平成十一年師走七日火曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
畠山修理大夫義綱(以下義綱略):小説(義綱奮戦記)書いて思ったんですが、以外と暦が重要ですね。
義綱:閏月とか入ると、「三ヶ月後」とか狂ってしまうし、季節も把握しづらいし・・・。
神保越中守長職(以下長職略):うーん。長職は越中の覇権を手にするために、畠山家という大義名分が必要だったのかな?
義綱:そんな時、役に立ったのが最近発見した、『日本史小百科<暦>』です。
長職:長職が謙信に屈して義綱公を頼ってからでいいんじゃないでしょうか<敬語云々
長職:職鎮は長職の死後も神保家滅亡まで影響力を有していますから
義綱:長尾に対抗するにはそれなりの権力の後ろ盾が必要ですからね。越中守護、畠山家の庶家でもありますし、大義名分としてはもってこいの人物(畠山義綱)ですよね。
長職:暦問題は重要ですね。ところで閏というのは、例えば5月が終わってからもう一度5月があるということなんですか?
義綱:敬語、どうしようか・・・1544年に義続に富山城を安堵されたのを考えると・・・でも、弘治の内乱時は戦力がほぼ互角だし・・・悩む。
長職:それに長職は一向宗も味方にしているので、下手をすると一向宗にとりこまれてしまうからかも
義綱:職鎮は神保氏を考える上でのキーマンですからね。
長職:実質はともかく義綱公を頼って臣従したとみていいんじゃないでしょうか。
義綱:はい。そうです<閏月。でも、年によって閏月があったり無かったり。また、月によって30日だったり29日だったりと、大変です。
長職:それに職鎮も彼なりに神保家のことを考えてのことだったのかもしれないし。
義綱:紹介した下記資料は、「旧暦日を太陽暦日に換算する年暦表」などがあり非常に便利です。小説を書くにあたって必見かと。
長職:ところで畠山家と一向宗って敵対関係でしたっけ?
義綱:なるなる。大内と毛利の関係でしょうか?<畠山と神保氏ちょっと違うような・・・。
義綱:それを言うなら、遊佐続光も畠山の事を彼なりに考えていたのかもしれませんが、主家にとってはえらい迷惑、というのが結構共通しているかも(笑)
長職:必要となったらコピーさせて欲しいかも。<「旧暦日を太陽暦日に換算する年暦表」
義綱:中世に限れば、合わせて4頁くらいしかないので、図書館に有ればその方が便利ですが・・・。
義綱:畠山と一向宗はかなりの敵対関係です。
義綱:1520年ごろの義総政権期はそうでもなかったのですが、義続期になるとまた関係が悪化していきます。能登畠山家の非主流派が常に一向宗と結びついたことからも、敵対関係が伺えますね。
長職:ではやはり一向宗を牽制する意味もあったのかも<畠山と敵対
義綱:そうなった要因は亨禄の錯乱において、守護(小一揆)勢力が敗北し、越前・能登に小一揆側の寺が亡命したことにも起因するのでは?
義綱:なるほど<牽制
長職:なるほど。長職は本心では一向宗を好んではいなかったように思います
義綱:長職の方が義綱より、かなり年上なんですよね。長職の誕生年って何年ぐらいなのでしょうか?
長職:神保家臣には一向宗徒もいたようです
義綱:そうですね。越中の西1/3を占拠されていますし。今で考えれば、土足で上がりこんできたも同然!<一向宗の占拠
義綱:亨禄の錯乱では、神保氏も小一揆側についたんですよね。その後、どうして本願寺とうまくやっていけたのだろう?
長職:長職の誕生は慶宗の子・小法師が彼であるとすれば、1520年以前と思います
義綱:っというか、いつか徹底的に話あって、「神保家と畠山家の関係」を明らかにしたいですな・・・。今だかつて包括的に示したものは無いですからね。それに、畠山、神保両氏から見た体外関係って今までなさそうだし。
長職:うーん。なぜだろう。もともと神保氏は一向宗とは慶宗の時から親しいということがあるのかも
義綱:それと、未だに私は慶宗亡き後の、慶明が家督を継承し、長職への家督移譲される過程が良く理解できない。慶明は途中で死亡した?
義綱:そうだとすれば、亨禄の錯乱に守護側として参戦した神保氏は、畠山・朝倉に強く請われたので、出兵したとの事なのでしょうか?
長職:それは大きな謎ですね。慶明という人物は謎が多い
長職:ちょっとわかりませんが、乱の前年、小嶋職鎮が越前朝倉家と交渉しています。
義綱:題材にしたいのは、『北陸社会の歴史的展開』に書かれている「畠山体制」がどの程度、能登畠山家に移されたのか?という点です。これによって、能登畠山家は神保氏に高圧的態度で臨んだのか、それとも実力を認めてほぼ対等であったのか、明らかにしたいです。
長職:協同作戦の打ち合わせ?
