畠山義綱 私的論文コーナー
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室町幕府は、多くの地方政府を有していた。鎌倉府、九州探題、奥州探題などである。
ではなぜ室町幕府は地方政府に地方分権ともいえる制度を作ったのか考察する。

論文テーマ「中世における地方分権」 著:畠山義綱

はじめに

 地方分権とは現代社会に置いて中央政府が一定の権能を地域行政に任せる制度を指す。これは古代や中世にも見られたが必ずしも中央政府が企図したものとは限らない。古代における東北地方の蝦夷(えみし)は、中央政府(朝廷)に服しないものの、当時の朝廷が考える「国家」という範囲の枠外にあったからこれは地方政府とは言えず、あえて言うなら朝廷にとって蝦夷は外国政府と言えるよう。古代の日本で考えると、九州の政治を統率した大宰府は、中央政府の企図による地方政府であり「地方分権」である。
 次に中世の鎌倉時代を見ていく。中央政府を「朝廷」として置くと、企図しない地方政府に「奥州藤原氏」がある。「奥州藤原氏」は積極的に朝廷と関わらず、後述する地方政府の「鎌倉幕府」にも属さず独立性の高い政府である。これも「外国政府」と見て良いだろう。むしろ注目したい地方政府は「鎌倉幕府」である。鎌倉幕府の性格は、初期と後期でだいぶその性格が異なる。初期の鎌倉幕府は地方分権になる。西日本は朝廷の支配下であり、東国は鎌倉幕府に服す場合が多く見られた。しかしこれは中央政府たる朝廷の企図しなかったもの。武士が朝廷の意向に簡単には従いたくなかったため、あえて中央政府(朝廷)の所在する京都から離れた鎌倉の地に地方政府(鎌倉幕府)が置かれた。表面上2つの政府は従属関係ではあるが、実際には対立関係であった。そして地方政府(鎌倉幕府)が次第に中央政府(朝廷)を凌駕していき、1221年の承久の乱でその立場が完全に入れ替わった。地方政府(鎌倉幕府)が中央政府(朝廷)を監視する六波羅探題などを設置し、中央政府の方が従属したような体制になった。後期の鎌倉幕府も、元寇後に鎮西奉行を作り、古代日本の大宰府と同じように九州地方の統率を任せる独立した組織を作った。
 では、本題の室町時代である。本稿では室町期における地方分権がなぜ行われたのか、どのように機能したのかを考察する。

1.室町時代に地方政府が多く設置された理由

 室町時代の地方分権は例がたくさんある。そもそも室町時代の中央政府を「室町幕府」と置くと、企図しないものに地方政府に「南朝勢力」がある。そもそも「南朝勢力」を地方政府と呼んでしまって良いのかとの思う。そもそも「室町幕府」の始まりが、「北朝」という中央政府に任じられた地方政府であるので、そこから考えると「南朝」はもう1つの中央政府となり、「北朝」対「南朝」の関係は外国政府との関係とも言える。しかしながら「北朝」は「室町幕府」に支えられる従属関係にあるので、この時代の対立軸を考えると、「室町幕府」対「南朝」の方が実態を表している。そのように考えると、「南朝」は「室町幕府」にとって外国政府のような関係性を持っている。

 一方で、室町幕府が企図して作った「地方政府」には、「鎌倉府」「奥州探題」「九州探題」などがあり、鎌倉時代に比べて地方政府が一気に増えた。そして「守護大名」もある一定の権能を分国に与えたがゆえに、一種の「地方政府」ともいえる力を持ったとも言える。このような状況を考えると、鎌倉時代は鎌倉幕府は得宗専制政治と言われ執権の北条氏による中央集権的な政治が行われたのに対し、室町幕府は圧倒的に「地方政府」が多く、その地方ごとに独自性が発揮されている。これは「室町幕府」対「南朝」との争乱である「南北朝の内乱」をきっかけに、中央政府(室町幕府)が企図しない外国政府(南朝方)との対立関係が増えたが故に発生した状況だと思われる。なぜ「南北朝の争乱」下において中央政府(室町幕府)は、企図する地方分権を行ったか。それは、中央政府(室町幕府)が激しい争乱の状況下で地方の監修まで権力や影響力を及ぼすことができなかったから、ある程度の権能を一時的に「地方政府」に移譲したと推察する。その例が、室町期初期における鎌倉府である。「南朝」から「北朝」=京都を守るのが室町幕府の最大のミッションだが、一方で南朝勢力や旧鎌倉幕府方の北条時行も「鎌倉」奪還も狙っていた。鎌倉は「攻めにくく守りやすい地形」であり、前時代の武家政治の中心である。仮にここを「南朝勢力」や「旧鎌倉幕府勢力」に支配される事態となれば、大きく「室町幕府=北朝」の正統性が失われることになる。つまり、室町幕府は「京都」も「鎌倉」も同時に守ることが必要で手一杯な状況であった。そこで中央政府(室町幕府)は、「鎌倉府」と言う地方政府を企図して設置し、かなりの権能を移譲し独自に支配させ防御を固めた。地方政府である「鎌倉府」に関東一円や東北地方という多大な地域の統制を任せたことは、敵対勢力から守るための支援体制とも言えよう。これと同様の理由が「九州探題」「奥州探題」にも当てはまり、中央政府(室町幕府)が影響力を同地域に及ぼせないからこそ、地方政府を企図して設置し防備を固めた結果である。

