テーマ「私が気になる北陸歴史の人物」
能登畠山家重臣
「飯川光誠」
やはり、21世紀になっても、私が選ぶとしたら能登畠山関連となってしまいますね。(笑)
私が一番気になる人物は「畠山義綱」だが、それではあまりにも書くことが自分のHPと重複してしまうので、義綱の側近として活躍した飯川若狭守光誠について書きたいと思う。尚、光誠の歴史・業績等は私のHPに載っているので、そちらに譲るとして、ここでは筆者の思う疑問などを止めど無く書いていく。
まず、飯川光誠はなぜそれほどまでに「畠山義綱」に付き従うのかというのが私の疑問の発端だった。と言うのは、永禄年間の義綱の領国再編で年寄衆として基軸をなし、永禄九年の政変(1566年)で畠山義綱や父義続が長続連、遊佐続光、八代俊盛らに追放されると、義綱に付き従い近江に逃れた。その後、能登の回復を目指して入国した1568年の能登奪回計画でも、主力を率いて奮戦している。その敗退後も若狭入道宗玄となって、他の飯川氏の勧誘活動を行うなど、生涯義綱の為に尽くしている。
その一方、飯川光誠の弘治年間より前の行動はあまり知られていない。『長家家譜』等の長家関連の史料では、天文期には畠山義続の従弟とも言われる「飯川肥前守義宗」なる人物(架空の人物か?)が活躍し、能登天文の内乱畠山家の危機を救っている。また、弘治元年に義綱が連歌の会で総貞を粛清した場所は飯川邸であるとされている。このように、飯川氏の名は頻繁に出てくるものの、光誠の系譜関係や弘治年間以前の行動などは、全くの情報無しの状態である。これは、どういうことであろうか。
私は自作小説「義綱奮戦記」を書いた際、光誠を義綱の守役とした。義綱政権になって光誠の名が多大に出てくることや、近江にあって徐々に勢力を減退させて行く義綱勢力を、最後まで見捨てず活躍した事柄から勝手につけたのである。しかし、活躍時期が畠山義綱とほぼ一致していること、さらに1571年の時点で入道していることなどを考えると、義綱より年上であること、光誠は「半隠斎宗春の縁辺の人」であるが、宗春は義綱祖父の畠山義総の近臣であること、等を考え合わせると、光誠が義綱の守役となっているというのも、あながち間違いではないのかもしれないと思ったのである。その結果、自作小説での光誠は伊達政宗に対する片倉景綱に近い設定となったのだ。
飯川氏は笠松氏などと婚姻関係を結び、系譜がぐちゃぐちゃになっているので、本当に系譜関係は不明である。郷土史家の片岡樹裏人氏が、能登飯川の出身の為、飯川氏のことについてかなり詳しく調べているが、それでも晩年の飯川氏の系図作成は不可能であったようだ。筆者もHPにて飯川家の系譜関係復元を試みているが、1531年に一向一揆同士の争い(大一揆VS小一揆)となった亨禄の錯乱で戦死した飯川若狭守を系譜のどこにいれるかによって、全然系図が違ってくる。いずれにしろ、資料が少ないので系譜関係は明かに出来ないのが現状である。後世に資料が発見されるのを待ちたい。
以上、私が「飯川光誠」に持っているイメージと系譜関係について、止めど無く書き記して見た。コンテンツとは言えない、およそ不備なものであるが、これをもって、義綱作成の2001年テーマ「私の気になる北陸歴史の人物」とさせていただきたい。
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