冨樫氏のおこり

(1)冨樫氏のおこり-室町時代以前の冨樫氏-
 冨樫氏の祖は、鎮守府将軍・藤原利仁の流れの加賀斎藤氏の一族であるとされる(注1)。冨樫氏は、加賀国冨樫山塊の山麓部石川郡冨樫荘に本拠にして、平安時代後期から朝廷の在庁官人として勢力を誇っていた。その中で、冨樫家国以降、「加賀介」という朝廷の役職の他に、「冨樫介」という呼称が冨樫氏の当主に代々つけられるようになった。冨樫家国は、1063(康平6)年に加賀の国府を後の冨樫氏の発展の根拠地となった野々市(当時は「布市」と呼ばれていた)に移した人物と言われている。野々市という地は河川の海上交通と北国街道の陸上交通の丁度交差点に位置していた。その地の利に着目した家国が野々市に国府を移したのは想像に難くない。冨樫氏の発展はまさに家国を始めとすると言っても過言ではなかろう。
 そして、源頼朝が鎌倉に幕府を開府すると、冨樫氏は朝廷の役人としての立場から幕府に仕える御家人となり武家政権の一翼を担う事になった。冨樫氏は加賀の軍事・警察を担当し、いわゆる大犯三ヵ条を取り締まる守護の代官となって活躍し、着実に実力を伸ばしていった。さらに庶流として、額田・有松・押野・久安氏などを輩出し、領主的基盤を強化し、一層の冨樫氏の発展を促したようである。

(2)室町時代の冨樫氏
 室町時代以前より、着実に領主的基盤を築いてきた加賀冨樫氏は、南北朝時代を契機に加賀での台頭を始める。足利尊氏と後醍醐天皇が対立する中央政界の混乱の中で、冨樫家当主高家はいち早く尊氏方に属し、著しい戦果を挙げた。その戦功により、高家は尊氏が開府した室町幕府より「加賀守護職」に補任されたのである。加賀守護冨樫氏誕生である。高家は冨樫氏庶流の額・山川・久安・押野を被官として加賀を掌握し、北加賀の一武士であった冨樫氏は一躍加賀を代表する武士となり、その権力はますます強大となっていたのである。そして、加賀国内の武士を次々と被官としその加賀の「守護大名」たる地位を確立していったのである。
 冨樫氏の被官として組み入れられた武士として、『富樫物語』(富樫卿奉讃会(編).北国出版社.1977年)では「林・山代・久安・押野・英田・山上・横江・近岡・倉光・板津・白江・宮永・大桑・佐貫・石浦・飯河・藤井・弘岡・松任の諸氏」を挙げている。これらは、皆「冨樫氏の分家」と称した家であるが、そのことも、それだけ冨樫氏の威光が加賀に浸透していたことを伺わせる一事実である。
 以後、冨樫氏は途中守護職を奪われることもあったが、加賀の守護・実力者として、最後の当主冨樫晴貞が1570年に一向一揆勢力に敗れるまで、加賀に君臨するのである。

(注釈)
(注1)東四柳史明氏は冨樫氏の祖先について、藤原利仁将軍の流れの加賀斎藤氏の一族と言われるが「初めは庶流に泉氏が僅かに知られるのみである。」(『室町幕府守護職家事典 』新人物往来社,1988年)と指摘している。

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