわけですから
林六郎光明 > 加賀一向一揆もそうでしたが、戦国時代のクーデターって、たいがい代わりのお神輿を担ぎ出しませんか?
足利左馬頭義輝 > 陶晴賢としては、義隆の実子・義尋を担ぐ手もあったのに敢えてこれも殺していることから、クーデターを起こして初めて担げる神輿の必要性を感じたのでしょう。
武藤舜秀 > それが前回のテーマだったんですよね。>林様<お神輿
畠山義綱 > 確かに下剋上といっても、「自分が自分が」って感じがあまりしませんね。傀儡君主も多いですし<林様
武藤舜秀 > 義尋は病没じゃなかったです?
足利左馬頭義輝 > お神輿の究極は、細川政元の足利義澄!
味舌政宗 > 長尾為景の場合もそうでした。主君を武力で打倒したにもかかわらず傀儡守護を立ててましたね。おそらく自分の力だけで領内の在地領主たちを討伐するほどの力がなかったのかもしれません。
武藤舜秀 > 代替わりしなくても、器用次第で傀儡にも似た政権になるでしょう。
畠山義綱 > 大内義隆の実子・義尊は義隆と同じく殺されています。
武藤舜秀 > 義尊は尼子攻めで戦死したような・・・?
畠山義綱 > それと同時に、傀儡守護を利用した方が、国内をまとめるのに楽できるという利点でもありますよね>政宗様
味舌政宗 > 確かにそうですね。自分の意のままになる君主の方が力は伸ばしやすいですからね>義綱さま
足利左馬頭義輝 > 戦死・・・というより、退却中に不慮の死を遂げたのは大内晴持・・・義隆の嗣子で土佐一条房家の実子です。>武藤様
畠山義綱 > 正確に言うと、義尊は父と同じく自害するのですが…http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/retuden/ouchi_yoshinaga.html
味舌政宗 > でもある程度までゆくと傀儡守護も面白くありませんから他の勢力を操って今操っているものを討とうとするものです。時代は下りますが足利義昭などその良い例です。
武藤舜秀 > なるほど、大内義隆は子供に関してはあまり有名ではないですから、しりませなんだ。
畠山義綱 > そうなると、結局成人した傀儡当主は自立傾向が生まれて操作しにくくなるので、幼年の当主に挿げ替える。これは鎌倉の2代・3代将軍・摂家将軍・皇族将軍にみられる例ですね。>政宗様
林六郎光明 > 朝倉氏ぐらいでしょうか、お神輿担がなかったのは。
味舌政宗 > 神輿は担ぎませんでしたが、うまく東軍の細川に取り入って越前の支配権を手に入れていますね<林さま
足利左馬頭義輝 > 戦国期、断じて傀儡守護にならなかったのは、奥羽の伊達、駿河今川、近江六角、甲斐武田・・・あたりでしょうか
畠山義綱 > 確かに。でも斯波氏は他にも領国があるので(特に尾張)、神輿にこだわる必要もなかったのではないでしょうか?>光明様
畠山義綱 > 多かれ少なかれ、重臣達に担がれている部分はあると思います。六角氏なんかも、『六角式目』でかなりの当主の権限が縮小されていますし>公方様
味舌政宗 > そのとおりだと思います。以上挙げた大名は最後まで自らが主体だったですから。>足利様
武藤舜秀 > 六角義治の代に傀儡に近い家臣合議制になってしまいませんでした?
味舌政宗 > 六角氏は最後はそうでしたね。日本版マグナカルタで封じされてしまいましたね
足利左馬頭義輝 > 斯波氏はやたらプライドが高すぎたため、歴史から消えたんだと思います。朝倉に背かれ、駿河を奪われ、織田に滅ぼされ・・・ろくな末路ではありません
畠山義綱 > それに比べると、三管領の中でも、細川氏は最期までよく残っていましたよね>公方様
足利左馬頭義輝 > 六角の場合、戦国大名化へ脱皮できたのは、高頼の功績だと思います。
林六郎光明 > 伊達、今川、六角、武田、みんな苦労して地位を守りましたよね>公方様
味舌政宗 > 伊達、今川、武田に共通しているのは所領の安堵や宛て行いなど土地を仲立ちとする支配体制が未熟ながらでも構築できたことが大きかったでしょう。さらにはその過程で領内の在地領主と争い屈服させていってますので余計に領内の土地と家臣をつかんでいたのかもしれません
足利左馬頭義輝 > 細川は一族団結の強固さは南北朝以来の伝統ですし。
味舌政宗 > 細川氏については=幕府だったからかも。でも1550年頃には崩壊していましたし。>義綱様
味舌政宗 > そうなんです。みんな在地領主たちと血みどろの抗争を繰り広げて1国を平定したわけですね>林さま
武藤舜秀 > 伊達、今川、六角、武田に共通するのは分国法・・・
畠山義綱 > 幕府と一体化し、権力を得るために一族で団結することが、命脈を長く保った理由かもしれませんね。やはり幕府の力は大きな影響力がありますね。
味舌政宗 > 武藤様、六角を除くと自らが権力であり権威あることを証明したわけです。
畠山義綱 > 家臣の「土地を保証する」というのが大名の勤めならば、それを具体化していって、家臣の利害を調整する役目がありますよね。それを具現化したのが分国法ではないでしょうか?>武藤様
足利左馬頭義輝 > 六角氏の戦国化は定頼で完成しました。つまり、高頼で守護代伊庭氏を滅ぼし、寺社領を横領し、定頼で知行制を完成させた・・・
武藤舜秀 > 分国法という「法の名の下の統治」が効いているからこそ後世に残っているのでしょうね。
畠山義綱 > いよいよ、今日のテーマの核心に迫って来ましたね。
足利左馬頭義輝 > つまりは、横領しようが滅ぼそうが土地なんでしょう。細川は土地問題で大和と泥沼を演じ、六角は分配できた
味舌政宗 > 在地領主たちも地下の農民の突き上げをくらいかなり危機的な状況にあった場合が多かったのでそこを保証する権力が必要だったといえましょう。だからこそ家臣自らを規制する法に従うことで在地でも支配力を強めることができたから積極的に賛成したんじゃないでしょうか?
畠山義綱 > そういった面では 六角氏も他の分国法と同じ役割なんじゃないでしょうか?すなわち分国法は権威の象徴でもあると同時に、家臣の利害を調整する役割を明文化したもので、大名 側からの必要に応じて制定されたものと、家臣側の要求に応じて制定されたものとがある。でどうでしょう?
武藤舜秀 > 私もそう思います。>義綱様
味舌政宗 > そうだと思います。法は家臣ばかりを規制するように見えて主君の恣意も規制します。そのとおりだと思います
畠山義綱 > つまり、戦国大名化するためには、いかに家臣の統制を取っていくかが課題であった。守護大名は基本的に国人との上下関係はないわけですから、土地の保証関係でトラブルも多かったのではないでしょうか。だからこそ、こういった分国法が産まれる背景になったのでは?
足利左馬頭義輝 > 足利義尚・義材は奉公衆の領地確保のため、寺社領を横領する六角を成敗しようとした。つまりこの頃から足利も戦国大名化しようとしたんですな
林六郎光明 > 面白いのは、荘園制度が完全に崩壊して、在地に本所や領家の支配が及ばなくなって、「職の体系」とは別の、新たな支配体制を作らなければならなかった時代に入ってしまったことですね。
畠山義綱 > 新たな支配体制を生み出すのはなかなか難しいことです。それがうまく対処できなくて、反発された大名家と、うまいバランス感覚で成功した大名家とが戦国大名化の成否の一因になりませんか?
