畠山義綱 私的論文コーナー
Since 2006〜現在

「傀儡政権の存在意義」を生涯の学習テーマにおいている私・畠山義綱。
そのテーマで勝手に論文を書いてみます。
2006年に最初に書いた小論文にどんどん改訂を加えていきます。
完成予定は未定です。

論文テーマ「傀儡君主と衆議政治」 著:畠山義綱

はじめに

 傀儡は「かいらい」や「ぐぐつ」と読み、「あやつり人形」や「自分の意志や主義を表さず、他人の言いなりに動いて利用されている者。」という意味を持つ。傀儡で君主を擁立し、その家臣が実権を握る。その典型例が室町幕府の将軍とそれを擁立した管領細川京兆家や、足利義昭と織田信長などがある。しかし実力があるのならなぜ傀儡を欲したのか、という観点が取り残されているような気がする。そこで本稿は様々な事例を取り上げ、傀儡が傀儡として存在しえた理由に加え、本当に傀儡はまったくの実権を持ちえなかったのか、という問題を提起していきたいと思う。

1.鎌倉幕府の摂家将軍

 まずは鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経を取り上げる。鎌倉幕府は周知の通り、源頼朝が開府した幕府である。その為、将軍は源氏流の棟梁が継承した。しかし、1219年3代将軍・源実朝が甥の公暁によって暗殺されると、頼朝以来の血筋が途絶えてしまった(実朝死去後唯一残っていた源氏の嫡流2代将軍頼家の子・公暁は実朝暗殺直後に殺されている)。そこで、当時幕府で実権を握っていた北条義時とその妻・政子は鎌倉幕府の権威高揚の為、将軍に皇族をつけることを画策したが、幕府の弱体化を狙う後鳥羽上皇に拒否された。そこで、幕府は頼朝の姪の娘が生んだ摂関家の藤原頼経を将軍に迎えることにした。摂家将軍(藤原将軍、公卿将軍、七条将軍とも言う)の始まりである。この時、頼経はわずか2歳であり、鎌倉幕府の実権は、完全に将軍から執権の北条氏の下へと移った。
 では、なぜ執権・北条氏は自ら将軍となり鎌倉幕府を指揮しなかったのだろうか。考えられる点は、北条氏が源氏の血流でなく幕府を継承できる立場にないということである。しかし、源氏の血流でなかったとすれば北条氏が中心の新しい幕府を開けばいいわけで、わざわざ鎌倉幕府を存続させなければ問題は解決する。つまり北条氏が藤原頼経を将軍に擁立したのは別の理由があったのである。その1つの理由は先述の後鳥羽上皇が幕府を弱体化し、天皇に実権を取り戻そうとしたことが考えられる。朝廷と幕府が対立すれば大きな戦争になることは避けられず、少なくとも鎌倉幕府の内部紛争を抑えて一致団結できなければ幕府(=武家)方に勝ち目はない。そのため、北条氏は新たな幕府を築くことも、自ら鎌倉幕府の将軍になることもせず、源氏の嫡流を将軍に擁立することで幕府内をまとめる北条氏の妥協点であったと考えられる。実際、頼経が鎌倉に下向して3年目、1221年に後鳥羽上皇の倒幕挙兵である「承久の乱」が起こるが、この乱の初めに北条政子が幕府の御家人を前に「源頼朝の恩」について演説し、幕府側の指揮が高まったことは周知の事実である。ここに権力基盤の弱かった執権・北条氏が「源頼朝」の名を強調することによって鎌倉幕府の御家人をまとめ、危機を乗り切ることに成功したのである。

