平成十二年師走九日土曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(当初参加者:林光明殿、長続連殿、よこぴい殿、畠山修理大夫義綱)
長続連(以下続連略):網野氏は近著でも言ってましたね〜。能登からタイの壷が出たらしいです。
続連:あと20世紀の総轄としたらここ2年での能登研究の進展を振り替えるでしょうかね。
畠山修理大夫義綱(以下義綱略):タイの壷とは!ますます、能登が外への交流の窓口とする証拠が!>続連殿
続連:討論のためにも最近の北陸研究はあらたな視点必要ですかね。
よこぴい:面白そうですね、その話!<タイの壷
林光明(以下光明略):ちょっとお聞かせ願えませんか>タイの壺
義綱:今日はずばり、「北陸の歴史への視点」等マクロな視点で行きましょうか<御題
続連:どうも琉球を通じてらしいです。能登の領主も海の領主という視点から見直すべきかもしれませんね。加能史料という手ごろな史料集もありますし。
よこぴい:了解です>御題
光明:了解しました。>御題
よこぴい:琉球と能登は交易があったんですか?
続連:タイの壷のルートはシベリアから日本海を渡ってきたとも考えられます。しかしそうすると、能登半島には外国人とか通訳とかいたんですかね〜。
義綱:日本海には民間レベルでも定期航路があったらしいので、琉球と交易があっても不思議ではないかもしれません>よこぴい殿
義綱:ということで、今日の御題「北陸の歴史への視点」に決定!
よこぴい:なんかすごいスケールですね!>長殿
続連:能登というより北陸交易ルートは琉球と関係あったとおもいます。そうすると交易商人もきになりますがどうやって手をつければよいのやら・・。
よこぴい:その時代の能登の港はどこになるんでしょうか?輪島とか?>畠山殿
光明:敦賀や小浜には唐人町があったそうですし、能登にいなかったとは言い切れないような…>外国人
義綱:そうですね。能登には各地に港がありますが、その代表が七尾や輪島です。中世にはすでに輪島の素麺は航路を伝って京都へのもたらされていたそうですし。>よこぴい殿
続連:まあ信長の野望の位置(笑)では辺境で生産力が低い能登も北東アジア交易収入を推測してもかなり生産力が高いのでは??
義綱:確か、弘治元年(1555)に上杉謙信が穴水城を攻めたという記録がありますが、交易上のトラブルで上杉方の水軍(海賊)が穴水に上陸したと考えれば、納得がいくかもしれませんね>続連殿
続連:越前の北ノ庄にも中国人が戦国期まで住んでたそうですね
義綱:そういえば、河野水軍が強いのは、どうしてですか?やはり瀬戸内海の通行料や防衛が目的でしょうか?>よこぴい殿
義綱:となると、畠山義忠が七尾港で韓国と交易をしていたと言うのもごく自然な話となりますか?>林殿・続連殿
続連:長氏が禅寺の総持寺を保護してるのも禅僧が中世の外交官的な能力持ってたためかもしれません。
続連:私は畠山氏と韓国の交易は自然だと思います。前述の能登の禅僧もかなり活躍した可能性あります
よこぴい:瀬戸内海は交通の要所で、大小様々な島や湾が入り組んでおり、水軍が発展する下地は十分だったといえるでしょう。
義綱:ただ、交易が活発なら何故、関東や瀬戸内海のように水軍(海賊)の存在が知られないかですよね。
義綱:以前の討論では、「守護権力に護られていたので地域間の争いが少なかった」という仮説を立てましたが・・・。
よこぴい:河野水軍のもとはそういった下地で、海賊したり通行料を取ったりしないと生活できない貧しい海民がやむなく始めたといわれてます。
光明:定説では瀬戸内の海賊対策に日本海航路を使ったと言われてますね。>外国交易
義綱:「海賊したり通行料を取ったりしないと生活できない貧しい海民」となると、日本海交通にもかなりの数の海賊がいてもいいはずですが・・・。
義綱:なるほど、「海賊対策に日本海航路を使った」ということならば、守護が積極的に航路安全対策を立てたとも言えそうですね。それに、瀬戸内海は堺もあり、輸送が頻繁ゆえ海賊発展の下地もあったかと。
続連:もしかしたら海外から輪島塗りとか出土しませんかね〜
光明:日本海では島が少ないので、海賊も船を隠すのは難しい気がします。
義綱:(ちょっと遅れレスですが)禅僧といえば、京都の五山もそうでしたっけ?>続連殿
よこぴい:瀬戸内海の場合、島や湾といった地形が複雑で非常に海賊しやすいのでは?また、海自体陸地の狭間ですから、ルートの選択が限定されるのではないでしょうか。
続連:日本海岸の在地領主は安全対策しなかったんですかね
続連:京都の五山は禅ですね。足利幕府の対外交渉を担当してたそうです
よこぴい:それは面白そうですね(笑)。<海外から輪島塗
義綱:義綱が富山湾の鰤漁に規制を加えてますから、漁民への規制などに守護は介入できたと思います。あるいは海上交通にも規制を加えた過渡>続連殿
光明:自分の土地よりはるかに大きい海ですから、やはり守護クラスでないと、安全対策も一苦労だったでしょうね。>日本海岸の在地領主
続連:確かに日本海の場合海賊の拠点となりそうなのは少ないかもしれません
義綱:実は東四柳氏の論文で、五山が能登畠山氏の京都出先機関として活躍したともいう論文もあるので、「禅僧が中世の外交官的な能力持ってたため」というのも非常に納得できます。>続連殿
続連:とすると義綱期でも守護権力はかなりあったんですね。漁規制にどれほど強制力を伴えたかも問題ですが。
義綱:となると、日本海交通では海賊が発展する要素が少ないと言うことになりますね。
光明:禅僧はちょいちょい中国とかに行っていますから、禅僧同士の情報ルートというのもあったでしょう。
よこぴい:何故鰤漁を規制したんですか?変な事聞いてすみません。
長続連:禅僧は漢文や儒教の中国文化を駆使しえたので明や李氏朝鮮の文人と交流出来たとか。
義綱:強制力の問題はわかりませんが、永禄期の富山湾は、義綱専制期と神保氏の畠山服従、長尾氏の良好関係もあって、畠山氏の安定支配が実現していた頃です。となると、政権が安定していれば、海上交通への規制も出来るのではないかと思います。
続連:漁の収入も経済基盤にしようとしたからでは?>漁の規制
光明:やはりきちっとした漢文の教養は武士よりも禅僧でしょう。>続連殿
義綱:多分漁を規制は、畠山氏が富山湾の漁場争いの調停機関だった為と思われます。それに、調停機関としてある程度の税も徴収していたかと思われます。
続連:しかしそうすると、守護の支配力も再検討する必要ありますね。
よこぴい:なるほど!<漁の規制
光明:富山湾は一種、内海に近いものがありますから、漁場の調停というのは説得力ありますね。>義綱殿
続連:長氏の一族でも系図には禅寺入寺するものがいるのはやはり、自前の外交官欲しかったのかな。
義綱:能登島の二穴に畠山氏の海上見張り施設があって、海上を通る船から通行税を取ったのではないかと東四柳氏も指摘していますので、かなり守護権力は海上交通に影響を及ぼしたと思われます。
義綱:かなりの争いになったのではないかと思います<富山湾>林殿
続連:しかし調停者として君臨するにはやはり権威がなければ意味ありません。当時の魚民に調停者としての守護権力への希求もあったかもしれませんねえ。
義綱:若狭や越前の海上への守護権力の影響はどうだったのでしょうか?
光明:鰤も美味いのが取れる時期は短いですから、争奪戦があったでしょう(笑)
義綱:そういえば、以前林殿は若狭の小浜港は若狭武田氏が不安定になっても繁栄したといっておられましたが、守護が守らなくとも自衛できるだけの防衛力をもっていたのか、あるいは安全だったのか気になります。>林殿
続連:畠山氏衰退の要因も中枢での政争が中枢だけでなく能登社会全般への権威の後退の影響もあったためということもあるかもしれません。
義綱:畠山義統が将軍への贈答品として送っているぐらいですので、かなりの争いになったかと(笑)>林殿
義綱:具体的にどのような事例があるでしょうか?<能登社会全般への権威の後退の影響>続連殿
光明:湊など市場の大きいところは、市場の共同体として動いているようです。>自衛力
続連:守護権力の存在理由として防衛力という暴力装置だけでなく地域社会の公権として秩序維持装置としての視点も必要かと>守護と自衛力
光明:権威自体が複数に分かれて争うだけで、その権威は低下しますから、社会への影響は大きかったでしょう。>畠山氏衰退
義綱:地域に必要とされなくなったら終わりというわけですね>続連殿・林殿
続連:あるいみ守護の存在理由というのは在地領主以下社会の調停機関的の公権としての面もあったと思うんですよ。それが義綱以降の中枢での政争と畠山家当主の頻繁な交代は能登社会に別の公権を求める背景が生じてもおかしくないかと
光明:これは現代でも当てはまりますね。>義綱殿
続連:具体的には別な公権というのが織田や上杉ということです。
義綱:そうなると、長派の織田、温井派の一向一揆、遊佐派の上杉への接近と言うのは公権を求めると考えれば納得がいきますね>続連
