田屋川原の戦い
[1481年]
石黒光義軍VS一向一揆
- ●原因
- 越中での一向一揆勢の勢いは次第に増し、すでに15世紀末には武士の力を脅かすまでの勢力になっていた。越中砺波郷福光城主の石黒光義は、一向一揆をなんとかして鎮めようとし、同じく一向一向の門徒に悩まされている加賀冨樫氏の政親と謀って、一向一揆の追い出しを画策した。それが、この田屋川原の戦いである。冨樫政親と本願寺門徒が、間接的ながらも対立した本格的な最初の戦いである。
|
石黒光義軍 |
一向一揆勢 |
勝敗 |
LOSE |
WIN |
兵力 |
1600人 |
5000人 |
支援者 |
冨樫政親 |
一向一揆 |
主力 |
石黒光義
冨樫政親 |
洲崎慶覚
河合宣久 |
●経過
- 越中砺波郷の福光城主石黒光義が一向宗の警戒から冨樫政親と結ぶ。
- 1481年2月、井波の瑞泉寺討伐の為、1600の兵で小矢部川支流の山田川へ進出。
- 瑞泉寺がこれに応戦する為、5000の一向一揆勢を集めて田屋川原で石黒軍と激突。→石黒氏敗退。
- 以後、石黒氏と一向宗の間で小競り合いが続く。
- 1484年、石黒氏が完全に敗退し、砺波郡一帯が瑞泉寺派の一向一揆に占拠される。
- ●合戦の影響
- この合戦によって、越中の西側1/3の砺波郡は一向一揆の支配下に入ってしまった。それにより、福光城主の石黒氏のみならず、蓮沼城に拠り砺波郡を司っていた越中三守護代のうちの一家である越中遊佐氏も、復帰できなくなってしまった。そして、一向一揆方は武士を破ったことで、自信を深め次第にその行動はエスカレートし、暴徒となる。その行動に蓮如は門徒等の行動を諌めたが、すでにその頃にはコントロールが効かなくなっていた。そして、次ぎのターゲットは本願寺派の本拠山崎がある加賀守護・冨樫政親であった。
- 参考文献
- 木越祐馨『日本の名族 七』新人物往来社,1989年
能坂利雄『北陸合戦考』新人物往来社,1988年
BACK
Copyright:2000 by yoshitsuna hatakeyama -All
Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama