西暦 | 和暦 | 当主 | 事柄 |
1222 | 承久4 | 畠山泰国 | 初代・畠山義純が没する。 |
1346 | 貞和2 | 畠山高国 | 将軍・足利尊氏の命で、吉良氏・畠山氏が奥州管領(奥州探題)に任じられ、多賀城に下向する。 |
1347 | 貞和3 | 畠山国氏 | 南奥の南朝方勢力が篭る霊山城・宇津峯城の攻撃に際し、吉良氏と共に国氏と弟・直宗と執事・遊佐氏が参加した。 |
1348 | 貞和4 | 前年よりの合戦で、奥州管領方(北朝方)が勝利する。 | |
1351 | 観応2 | 「観応の擾乱」で直義方についた奥州探題・吉良貞家が畠山高国を攻める(岩切城の合戦)。 →畠山高国・国氏父子と畠山氏に味方した留守氏も全滅する。 |
|
1354 | 文和3 | 畠山国詮 | 国氏の遺児・王石丸(後の国詮)が自らの立場を奥州管領と称して奥州諸氏に書状を送る(「伊勢結城文書」)。 →この畠山氏の再起の動きは、吉良氏に敗れ、畠山氏は二本松に逃れた(「余目氏旧記」) |
1381 | 永徳元 | 国詮の嫡子・満泰に蘆名詮盛の息女が嫁する(「富田家年譜」)。さらに、満泰の姉(妹ヵ)が蘆名詮盛の子・満盛に嫁する(「蘆名家由緒考證」)。 | |
1384 | 至徳元 | 修理大夫(国詮)が、川辺八幡神社(福島県石川郡)の神主・石河板橋左京亮に神領を安堵した。 | |
1391 | 明徳2 | 室町将軍家より、伊達家に陸奥国加美郡・黒川郡は畠山氏の分国であるので引き渡しを命じる文章が発給される(「伊達家文書」)。 | |
1393 | 明徳4 | 畠山満泰 | 満泰が松島円福寺に打渡状を発給している事から、この頃に満泰が家督を継承したものか。 |
1413 | 応永20 | 畠山修理大夫(満泰ヵ)に対し、関東公方・足利持氏が伊達持宗の反乱鎮圧軍に出陣するよう命じる。畠山軍は主力となって活躍し鎮圧する(国詮は老齢のため出陣したのは満泰ヵ)。 | |
1414 | 応永21 | 白旗ヶ峯の城館が完成し、これを二本松城と名付ける(「金花鈔」)。 | |
1415 | 応永22 | 畠山修理大夫(満泰ヵ)に対し、関東公方・足利持氏が本宮太郎丸の城攻めを命じる(国詮は老齢のため出陣したのは満泰ヵ)。 | |
1425 | 応永32 | 4代将軍・足利義持が管領・畠山道端(満家)亭に行った時、の同行者として、「畠山修理大夫七郎持重」とある(「花営三代記」)。この「持重」は満泰弟・持泰のことヵ。 | |
1428 | 正長2 | 5代将軍・足利義教が東北の伊達・蘆名・白川らの十二氏に御内書を遣わす。この時、二本松畠山氏は対象となっていなかった。幕府と疎遠だったか。 | |
1432 | 永享4 | 満泰が5代将軍・足利義教から、太刀を賜う(「満済准后日記」)。 | |
1434 | 永享6 | 満泰が、京都醍醐寺三宝院門主・満済に対して臘灯箱、折紙(銭)500疋を持参する(「満済准后日記」)。(満泰が上洛したヵ) | |
1440 | 永享12 | 二本松畠山氏、塩松城主・石橋氏および石川氏によって、笹川公方・満直が殺害される。 | |
嘉吉年間頃 | 将軍足利義教から奥州管領の御内書を得たので、満泰はその御礼として太刀一腰、馬一匹を京に進献する(「金華鈔」)。 | ||
1448 | 文安5 | 畠山持泰 | 満泰が没し、兄・満盛は早世しその子徳光丸も幼少なため、持泰が家督を継承する(「金華鈔」)。 |
1460 | 寛正元 | 8代将軍・足利義政が持泰と塩松(石橋氏)と談合して古河公方・足利成氏討伐(関東の大乱)を命じる(『二本松市史 資料編3』72・73頁)が、持泰は軍勢派遣に応じなかった。 | |
1466 | 文正元 | 関東の大乱が再び激化し、幕府は東北諸氏に伊達・白川・小峯・二階堂・田村・蘆名氏に軍勢催促を行う。この中に二本松畠山と塩松石橋氏は含まれない。 | |
1471 | 文明3 | 畠山政国 | 幕府が古河公方・足利成氏討伐を命じ、塩松・二本松畠山・二階堂・伊達・岩城・田村・石川・蘆名に軍勢催促を行う(持泰は存命なるものの、没年の前年なるが故、軍勢を催促された「二本松七郎」は畠山政国のことヵ)。 |