光明:守護公権の継承というのは大切ですね。本願寺でさえ、当時周囲からは守護公権を認知されていますし。>続連殿
続連:まあ、今まで階級闘争として支配者と被支配者でしかみてくることが多かったと思いますが近代法制度による秩序維持装置がない前近代における秩序維持装置として大名権力を再考してもいいかと。
義綱:大名=政府みたいなものですね。
光明:伊予ではそこらへん、どうだったんでしょうか?<公的権力>よこぴい殿
続連:本願寺と大名との抗争も公権支配を巡ってとも考えられます>林光明殿
義綱:水軍の頂点としての河野氏の存在ということも考えられますね。<伊予
続連:すぐに大名=政府といえるかはわかりませんが人が越歴史的に秩序と安定を希求する存在である以上、大名=政府としてもいいとは思います。
よこぴい:戦国期においてはほとんどないです<守護公権 村上水軍の裁量ですね
光明:加賀一向一揆も越前狙って、ちょいちょい出兵してますしね(笑)>続連殿
義綱:現代政府と一緒にしてはいけないが、考え方として政府=大名というのは良いと言うわけですね>続連殿
続連:伊予については・・・予備知識がない続連
義綱:村上水軍へのある程度の調停機能は河野氏にあったのでしょうか?>よこぴい殿
光明:フロイスの『日本史』読んでたら、豊後〜伊予〜畿内のルートもけっこう頻雑に使われてますし。<伊予
続連:本願寺の行動もただの領土拡張とするだけでは理解できないかもしれませんね。もっとも私は本願寺の予備知識がほとんどないので的はずれかもしれません(笑)
よこぴい:最初はありましたが。徐々に力関係は変わっていきました。戦国末期には来島通総の反乱が起こって、河野氏は有効な手だてを講じれませんでした。
義綱:河野氏も畠山氏も結局同じような運命を辿ったのですね。
続連:村上水軍の統制は毛利氏の方が大きかったのでは??
よこぴい:私も最近知りましたが、伊予にもキリシタンがけっこういたようです。村上武吉も豊後〜伊予〜畿内のルートでやってきた宣教師から南蛮の品々をもらってたようです。>林殿
続連:戦国をのりきる大名というのはやはり、すごいと思いますよ、畠山氏も河野氏も無理でしたし。
義綱:それにしても、北陸諸勢力の話で大名論と海上交通というのは、あまり畠山氏以外では聞きませんね。
よこぴい:戦国末期になると三島村上氏のうち、因島・能島は毛利氏の影響が強く、来島は河野氏の影響が強かったようです。>長殿
光明:なるほど、ちゃんとキリシタンも渡りをつけていたのですね<村上武吉
続連:キリシタン保護と村上水軍というのは知りませんでしたね〜
義綱:そういえば、土佐一条氏も海上交通を担っていたと言う話を尼子さんのHPで見たきも。
よこぴい:謙信の海上交通は有名ではないのでしょうか
光明:大名と海上交通研究は、畠山研究が先鞭をつけた感じですね。美保関と尼子氏もありますけど。<大名論と海上交通
続連:網野氏とかが能登を題材に研究していることもあるかと>畠山さん
義綱:一条兼定もキリシタンになっていますし、四国・九州ではキリシタンと交易というのは密接な関係がありますね。もっとも兼定の入信の動機はちょっとちがいますが。
よこぴい:護衛になったりしてたみたいですよ<村上武吉>林殿
続連:あと、能登の地形的な位置もあるかもしれませんね
義綱:謙信の海上交通論も盛んなのでしょうか?(不勉強ですみません)>よこぴい殿
続連:キリシタンといえば能登では聞きませんねキリシタンいたんですか
続連:まあ謙信、上洛に海ルート使ってますしねえ〜。
光明:加賀が邪魔をして、北陸にキリシタンが入ってきたのは信長以後のようです<能登のキリシタン
義綱:というより、北陸でキリシタンというのをほとんど聞きませんよね。瀬戸内海での交易と日本海との交易を考えると、前者が九州など西国中心、後者が東北等の東国中心と言えないですかね。それゆえ、北陸ではキリシタンが少ないと。もっとも本願寺の影響もあると思いますが
よこぴい:米や越後布とその原料のあおそ等が積み出されていたようです<謙信
光明:越後の青苧が大量に都に運ばれていますから、このルートで謙信も上洛したのでしょう。
義綱:そういえば、能登七尾の本行寺は隠れキリシタンの寺で有名とか。これも信長以後の話でしょうか?本行寺は丸山梅雪建立の寺なのですが。
光明:あ、聞いたことあります(笑)<本行寺・隠れキリシタン
義綱:江戸時代の事なのか、はたまた、本願寺がいたから隠れキリシタンなのか(笑)<本行寺