足利左馬頭義輝 > しかし足利は寺社や権門の庇護者である以上露骨な横領はできない・・・だから寺社領を掠める六角を執拗に攻めた・・・そのうち将軍家の戦国化を危うく思う細川政元に先手を打たれた
味舌政宗 > 守護大名とその領内の在地領主の関係は被官化というだけでしたから、守護から土地をもらったというわけではなかったですからね。土地保証といってもせいぜい買得地の安堵ぐらいじゃないですかね
味舌政宗 > この時代はよく土地は売買されていたようで買った土地の支配権を安堵してもらうことから始めた戦国大名も多いようです。例えば朝倉や伊達などはそのような文書が残っています。芦名あたりもそうです。
畠山義綱 > そうですね。越中公方・足利義材が越中に在国したときも、神保長誠は寺社の横領などがおおみっぴらにできなくなりまたし。>公方様
足利左馬頭義輝 > 六角高頼は近江の寺社領を頻繁に横領し、それを知行地として家臣に与えました。これは在地国人の土地支配を認める、という守護大名的な支配とは異なる画期的なものです。
味舌政宗 > それと、守護が戦国大名化する場合は早い時期からその領国に住み着いている場合が多いですね。基本的に守護は都にいなければならないものでした。有力な守護でうまく戦国大名化しているのは遠国の大名が多い理由でもあります。
畠山義綱 > むしろ最初は、諸役免除などだけの被官関係ではなかったでしょうか。土地の権利というのは守護は持っていないわけで、政令指定都市の区長のように、事件はあまりない中央から派遣されたただのトップである、という気がします。
林六郎光明 > 公方様の仰られた知行制度というのは大きいと思うのです。当時の土地売買は必ずしも所有権の移転を意味しませんから、上級権力による安堵という行為が必要なんでしょう
足利左馬頭義輝 > ある意味、守護にとって最大の敵は守護代です。赤松家などは浦上に取って代わられましたし、土岐は言うに及ばず・・・
味舌政宗 > そのとおりですよ。義綱さま。もともと守護などは土地に対する権利などもっていなかったんですから。南北朝あたりより半済などで経済力をつけていっただけで土地所有者でもありません
畠山義綱 > 代替わり安堵などが例でしょうか?>光明様
武藤舜秀 > その土地売買を禁止する分国法もあったりします。
味舌政宗 > 買地安堵制と呼ばれるのが一種の知行制度です。買った土地の支配を上級権力が保証するものです。>林さ
畠山義綱 > もともと在国している守護代が土豪の利害調整をやっているとしたら、土豪たちも在国の守護代を信用するのか、在京の大名を信用するのか言わずもがなですよね。そういった面では、守護代が取って代わるというのはごく自然な流れだとも思います。
林六郎光明 > 代替わり安堵は、形式的には幕末まで残りました。いわゆる家督相続のお目見えという儀式です。>義綱様
足利左馬頭義輝 > 土地売買の禁止の分国法・・・どこでしょうか!?>武藤様
味舌政宗 > 武田や今川の分国法は土地売買は禁止していますが、例外として質入は認めています。というよりは実情として残ったというべきでしょうか。>武藤様
武藤舜秀 > 守護代から戦国大名にのし上がる例もありますよね。尼子氏、長尾氏など。
武藤舜秀 > 土地をかたに金品の貸し借り・・・ですか?
味舌政宗 > 逆に買地安堵をしている大名は武田や今川ほど強い権力をもてなかった例が多いです。軍役の基本となる土地を勝手に売買できるということを止められないわけですから、伊達氏もそういった意味では決して権力が強い大名ではありませんでしたし。
味舌政宗 > そのとおりです。土地を担保に金を借りると思います>武藤様
武藤舜秀 > 伊達氏は晴宗の代にかなりの土地権利を乱発しすぎてましたよね、天文の乱時に。
味舌政宗 > 乱発というよりはそむいた家臣の土地を没収して宛て行いをしたというべきかもしれません。只天文の乱中は空手形も切っていたかもしれませんね。>武藤様
畠山義綱 > 戦の時には「守護還付の時」のように、もし自分が守護に戻ったらこの土地をやるよ、みたいな空手形が多いですよね。いかに土地の権利を大名が利用しているかわかります。それは全国どこでも同じで、伊達だけに見られるものではないと思います。
林六郎光明 > 当時の土地取引については、永代売と言えども場合によっては本主に返さなければならなかったことで、だからこそ地域の上級権力が安堵をして所有権を確定する必要がありました。
足利左馬頭義輝 > 細川氏も、守護代内藤氏を更迭した際、内衆の上原元秀に守護代を与えて増しし
味舌政宗 > その所有権確定をてこにして主従関係を結び権力化していったものも戦国大名というべきでしょうね。当然安堵する変わりに被官として役務を頼むのでしょう。
畠山義綱 > 大名と家臣(土豪・国人領主)の間には、土地の権利関係の調整が関係している。ということが言えそうですね。
足利左馬頭義輝 > 土地の確保という点では、六角と甲斐武田は似通っていると思い思います。つまり六角は荘園の横領、武田は信濃侵攻、細川は幕府との結びつきが強すぎたため、横領はできずかといって侵攻もできず。
畠山義綱 > ではそろそろ、テーマをまとめていきましょうか?