1472 | 文明4 | 持泰が没し、嫡男の政国(一説には政泰、国頼とも)が家督を継承する(「金華鈔」)。 | |
1500 | 明応9 | 二本松地内の成田郷が伊達氏の恩賞地となっており、旧二本松領にまで伊達家勢力が侵食している様子がわかる。 | |
1503 | 文亀3 | 蘆名盛高が二本松を攻める気配をみせ、伊達尚宗はその背後を越後・上杉房能に攻めさせようと画策していた(「塔寺長帳」)。 | |
1519 | 永正16 | 畠山村国 | 政国が没し、嫡男の村国(一説には稙国ヵ)が家督を継承する。 |
1542 | 天文11 | 畠山義氏 | 二本松家家臣に伊達晴宗に協力して逆心を企てる者がおり、義氏はこれを田村隆顕、塩松尚義の協力によって二本松城から追放する(「伊達正統世次考」) |
同年 | 八丁目城主・堀越能登が逆心を企てる遊佐美作守の城を攻略する。 | ||
1545 | 天文14 | 伊達晴宗が岩城重隆宛て書状で、畠山家中に義氏に反逆する者がでることを推測している。 | |
同年 | 伊達稙宗方から晴宗方に転じた塩松尚義を畠山義氏が攻める(「松藩捜古」) | ||
1546 | 天文15 | 伊達家の内乱である「天文の内乱」で稙宗方に付く義国が、晴宗方に付く二本松畠山庶氏・本宮宗頼の本宮城を攻略する。宗頼は岩城常隆の元へ亡命する。 | |
同年 | 本宮宗頼の嫡子・直頼は伊達晴宗から召抱えを再三に渡り要請されるが、これを断った(「伊達家文書」)。 | ||
1547 | 天文16 | 畠山義国 | 義氏に嫡子が途絶えたため、新城村国の子(=義国)が宗家に迎えられ宗家を相続した。 |
1551 | 天文21 | 蘆名盛氏と田村隆顕の講和が、畠山尚国(義国)と白川晴綱によって実現する。 | |
1559 | 永禄2 | 蘆名盛氏が仙道諸郡を攻め、二本松畠山家を旗下に置いたと言われる(「異本塔寺長帳」)。 | |
1564 | 永禄7 | 蘆名氏の軍が二本松の畠山国治を攻め殺すと言う(「奥羽永慶軍記」) | |
1570 | 元亀元 | 蘆名盛氏が二本松に出兵した(「異本塔寺長帳」)。 | |
1571 | 元亀2 | 伊達輝宗(1000騎)と八丁目城主・堀越能登守(500騎)との合戦で、畠山・塩松が堀越に与力する(「田村荘史」) | |
1572 | 元亀3 | 本宮直頼は、本宮氏の畠山氏嫡流を訴えて娘婿の二本松尚綱と二本松城奪取を計画するが、露顕して敗死する。 | |
1574 | 天正2 | 畠山義継 | この頃までに畠山義国が隠居し、義継に家督を譲ったか。 |
同年 | 伊達実元が畠山領の八丁目城を攻略する。畠山義継は、田村氏を通じて伊達氏と和睦しを模索する。義継は伊達家に対し50騎の軍役を行うことを条件にする。輝宗は一旦は拒否するが、後に条件を入れて和睦する。 | ||
同年 | 畠山家は蘆名盛興が死去し、二階堂盛隆が継ぐと、蘆名・二階堂を関係を深め、田村氏と対立する(「治家記録」)。 | ||
1575 | 天正3 | 伊達・田村との関係悪化を憂慮し、蘆名盛隆を通じて和睦する(「治家記録」)。 | |
1580 | 天正8 | 義国が没し、嫡子の義継が跡を継ぐ。 | |
1583 | 天正11 | 義継は大内定綱と連合し、田村旗下の石川弾正を攻める(「仙道記」)。畠山氏は蘆名・白川・岩城・佐竹連合に属し、伊達・田村と対立する。 | |
1585 | 天正13 | 講和に訪れた伊達輝宗を拉致するも、伊達政宗に射殺される。 | |
1586 | 天正14 | 畠山義綱 | 義綱、伊達政宗の猛攻に相馬氏の斡旋もあって二本松城を無血開城する。 |
1589 | 天正17 | 会津・蘆名家に亡命した畠山義綱が、蘆名盛重(義広)によって常陸にて殺害される。 |
Copyright:2020 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama