長尾直幸のコンテンツ
テーマ「私が気になる北陸歴史の人物」
「上杉謙信の女人説」
もともとこの説は昭和44年3月に作家八切止夫氏が新聞、雑誌に
寄稿したのが発端らしいです。 謙信を女性とする理由は主に2つあります。
1.謙信は「おこそ頭巾」をかぶっていた。
(春日山城の謙信銅像を思い浮かべてください)
→「おこそ頭巾」は越後の昔の女性用防寒姿である。
2.謙信は毎年10日以後、戦争中でも一定期間馬に乗らなかった。 →女性の生理現象である。
これに対する反論
1.謙信の白頭巾姿を「おこそ頭巾」とするのは大きな誤りであり、
あれは「行人包み」といい、古くは弁慶や僧兵が用いた戦時服装
である。僧侶である(あろうとした)謙信が故事に習って「行人包み」
をしたのは不思議なことではない。
2.「松平記」に厩橋城で6月10日から腹痛と称し、城内で幼児を
背負っていた記述によるが、「松平記」そのものが江戸時代に編纂
されたもので資料としての価値は低い。 大体、有名な永禄4年の川中島合戦は9月10日に行われているし、
その他永禄7年野尻城奪還、永禄9年沼田城攻撃、永禄11年、12年の
越中攻撃、天正5年七尾城攻撃など、その月の10日から20日に
行われている。
それでは、謙信が男性だという証拠はあるのでしょうか?
常識的な見地は別として、決め手となるものは以下の3点。
1.女人禁制の高野山に2回も登山した。
2.謙信の位牌に権大僧都・居士などと明記されている。
3.生前、法印大和尚に任ぜられ、自身、愚僧と署名している。
1.謙信は高野山、信州飯縄、戸隠の霊山などにたびたび参詣している。
もし、謙信が女性だったら、どうして世間に知られることなく
これの厳しい女人禁制の霊山に登山でき、多数の神官・僧侶を
ごまかすことが出来たのか。 2.法名に権大僧都や居士という言葉は、女性には絶対使わない。
女性ならば大姉、大禅定尼となるはずである。死後の法名まで
ごまかすのにどのような手段をとったのだろうか?
3.和尚・愚僧という言葉も女性には絶対用いない。
上記のように、謙信女性説には明確な証拠がなく、逆に反論の
方に客観的な証拠が豊富で、謙信はやっぱり男であった(当然か)
ということになるでしょう。 ちなみに昔読んだ「戦国武将の墓相」という本の著者は謙信の墓
の項で「現実かどうかはわからいが、墓相から見ると謙信は
絶対に女性である」と断言していました。
なお、謙信が生涯独身だった理由の一つに謙信の母親と姉の
存在が大きいと思います。 母、岩青院は謙信39才の永禄11年まで生き、姉、仙桃院(長尾政景の
妻、景勝の母)は慶長14年(1609)に、80余才の天寿をまっとうして
います。 謙信は意外と肉親の女性の愛情を存分に受けていたのかもしれません。
ということは、まさか謙信はマザコン?! うーん、あらたな謎がまた増えた。(のか?)
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