 しかし、この傀儡将軍を擁立したことによりまた別の問題が発生した。それは「将軍・藤原頼経の成人」であった。1221年の承久の乱が起きた時、藤原頼経はまだ5歳。同乱には全く関係してなかったであろう。1224年には一時鎌倉の棟梁の座を奪われそうになることもあったが、1225年には元服、1226年には正式に征夷大将軍となった。1237年に頼経は将軍として御家人達を伴なって上洛し8ヶ月もの間滞在した。上洛中は実家である九条藤原家や鎌倉下向前に頼経が養育されていた西園寺家などで随分歓待されたらしい。さらにこの時、頼経は権大納言に任じられ、官位もかなり高まった。
 京都から鎌倉帰った後、執権・北条泰時に不満を持つ北条氏庶流・名越氏が頼経に接近する。10歳を過ぎた頃から頼経は次第に自分の意見を口にするようになり、しばしば泰時に制止されているが、上洛した当時、頼経も20歳となっており、主体性を発揮できる年齢となっていた。反得宗(北条氏嫡流)派が打倒北条の切り札として将軍・頼経に接近してもおかしくない。そして、この動きは1242年、北条泰時が死去し嫡子経時が執権を継いだ頃から活発化する。名越氏に次いで得宗家と対立する大豪族の三浦氏、千葉氏が頼経に接近し、側近集団を形成するのである。この動きを抑えたい執権経時は、頼経の子・頼嗣を元服させ頼経に迫って将軍職を頼嗣に譲らせる事に成功した。しかし、頼経は前将軍の権威を立てに鎌倉に留まり、三善康持、千葉秀胤等を引き入れて一層反得宗色を強めた。1246年、ここに至ってついに執権経時は実力行使に及び、頼経邸を攻撃・封鎖し、頼経は京都追放、頼経側近は処断という処分を行った。結局は敗れてしまった頼経であるが、執権北条得宗が傀儡将軍として擁立した摂家将軍が、ここまで幕閣に力を及ぼすようになった事実は、改めてトップの権力が侮れない事を知る事ができる出来事として貴重である。頼経の京都追放翌年の法治合戦(三浦氏の反乱)において、三浦氏が頼経の鎌倉帰還を図るなど、その後も京都の藤原道家・頼経の権力回復工作が続けられた。しかし、早くも1152年には頼経の子で5代将軍であった頼嗣が将軍の座を追われ、摂家将軍の時代は終わり、皇族が鎌倉幕府将軍に着く皇族将軍の時代が始まるのである。
 なお、頼経はあまり健康でなかったらしく、頼経が10歳の頃に「護持僧と陰陽師の結審にによる護持システムが作られた。」(石井清文「北条泰時時房政権期に於ける三浦氏」『政治経済史学』411号,2000年)という。ただ、石井氏によると、これらのシステムは頼経の健康を保持するという目的の外に、健康上を理由にして北条得宗が頼経の行動をコントロールする目的があったと指摘している。結局北条にとって摂家将軍の役目は皇族将軍へのリリーフ(中継)でしかなかった。しかし、北条得宗家専制が強まる中で、反得宗派として摂家将軍が求心力を増していったことは、歴史の皮肉と言えよう。 かなり権利を抑制された摂家将軍・頼経でも、執権北条氏に対して実際に反得宗派側近が形成し、反抗をしたことは「傀儡君主」が全くの傀儡で有り続けるのではなく、主体的に行動し対立する余地があったことを物語る。これは、他の「傀儡」とされる立場の人物にも当てはまるといえ、改めて傀儡を擁立した人物側からの歴史を見るだけでなく、傀儡として擁立された側の視点を持つことの重要性を教えてくれるのではなかろうかと思う。