義綱:いつのまにか、長職がとって変わっていたとすると、@慶明死亡説。A長職クーデター説などが考えられるしょうね。
義綱:いつのまにか、神保長職が(家督を)とって変わっていたとすると慶明はどうなって
しまったのでしょうね。
長職:畠山体制、実質的には殆ど機能しなかったと思います
義綱:1531年という時代を考えると、微妙ですね。出兵を強制されたのか、進んで出したのか。<神保氏の共同作戦
長職:慶明=良衡という説も
義綱:能登畠山家の代行機能とあるが、主にやったことは、越中氷見の占領の合法化。1544年の義続が長職の富山在城の承認。1562年の戦の調停くらいですからね<畠山体制
長職:畠山体制は、長職が謙信に屈するのが1562年、義綱公が追放されるのが1566年までの4年間ですから
長職:あ、畠山体制というのは長職が臣従してからのことだと思ってた
長職:氷見の南半は神保氏の影響もあったようです。
義綱:ちゃいますがな(笑)河内畠山家を中心とした形式的な、
越中守護代行機能の事です。<畠山体制
義綱:系図を見ると、慶明は長職の叔父だから、慶明の家督踏襲は
暫定的なものであったとすることも出来そうですね。<根拠無しですが
長職:でも少なくとも1562年の敗北以前は神保氏が好きなようにやっていたように思います<畠山体制
義綱:でも1562〜66までに緊密な連携関係(神保−畠山)はあったのでしょうか?
義綱:全くその通りだと思います。出なければ、1544年に長職に義続が富山在城を認めるはずがありません。いわば、義続は現状を追認したに過ぎない。けれど、守護代行機能を持っていた能登畠山家の在城承認と言うことで、多少は効果があったのだと思います。
神保越中守長職:そうかもしれないですね。また加賀小一揆で討死したのかも<慶明
義綱:富山在城を認めるはずがないというのは、1520年に決まった越中の三分割の協定によることです。
神保越中守長職:うーん、因みにその頃の畠山氏の動きは?<1562〜1566
義綱:な〜るほど。それなら、時期的にも説明がつく。それまで、派手なアクションを起こさなかった神保家についても説明できる。<慶明は立場が弱かった。
義綱:戦乱後の領国再編で、大忙し(笑)<能登畠山の動き
長職:神保氏はその承認をもって今で言う独立を認められたのかもしれません
義綱:その間の義綱の神保氏への発給文書などは見ていないと思いますし・・・。
長職:長職も敗戦処理、飛騨衆への対応に忙しかったと思います
義綱:そうですね。富山在城承認は、畠山体制を崩すもの。それからの独立と言う意味で、ほとんど畠山体制から離脱した形になりますよね。しかし、その後、長尾に侵攻されて、畠山体制に戻ってしまうのは何たる不運・・。
長職:もし神保・畠山どちらかが生き残っていたら、文書資料もいろいろ出てきたかもしれませんね。
義綱:そう考えると、互いの関係は戦時や緊急事態に見られ、ほぼ独立した形態を神保氏は終始保っていたと言えそうですね。
長職:戦国の世は体制もなにも、実力が左右するということですね
義綱:椎名の場合。完全に長尾に尻を敷かれているのでおかれた状況はかなり神保の方が有利ですね。
義綱:どちらも、長尾に搾取されました・・・。畠山・神保が残っていたら、能登や富山の繁栄も違っていたでしょうね・・・残念無念。
義綱:遊佐きむち氏が指摘した、名と実が完全に分かれた世界とも言えそうです<実力が左右
長職:でしょうね。何より、長職は知行宛行権という領主権をもっていますから<独立
義綱:名は守護代。実は大名というところでしょうか?<神保氏
義綱:越中では、最大の勢力を誇ったが、周囲の勢力に振り回され、なかなか思うようにいかなかったのが悔やまれるところです。
義綱:その意味で言えば、能登畠山も長尾と同じく、越中を干渉した邪魔者なんでしょうかねえ・・・。
神保越中守長職:しかし神保家の石高は全盛期でも約20万石(予想)と考えると、独立を保つのにも苦労したと思います
義綱:能登も石高で換算すると22万石(太閤検地)。きっとそれ以外のなんらかの収入があったのでしょう(能登では、特産品など)。富山湾も
近いことですし・・。そう言えば、富山湾の制海権は義綱が持っていたようです。と言うのも、富山湾の鰤漁の規制を義綱が指示しています。そこから、資金を得ていたのですね。
義綱:上記は1560年代のことでしょうが。<鰤漁
長職:長職も、富山へ進出した要因に飛越流通路を抑えることだったとも思います。
−これにて終了−