味舌政宗 > 足利様、そのとおりなのです。武田の信濃遠征は経済的に弱い甲斐だけでは立ち行かなくなったがために必然的に起こさねばならなかったものといえます。
足利左馬頭義輝 > >修理殿 そうですね。このままだと日付を超えそうです。
畠山義綱 > それでは、皆様。「守護大名がどのように戦国大名に脱皮していったのか、または脱皮できずに没落して言ったのか」を独自にまとめていただければと思います。
林六郎光明 > やはり良質な土地の確保と分配ということが大切ですね。被官から家臣へ、と言うことでしょうか。
足利左馬頭義輝 > 元々守護大名は、足利尊氏の半済令から発したもので、それを守護が上手く利用し勢力を強めた。
畠山義綱 > 幕府から与えられた守護という役職。幕府と言う関係を抜きにして、いかに自分の支配体制に組み入れられるかがカギであった。そのれは、土地の権利関係など、家臣の利害調整の成否が大きかった。ここが戦国大名への脱皮の分かれ目であった…のかな(笑)
味舌政宗 > 結局のところ、土地の確保とその分配、そしてそれを宛行うことにより在地領主を直接的に家臣化できた守護は戦国大名として残っていますね。当然その間には武力を交えたもの もあれば、守護優位の立場で和睦したものもある。そしてなにより早い段階で在地していたかどうかこのあたりもポイントになるように思います。
足利左馬頭義輝 > 戦国大名への脱皮は、結局土地問題の成否でしょう!
味舌政宗 > さらに、守護の任国は数カ国あっても飛んでいる場合はまずだめでした。それは斯波や京極が良い例です。
畠山義綱 > 不在守護の場合、守護代の力が必然的に大きくなり、下剋上の下地を作るから、でしょうか?>政宗様
味舌政宗 > そうです。京極の出雲などは良い例です。不在であれば守護代の力が大きくなりますから必然的に乗っ取りみたいになる場合が多いですね>義綱様
足利左馬頭義輝 > 菊池は明応年代に戦で権威を落とし、細川は政元の横死で足がかりを失い、京極・上杉は内紛の後遺症が効きすぎて戦国化できなかったと思います。
武藤舜秀 > 失敗から見る守護大名からの脱皮の仕方は@むやみやたらに寺社領を返上しないこと。A幕府に近すぎないこと。B守護代に裏切られないこと。
味舌政宗 > 幕府から早く離れたものほど長く命脈を保っていますね。>武藤様
足利左馬頭義輝 > 次節も、盛り上がりそうで嬉しいです
武藤舜秀 > そうですよね。逆に幕府とつながりが薄いほうが成功しているように見えます。
武藤舜秀 > 今回のテーマはやはり大きすぎましたね。
畠山義綱 > 細川氏は幕府のイベントなどの経費負担を強く迫られていますので、経済的に苦しくなったみたいです。幕府の力が弱いからこそ、幕府を協力に支援している人からたくさん取らなければなりませんし、また同様の理由で朝廷対策費用もかさんだようです。
畠山義綱 > いえいえ、広すぎて「もっと全然盛り上がらないかな」と心配していましたが、結構盛り上がったし、すごく参考になりました(西国は寺社勢力が弱いとか)
畠山義綱 > 何か次回のお題に妙案はありませぬか?>皆様
林六郎光明 > 今回はテーマも大きかったですが、時間がわりと早くからだったので、ゆっくりできたような気がします。
味舌政宗 > 西国のお話は参考になりました。特に大内氏についてはあまり知らなかっただけに
足利左馬頭義輝 > 幕府は権門の牙城。それに抗った者が成功者。例えば近江六角、越後長尾、甲斐武田、駿河今川。彼等は非合理的であろうとそれを推進し勢力を拡充しました。もっと調べる必要があるように思います
畠山義綱 > あっ、それどうですか?「室町幕府と将軍権力」とかってテーマは?