2.室町幕府の将軍の地位

 室町幕府の将軍や守護大名はよく「連合盟主的な存在」と言われる。すなわち、強力な大名権力で家臣を支配するのではなく、重臣たちの意見を入れて、うまく調整し実行するのである。これを『足利将軍暗殺』で今谷氏は「衆議の尊重」と言っている。従来これは、将軍権力や大名権力の脆弱性として取り上げられてきたが、氏は違う見方を展開された。それは、足利義持の後継者問題である。4代将軍・足利義持は死に際して次の将軍について「面々用ゐ申さざれば、正体あるべからず」(ここで自分が決めてもみなが認めねば意味がないとの意)「ただともかくも面々相ひ計らい、然るべき様に定め置くべし」(みんなで相談してちゃんと決めてほしいの意)と述べて幕閣に後継者問題を任せて死去したのである。世にいう「くじびき将軍」6代将軍・足利義教の誕生の背景である。遺言を残した足利義持と言えば、義満・義教と並んで幕府の安定期の将軍である。これすなわち、専制君主と言えども重臣たちの衆議を必要としていたのである。また室町時代後期の将軍は9代将軍・足利義尚以降傀儡化されたという見方が一般的であるが、山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館.2000年)において、傀儡政権の始まりと言われる11代将軍・足利義澄の政権でも、政治を行う過程で将軍の意向が反映されている事も多く細川京兆家の傀儡では無い事が明かにされた。

 次に13代将軍・足利義輝の対外政策を中心に傀儡と言われた幕府がなぜ存続したづけたのか、さらに幕府復権のチャンスとその背景について論じていく。義輝が積極的に御内書を出して大名の同士の調停をし、幕府の権力を高めようとしたことは有名である。また、上杉謙信を関東管領に任命した事や、剣豪将軍と呼ばれる程の剣の腕前からただならぬ将軍では無いというイメージは定着している。しかし、それでも、義輝期の幕府のイメージは、義輝の積極政策によって辛うじて維持される畿内政権のように考えられがちである。しかし、次の諸大名の行動を鑑みるとそれは適当ではない。それは、能登畠山家(畠山義綱)、駿河今川家(今川氏真)、伊予河野家、伊予宇都宮家(宇都宮豊綱)等が貢物の献上等して、幕府に積極的に接近しているという事実である。これはどういうことであろうか。幕府の権威は6代将軍義教期以前のように回復したのか?
 貢物を幕府に進上しているこれらの諸大名は、いずれも名門の守護(あるいはそれに準ずる)家で一時期は甚だ勢力があった。しかし、戦国期に至って、他勢力の強大化や国内の内乱にあってその勢力は減退していた。これらの家の領国支配の根拠は、戦国大名と違って形式上、幕府から任命された守護(あるいはそれに準ずる)という職に基づいて行われている。そこで、大名家の上位権力である幕府の権威を借りて、大名基盤の強化を図っているのである。御内書の発給は将軍義輝自身による幕府復権策であるが、これらの諸家の行動は自ら幕府の権威を欲しているので、将軍義輝とこれら諸大名の思惑が一致しているとも言える状況が室町幕府末期に生まれたのである。
 また、戦国大名においても義輝に接近している者も少なくない。上杉謙信は上杉憲政から関東管領職を譲られたが、その就任にあたって将軍の意向を取りつけるために上洛する等積極的に義輝に接近した。織田信長も尾張守護代織田家の勢力を駆逐する目的で、義輝に尾張守護を認めてもらう為に上洛している。また、大友宗麟は豊前・筑後守護の守護に任じてもらう為、鉄砲(火縄銃)を献上した話はあまりにも有名である。さらに、上洛意図は不明だが、斎藤義龍も上洛をしている。もしかすると幕府に接近行動を起こしたのかもしれない。
 これらの事実は、室町幕府末期の義輝政権期になっても幕府は、畿内勢力と成り下がっていたのではなく、全国に及ぶ権威(強制力を伴なう「権力」とは異なる)を持ちつづけた徴証となろう。その結果、幕府権力の一層の拡大を恐れた松永久秀や三好三人衆が、足利義輝を暗殺したと言えるのである。つまり、義輝期の一時的幕府復権は義輝個人による力だけでなく、諸大名が「幕府の権威」を欲していたからという理由もあると言え、義輝はその将軍権威を欲する力をうまく利用する事ができたから幕府が存続できたとも言える。
 しかし皮肉にも、これが積極的に幕府の権力強大化を示す資料とはなり得ない。貢物を進上し積極的に幕府に接近するいずれの大名もが、すでに昔日の勢いを失っており、将軍権力にすがって領国再編を果たそうという目的があっての推戴なのである。また、強固な支配体制を作り上げた戦国大名らは領国支配の正当性を得る為等と言った側面で接近する事はあっても、室町幕府の権威を積極的に欲しようとしない。即ちgive&takeの関係で、守護に任じられれば後はあまり接近をしないのである(例外として上杉謙信がいる。また、戦国大名が将軍に積極的に接近しなかった理由は、貢物等による金銭が多く掛かると言う理由もあろう)。つまり、幕府の積極的復権が必要であったのはすでに勢いを失っている大名であって、義輝は彼らには幕府復権の助成は期待できなかった。一方、力のある戦国大名は、真に幕府の権威を欲しているわけではないので、力はあっても幕府の復権への助成は期待できない。こうした、ディレンマは、将軍義輝をもっとも悩ませた課題であったと思う。義輝期の幕府は、権力の弱体化した守護大名的戦国大名に推戴され、畿内(山城周辺)に権力基盤をもった幕府であった。すなわち、義輝期の室町幕府について、権威は全国に及び、権力は畿内に及ぶという見方ができるのである。

