平成十二年卯月廿八日金曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(当初参加者:畠山修理大夫義綱、神保越中守長職殿)
(後に長尾弾正少弼景虎殿が加わる)
畠山修理大夫義綱(以下義綱略):定例チャットと言うよりは、井戸端会議になりそうですね。
神保越中守長職(以下長職略):久しぶりですな。
義綱:全くです。<久しぶり
義綱:「戦国・氷見」はなかなかですよ。書かれているのは鞍河氏、八代氏、三善氏、狩野氏、吉滝氏、長沢氏、菊池氏です。
長職:もうネタはほぼ完成しているんですけどね。もうちょっとです。<更新
長職:吉滝氏というのは初耳です。
義綱:おお!神保殿。楽しみにしておりますぞ。また「戦国・氷見」により越中の国人理解も進みますね。
長職:楽しみです。最近は佐々関係ばっかりだったので。
義綱:吉滝氏。1525年に掃部定孝が西念寺に山地と畠地を寄進している。ってこの史料しか残ってないそうです^_^;
義綱:しかしながら、五位荘一帯に勢力を広げていた事が伺える。と記述。<吉滝氏
長職:そうですか。畠山関係では発見がありましたか?
義綱:ん!?この本、神保氏張が神保氏重の子になっている。
義綱:氷見北部がすでに、16世紀初頭から畠山氏によって支配されていた事、八代氏は畠山家の勢力下にあったことがわかりました!ですから、八代俊盛はただの援軍という目的だけでなく、本領地奪還という目的もあったみたいです。
長職:それは氷見北半ではなくて全域なのですか?
長職:すいません。氷見北部とかいてありました。
長職:やっぱり氏張は畠山家出身ではないのかな。
義綱:湯山城は越中進出を目指した能登畠山氏によって築かれた。湯山城ってどのへんですか?
長職:氷見のどこかだとおもいますけど、詳しくはわかんないです。
長尾弾正少弼景虎(以下景虎略):が参上いたした。
義綱:そういえば、景虎殿は佐渡の戦国時代には興味はお有りですか?
長尾弾正少弼景虎:佐渡ですか?本間氏が割拠していた程度ですけれど、西三河から砂金がとれていたという点では興味がありますね>義綱殿
長職:佐渡の本間といえば花の慶次のイメージが・・・
義綱:お気遣いありがとう>神保殿。鬼なんとかって武将も佐渡にはいましたっけ(信長の野望の知識・・・。)
景虎:私も花の慶次のイメージです。たしか覇王伝では鬼小島弥太郎が何故か雑太城にいましたね<佐渡
義綱:花の慶次って見た事ないんです(泣)・・・。
景虎:今は佐和田町になっていますけど
景虎:武将が皆、2〜3mクラスの大男ばっかり<花の慶次
義綱:そうです。鬼小島弥太郎。ぜんぜん佐渡とは関係無いんですか?>景虎殿
景虎:全く関係ないです<鬼小島弥太郎
義綱:こわっ(笑)<大男
義綱:コー○ーに騙された・・・。(苦笑)
景虎:恐らく宝の山を守ってるのが"鬼"という単純なイメージで初期配置が佐渡になっているのでしょう<鬼小島弥太郎
長職:佐渡も一応一国として数えるんでしたよね。何某佐渡守とかいるもんね。
景虎:ひどいのになると5mはあろうかというのが・・・・
義綱:史観が滅茶苦茶ですね<コー○ー
景虎:確か本多正信か林通勝が佐渡守を名乗ってたような・・・
景虎:でもその次からは春日山城にしっかりと居ます<鬼小島弥太郎
義綱:またまた質問くんなのですが、元越後守護上杉家って末路はどうだったのでしょうか。子孫などはいたのでしょうか?
長職:あんまり偉そうじゃないな・・・個人的には播磨守とかかっこいいな。
景虎:上杉定実が実質最後の越後上杉家でしたが、彼が死んで守護職だけは長尾景虎が継いだので断絶してしまいました
義綱:烈風伝で、遊佐続光が穴水城にいるとの同じようなものですね<マイナーな例え(爆)
景虎:私はやはり山城守・・・・
景虎:宇佐美定満が直江景綱と共に与板城にいるのと同じ^_^;
長職:神保播磨守長氏っていう武将がいたらしい・・・
義綱:それに、景虎さんの上杉は山内だから越後上杉は名目的にも断絶なんですね。
義綱:河内守がいいなあ。
景虎:そうなのです<山内上杉の名跡
長職:語感がいいなあ。播磨守。武蔵守もいいかも
景虎:定実が伊達稙宗景虎:の三男、実元を養子にしようとしたけれど、天文の大乱などで御和算になりました。たしか輝宗が反対したのかな。
義綱:そういえば!<実元
景虎:守護・守護代・揚北衆と伊達家の利害関係が複雑に絡んでいました<越後入嗣問題
義綱:そう思うと、越後は様々な人々が養子などで参りましたね。上杉景虎ETC
景虎:上条政繁なんかも・・・・^_^;
義綱:ああ!そうだった。政繁。わたしの弟です。かわいがってやってください(爆)>景虎殿
景虎:彼は越後上杉家の一族上条家を継ぎましたしね
義綱:そういえば、上杉謙信の歴史小説で、「もし手取川の合戦で謙信が引き返さなかったら。」というのが出るそうです。
景虎:あとは村上国清は越後での名族山浦家を・・・・
景虎:ほほぅ<手取川で引き返さなかったら
長職:上条政繁って相当出来物だったらしいですね。『戦国逸話事典』て本に出てた
義綱:でも政繁は表記によっては「上杉政繁」だったり「上条政繁」だったりするんですよ。なんでなんでしょうか?
義綱:加賀まで制圧していたでしょうね<手取川
義綱:でも、戦国群雄伝の武将ファイルで上杉政繁は「さしたる武功なし。」って描かれてます(泣)>長職殿
景虎:やはり上条政繁でしょう
長職:まあ、コー○ーだから。
義綱:去年の論文で、上杉謙信は何故能登に進出したかを、テーマに書いたんですが、どうも謙信の真意は上洛では無く、能登・越中・越後で制海権を握る経済圏の形成を考えていたと思います。
義綱:はあ(爆)<コー絵ー>お二人様
景虎:なるほど・・・<経済圏
景虎:それはありますね義綱:能登畠山家と越後長尾家は、海上交通からして、強固な関係を築かないと、舟が通過できなかった。
義綱:それゆえ、長続連(織田派)に支配されそうな能登に危機感を抱き、進出をしたというのが本命では?
景虎:越後の特産物、青芋が海上輸送できなくなるのは痛手ですからね。
義綱:そうなると、わざわざ加賀まで版図を広げる必要はないですよね。それゆえ、手取川で敵を追い返した後引き上げたとわたしは思っております。
景虎:ただ、織田をのさばらせておくのは彼我の戦力差がひらいていってしまうのでは?
義綱:特に、越後からの海上輸送で、京都へは能登を経由無しでは行けなかった。また、能登から東北へも越後を通らざるを得なかったのが事情のようです。
景虎:関東情勢も考えたのでは?
義綱:勢力を広げ過ぎると危険ですからね。それも考慮したのでしょう。<関東の
景虎:関東管領という立場もあったでしょうし、北条をなんとかしたいというのもあったでしょう。
景虎:さて、今日は越後へ帰らなければならないのでこれで寝ます。
景虎:ではまたです。
景虎:が帰参いたしました。
義綱:さよならです。またチャットしませう。>景虎殿
長職:そろそろ拙者も・・・実は体調が悪くて・・・
長職:が帰参いたしました。
義綱:ではでは。系図頑張ってください。
義綱:帰参しました。
−これにて終了−