味舌政宗 > ある程度戦国大名として成功した大名に絞ってみるのも面白いかもしれませんね
武藤舜秀 > 賛成>「室町幕府と将軍権力」
畠山義綱 > そうですね。今日の話なら、大内氏か一条氏の話をもっと深くできたらより、深い話ができたかもしれませんね。
畠山義綱 > ありがとうございます>武藤様
味舌政宗 > 室町幕府と将軍権力ですか。面白そうなテーマですね。以外と知られていないことも多いですからね室町将軍のことは
林六郎光明 > 室町幕府だけだったらちょっと時代が広がりすぎるので、少し時代を狭めませんか?義持とか義教以後とか‥
足利左馬頭義輝 > 今、ふと思いました。京でオフ会など。テーマは成り行きに。相当尾盛り上がりますかな
武藤舜秀 > オフ会もいいですね。
畠山義綱 > 一般に弱い幕府でとらえられる室町幕府ですが、どのような経緯でこのような政体になり、戦国時代に至ったのか。また、戦国時代の将軍権力は(義晴・義輝・義栄・義昭)どのようなものであったかなどは…?
武藤舜秀 > 近江から越前には案内仕る
足利左馬頭義輝 > 室町将軍家と将軍権力・・・すごく良いです
畠山義綱 > オフ会いいですね。皆様の居住地の真ん中をとったら、やはり京都になりますね(笑)
味舌政宗 > 室町幕府史をつぶさに見るのも面白いかもしれませんね。時代は広がりますが初めからみてゆくとつながるんじゃないかなと思います
畠山義綱 > 公方様の積極的参加は、これでもう決定ですね(笑)
林六郎光明 > ひえ〜(笑)>味舌様
畠山義綱 > 我々はとかく戦国時代が中心になりますので、光明様の提案にあったように室町幕府前期から見ていくのも面白いですね。
味舌政宗 > 意外と戦国時代につながる部分が見えてくると思います。特に義教あたりはすごいものですから
武藤舜秀 > 室町幕府史・・・!観応の擾乱から義昭上洛まで・・・
足利左馬頭義輝 > 特に、足利義教以降は題材も多く面白いと思います
武藤舜秀 > 義教のやり方は信長や松永以上の人間不信か。
畠山義綱 > 逆に歴史を戻ってみても面白いですよね。最初に戦国時代の室町幕府をみて(義晴・義輝期)、あとから、義持・義教期を見ていくのも良いかと。
林六郎光明 > 私ではなくて、味舌様のご提案でござります。こうなれば、嘆きながら賛成いたしましょうぞ!(笑)
足利左馬頭義輝 > 何か、今谷明先生の世界になって来ました
武藤舜秀 > そうですね。今谷氏の三好一族を読んでいますし、幕府ともリンクするところがあります。
畠山義綱 > では、テーマは「シリーズ・室町幕府と将軍権力」ということで決定致します。あとは、室町時代のいつを初回のチャットでとりあげましょうか?
足利左馬頭義輝 > 身共としては、やはり義持以降かと・・・
味舌政宗 > 義持以降がわかりやすいでしょうね。
畠山義綱 > 公方様のご提案ということで、テーマ「シリーズ・室町幕府と将軍権力〜幕府の創世記から義持・義教期〜」ということで、尊氏・義詮・義満はさらっと扱い、義持・義量・義教期に重点を置くということでいかがでしょうか?