むすびに

 中世において将軍や大名は、家臣の意識の差を調整し、まとめあげる役目を担っており、それでこそ権力・権威を維持し得たのである。それが鎌倉幕府の摂家将軍の場合は、執権北条氏がその力を利用しようと傀儡として将軍を擁立したが、将軍独自の動きがでるにつれ、結局追放してしまう。室町将軍の場合も一定のまとめあげる役割を担っていたが、その役割を管領である細川京兆家や三好家などの有力守護・戦国大名が独占しようと画策するが、それに対抗するように独自の権力基盤を得るために将軍家が動いたので、常に有力守護大名や戦国大名との軋轢を生む可能性を秘めていた。その一端が「明応の政変」で足利義稙が細川政元により強制的に君主を換え足利義澄が擁立されるという「下剋上」が起きる。
 しかし、重臣が下剋上を起こしたからと言って、自分がすぐに君主になれるわけではないのである。前述のように家臣たちの「衆議の尊重」から、家中をまとめたり、敵対する勢力を抑える意味でも下剋上の主犯格が大名になれずないこともしばしばあったのである。そこで考えられたのが、「傀儡君主の擁立」である。建前として君主がいれば「衆議の尊重」は守られ、重臣たちの合議で政治を行えばよいのである。観音寺騒動の後の六角家などはその典型例と言えよう。しかし、建前ではあっても傀儡君主が「衆議の尊重」のために擁立されたのであれば、それは「ただの傀儡君主」にならないこともしばしばあった。重臣間の権力争いが起きたとき、建前上の君主であっても味方につけようと重臣たちは担ぎ上げ、反筆頭重臣の総大将として祭り上げられる時があるからである。
 「傀儡君主」と言えども、その本人の好むと好まざるに関わらず、政局に関与(巻き込まれる)することが多々あったのである。それゆえ、中世の将軍や大名は建前の「絶対的な権力」と実際である「意見調整の役割」とのギャップに苦しめられたのである。ここで、そのギャップを埋め絶対的な権力を得たものが織田信長や豊臣秀吉ら安土桃山時代の主役となる近世の大名であり、ギャップを埋め切れなかったのが、大多数守護大名として没落していった勢力になったのではなかろうか。
 さて、信長・秀吉ら「絶対的な権力」を持つ君主が登場したことにより、中世的な「衆議を尊重する役割」は近世になり一新されたように見えた。これは江戸期に入って、身分制が固定されたことにあいまって確立したかのように見えた。しかし、この「衆議を尊重する」役割は江戸時代の後半にまた形を変えて現れたのである。すなわち、幕府政治は将軍の手から老中や側用人などの家臣政治へと移っていったし、諸藩の大名は重臣たちより「古来よりの伝統」というしばりつけで家格や品格を重んじる役割を担わされ、独自の政策をなかなか展開できなかったのである。ある意味、将軍・大名権力が中世的「衆議政治」に部分的回帰したと言えよう。

初稿:2006年11月11日
第一改訂:2012年1月22日


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