よこぴい:あれだけの軍事行動を行っているのですから、交易や海上輸送の手段を持ってないとやっていけそうにないですね(笑)<謙信
光明:高山右近が前田に預けられて以後、北陸のキリシタンが活発になったらしいですが、どうもそれ以上のことは…(笑)
義綱:なるほど、越後は広いし、海上交通はうってつけですよね。>よこぴい殿
よこぴい:隠れキリシタンの史跡とか、なかなか残ってないそうですね。ひっそりと信仰しないといけないわけですから当然でしょうけども。
光明:越中と越後国境の親不知って、けっこう難所ですから、海上の方が安全だったりします。<謙信の南下
義綱:それもそうですね(爆)<隠れキリシタン
光明:キリシタンの説教はかなり廃仏的ですから、貿易のうまみでもない限り、支配者は近づかなかったようです。<本願寺対策
義綱:若狭武田氏は小浜、朝倉氏も港を活用したようですし、能登は七尾や輪島、越中は放生津、越後も海上交通が活発となれば、北陸諸勢力にとって日本海交通はかなり重要なものとなりますね。
続連:う〜ん・・・もはや睡魔がひどくて思考が困難になりつつあります。すみませんが、退出させて頂きます。おやすみなさいませ>皆様
長続連:が帰参いたしました。
光明:先日行って見た限りでは、越前三国湊から九頭竜川経由で一乗谷までは1日かからないくらいの距離でした。<朝倉氏
義綱:ではまとめに入って終わりますか。>オール
光明:おやすみなさいませ>続連殿
よこぴい:お疲れ様でした>長殿
義綱:またです>続連殿
光明:上杉氏と日本海交通の関係は、もっとあったと考えていいと思います。越後守護所じたいが湊を抱えているのですし。
義綱:となると、早々に衰退してしまった冨樫は置いておいて、守護勢力(本願寺を除く)で港を近くに抱えなかったのは朝倉氏だけということになりますが。
よこぴい:林殿と同意見です。交易しないと謙信は軍資金がいくらあっても足りませぬ(笑)。港の中心は直江津でしょうね。
義綱:まとめとしては、「日本海交通における、調停・秩序維持機能として戦国大名を捉えなおす」と言うのはどうでしょう?
光明:朝倉のいた一乗谷は三国湊から遠からず、また、白山宮の平泉寺にも、それほど離れていないんです。全くうまい場所だと思います
義綱:なるほど(納得)<三国湊から遠からず、また、白山宮の平泉寺にも
光明:いいですね!こういう視点で捉えると、戦国大名もまた違って見えます!
よこぴい:異議なし、です。戦国大名が自己の利益のためでしょうけども、そういう機能を持っていたのでしょう。
義綱:支配領域争いとしてだけの大名観でなく、秩序維持機構としての役割を見つめ直す。とくに北陸諸勢力では海上交通が重要と言うことです。
義綱:この結論なら長続連殿も納得していただけるでしょう!(爆)
義綱:では、結論に達したところで、感想をお願い致します>林殿・よこぴい殿
光明:よこぴい殿とは初めてでしたが、とても楽しくて、新知見も教えていただき、いや〜来て良かったです。
よこぴい:非常に勉強になりました。なんとか話についていけてよかったです(笑)。
義綱:今後は、政権としての大名だけでなく、領民との関係を見てみたい気がします。特に中世は一般人が非常に力をつけた時代でもありますし。<私の感想
義綱:今度は、番外編でよこぴい殿を講師に「伊予水軍」を語っていただきたいです!
光明:いいですねぇ。是非ともお願いしたいです<よこぴい講師
よこぴい:恐ろしい事を(笑)!<講師
よこぴい:でも、一度、そういう話もしてみたいですね<水軍関係
義綱:いえいえ、是非よろしくお願い致します!!>よこぴい殿
義綱:次ぎの御題も決まりですね。次回予告!御題「水軍について」
義綱:では、本日はお忙しい中、討論会に参加下さいまして有難うございました。>よこぴい殿・林殿・続連殿
よこぴい:面白そうです。是非参加したいですね!<次回
光明:そう言えば先日、知り合いが備前焼の壺を持ってきまして、ど真ん中に村上水軍の「○に上」がでかでかと付いているんですよ。面白いもの見ました>よこぴい殿
よこぴい:こちらこそ、ありがとうございます>皆様
光明:ありがとうございました>オール
よこぴい:へえ、どういう由来のものでしょう??今度詳しく教えて下され<備前焼>林殿
よこぴい:それでは落ちまする!おやすみなさいませ。
光明:わかりました。船徳利のようですが、また次回に(笑)>よこぴい殿
義綱:ということで、第4回定例チャット討論会はこれにておひらき!
−これにて終了−