味舌政宗 > 義満あたりを深くやると天皇家乗っ取りだとかわけのわからん方向へ進みそうですからさらっとしてみましょう
武藤舜秀 > 観応の擾乱はさらっと行けないでしょう(笑)
林六郎光明 > 賛成です
味舌政宗 > 確かにあれはさらっとはゆかないですね>武藤様
味舌政宗 > 賛成いたします
武藤舜秀 > でも、話はややこしくなるでしょうから私も賛成します。
畠山義綱 > 義持・義量・義教の時代を説明するために触れるくらいにとどめておくというのでどうでしょう。必要に応じてまたシリーズで観応の擾乱も取り上げましょう!>武藤様
武藤舜秀 > そうしましょう。
武藤舜秀 > 観応の擾乱も南北朝もドロドロ。
足利左馬頭義輝 > いや〜楽しいです。室町期はとかくすっ飛ばされることが多いので深く探求すれば新しい発見があるかもしれません
畠山義綱 > 次回、開催日程なのですが、7月15日(日)は如何でしょうか?次の日が海の日で休日となります。それを過ぎると8月になってしまいますが。
武藤舜秀 > 予定に入れます!>7月15日
味舌政宗 > それがよろしいですね。
武藤舜秀 > 室町期は面白いのになぜか江戸人気.たまには室町時代も扱ってほしい。
足利左馬頭義輝 > 確定!でも2〜3時間で終わりますかなぁ・・・今日見てそれが不安・・・。
林六郎光明 > いいですね、お休みとれそうです>7月15日
畠山義綱 > 日程はOKですね。チャットは長いと負担になりますので、おおよそ3時間を目安に致しましょう。やはり20時〜目安は23時くらい。
武藤舜秀 > 了解です。
足利左馬頭義輝 > 御意!
武藤舜秀 > 今日は二日酔いで今日は調子悪かったです。
林六郎光明 > 時間帯も適度で、良いと思います。>義綱様
畠山義綱 > 司会しながら、まとまりがなくて申し訳ございませんでした。でも、とても楽しく色々な大名を知ることができました。みなさんと討論できて面白かったです。今度はぜひオフでも!
畠山義綱 > 過去ログは比較的すぐにアップできると思います。過去ログは当サイト「能登畠山氏七尾の歴史」の旧「北陸歴史ねっと」跡地に入れておきます。
足利左馬頭義輝 > 何時になるかわかりませんが実行できたらこれに勝る誉れなし。
足利左馬頭義輝 > 本当にできたら良いなと思っております
武藤舜秀 > オフ会は京都の室町幕府と縁が深い場所がよろしゅうござります。
林六郎光明 > 京都でのオフ会いいですね。>公方様
畠山義綱 > 室町御所でやりましょう(笑)だめなら金閣で(爆)<オフ会
味舌政宗 > それは面白い。京都なら案内できますよ
武藤舜秀 > 銀閣でもいいですね。
武藤舜秀 > 近江なら私もある程度案内できます。
味舌政宗 > 船岡山あたりもいいかもしれませんね(笑)
畠山義綱 > それでは皆様、長い討論本当にお疲れ様でした。次回もよろしければご参加をお願い申し上げます。
味舌政宗 > また是非参加させてください。
足利左馬頭義輝 > 京には木屋町とか、面白いとこが数多あります。そこでよければ是非!
武藤舜秀 > 了解です。では、また次回楽しみにしてます。

足利左馬頭義輝 > 次回、心待ちにしておりまます
畠山義綱 > では今日は落ちます。皆様おやすみなさいませ。
小姓 > 畠山義綱殿が退室なされましたぞ。
林六郎光明 > 皆様、有難うございました。
小姓 > 足利左馬頭義輝殿が退室なされましたぞ。
味舌政宗 > では、またお会いいたしましょう。それでは
小姓 > 味舌政宗殿が退室なされましたぞ。
小姓 > 林六郎光明殿が退室なされましたぞ。
武藤舜秀 > 皆様お休みなさい。
小姓 > 武藤舜秀殿が退室なされましたぞ。


−これにて終了−


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