2.室町時代における「地方分権の混乱」

  室町時代の中央政府(室町幕府)は、最大のミッションである「南北朝の内乱」で「南朝」に勝利し、旧鎌倉幕府方の復権を認めないことが求められている。そのために企図して地方政府を設置し、それぞれの地方を防御させた。しかし、中央政府からの地方政府に巨大な権能移譲を行うことは、鎌倉時代の「鎌倉幕府」対「朝廷」のように、地方政府が中央政府に取って代わる危険性がある。室町幕府もその危険性を十分考えていたと思われる。だからこそ室町時代の最大の地方政府「鎌倉府」支配者として中央政府(室町幕府)の足利一門を関東公方とすることで、中央政府からの離反を回避する担保とした。

 結果的に中央政府である「室町幕府」も「鎌倉府」も、最大の危機である「南北朝の内乱」を乗り切って、「南北朝の統一」が行われ実質的に「北朝」が勝利した。そして、中央政府(室町幕府)は安定期に入る。その一方で、「南北朝の内乱」で誕生した「地方政府」は組織として残った。地方政府にしてみればそれまで築き上げた人脈や実績があるから簡単に「地方政府」を廃することは難しい。「地方政府」には中央政府(室町幕府)から独自の論理でそれまで動いてきたゆえ、安定期であっても中央政府(室町幕府)から路線対立や独自の動きが多くなった。「南北朝の内乱」期ならば、中央政府も地方政府も敵である「南朝勢力」を倒すために多少の異論があっても協力関係を維持することができた。しかし、安定期になるとその敵がいなくなり、鎌倉時代の「朝廷」対「鎌倉幕府」のような対立関係になってしまった。その結果、「永享の乱」「結城合戦」「享徳の乱」と、「中央政府(室町幕府)」と「地方政府」は間接的、直接的に対立していった。つまり中央政府が企図した「地方分権」でも、企図しない方向に代わるケースは往々にしてあり得る。さらに「応仁の乱」をきっかけに、中央政府(室町幕府)を支えていた守護大名が「在京大名」から「在国大名」に変わり幕府と守護大名との関係が疎遠になり、戦国時代には「戦国大名」が登場し、全国各地で「地方分権」が行われ、中央政府(室町幕府)の直接支配下地域は畿内周辺に限られる様相となった。そして中央政府(室町幕府)が直接的に地方政府(戦国大名)に影響力を行使することが難しくなり、地方ごとに路線対立の摩擦が大きくなり、武力衝突が全国各地に広がる「戦国時代」に突入していく。まさに権力を委譲し過ぎた結果、「地方分権の混乱」が生じた結果とも言える。

むすびに

 「地方分権」が進んで中央政府がそれに対処出来ないと、混乱が生じる。それが故に中央政府は独裁的体制を取りがちとも言える。現代の国家でも「権威主義国」の政府などはそれにあたり、国民を規制・統制することが世界的しばしば見られる現象でもある。ではそもそも「地方政府」対「中央政府」の対立はなぜ起こるか。それは一般的に地方政府の「下剋上の企図」ばかりの理由ではなく、地方政府の足元からの利害関係が中央政府の思惑の違いが大きくなったから側面も大いにあった。つまりは路線対立関係である。
 例えば室町時代の晩年の「織田信長(地方政府)」対「足利義昭(中央政府)」も企図して織田信長に大きな権限委譲を行ったが路線対立関係で破綻した例と言える。江戸時代の幕藩体制も幕府が大名の統制する藩の政治に直接関与する例はほとんどなく「地方分権」の社会であり、中央政府(江戸幕府)と地方政府(大名=藩)の路線対立も当然あったはずであるが、江戸幕府は260年間続いた。江戸時代は地方政府(大名=藩)に対する中央政府(江戸幕府)の干渉が「武家諸法度」などで規定され、違反すると改易となるなど非常に強大である。ここから見えてくるのは、「地方分権」社会における地方政府の中央政府への反抗は、2つの理由が考える得る。1つ目は、地方政府が中央政府の実力を同等以上か超えていること。2つ目は、中央政府と地方政府の路線対立が深刻化した場合である。例として、織田信長に対する明智光秀の本能寺の変。能登の場合だと、畠山義元に対する明応九年の政変。畠山義綱に対する永禄九年の政変。江戸幕府だと幕末の薩摩藩や長州藩の動きなどである。下剋上=下位の者が権威主義的に上位の者を倒すという見方から、多角的な視点で物事を捉えて考えていくと、つまり、「守護代が守護に反抗し下剋上を起こす」というような行動も、前述した2つの視点で見ていくと、起こした張本人の思惑が見えていくのではないかと思う。

初稿:2023年1月5日


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