情報は2011年9月現在

二本松城
(福島県二本松市)
二本松城

2003年8月7日に家族で福島に旅行した際に二本松城に行きました。東日本大震災の復興応援のために2011年9月にも歴史友達の武藤様と福島に旅行にいき、二本松城に行きました。ここでは、二本松城および、二本松市歴史資料館、二本松市立図書館、称念寺(二本松畠山氏菩提寺)を紹介します。


二本松城
 二本松城は、奥州畠山氏(二本松畠山氏)7代当主・畠山満泰が築いた城です。満泰は前当主・国詮が拠点とした田地ヶ岡が防衛に適さないという理由で、嘉吉年間(1441〜1444)に要害の地である白旗ヶ峯に居館を移し、二本松城としたと言われます。二本松畠山氏が1589(天正16)年に滅亡すると、短期間に蒲生、上杉など次々と領主が交代しました。1643(寛永20)年には江戸幕府によって旧織田家臣であった丹羽氏が大名として入城します。この丹羽氏によって二本松城が近世城郭として整えられます。


二本松城
 現在の二本松城は、国指定史跡であり「霞ケ城公園」として箕輪門の復元や本丸の石垣が整備復元されています(霞ケ城は二本松城の別名)。最初の写真にあるガトリング砲を打つ銅像は、戊辰戦争時に旧幕府派である「奥羽越列藩同盟」に参加し、敗戦した時の「二本松少年隊」の銅像です。


二本松城
 「二本松少年隊」銅像の後ろに、櫓があります。この櫓なんと復元ではなく模擬櫓。まったくの想像。この景観への溶け込み具合は見事ですね。と言っても歴史学的にはどうなのかって議論もあります。戦国時代の砦に天守閣を築くような時代考証不足の模擬櫓ではないのが救いです。


二本松城
復元された箕輪門です。模擬櫓もさることながら、こちらの復元門もとても見ごたえがあります。震災後に訪れた2011(平成23)年9月の時には、あまり人がいなかったのが残念です。2003(平成15)年に訪れたときは結構人がいて、天守台の写真を撮るのに「邪魔くさいな」なんて思ったほどでした。


二本松城
 この本丸石垣は1995(平成7)年に復元されたものです。かなり立派ですが、まだまだ新しいもので若干の違和感があります。時間が立てばなじんでくるでしょう。と言ってももう2003年に訪れた当時で105年くらい経ってますね。2011年3月11日に起こった東日本大震災に影響で天守台の石垣が膨らんでしまうなど、かなり被害があったようです。そのため、天守台は立ち入り禁止になっているそうです(2011年9月現在)。


二本松城
 本丸は結構な広さをもっています。
二本松城
(写真は二本松市歴史資料館)
 これが二本松城の本丸の図面です。この本丸の石垣がまるごと復元されています。


二本松城
 このように天守台の石垣も見事に復元され、二本松城の往年の姿が想像できます。虎口なども見事に再現されています。天守閣の復元の話もあるようですが、東日本大震災の対応もあり難しくなってきているかもしれませんね。


二本松城
 この特徴的な松は「霞ケ城公園」にある樹齢300年といわれる「傘松」です。昔、ここに霊松二本があって、この山を二本松と呼んでいたことが二本松の地名の由来とも言われています。わざわざ人の手で押えないと枝がおれてしまうほど重いんですね。歴史スポットではないですが、思わずシャッターを切りました。



二本松市歴史資料館
 まずは「二本松市歴史資料館」です。入館料100円とめっちゃ安いです。

二本松市歴史資料館
二本松藩や二本松の民俗など他の展示は充実しています。また、二本松城についての資料や市内の遺跡について知るにはちょうどいいところです。市内の遺跡より出土した土器や石器の展示、畠山時代からの美術工芸品や古文書・民俗資料などが展示されています。写真は出土した相馬焼が展示されていました。

二本松市歴史資料館
 中世に二本松を支配した二本松畠山氏は資料が乏しいことから、あまり資料はありません。唯一の文書は、畠山義継の古文書です。こちらに来ても二本松畠山氏の学習は難しいかもしれません。


二本松市立図書館
残念だな〜と思いながら隣の二本松市立図書館に入ると、郷土本コーナーの中に二本松畠山氏関連の本が結構ありました。私の本サイトの「二本松畠山」のコンテンツは、ほとんどこちらの図書館を参考に書いたものです。二本松畠山を調べる場合には、ぜひこちらの図書館へ!


称念寺
 図書館から300mくらいしか離れていません。車でも駐車場があるのでいけます。このお寺開祖は1280(弘安3)年と鎌倉時代です。応永年間ころ(1413年ころ)奥州探題畠山満泰が霧ヶ城(二本松城)を築城した際、称念寺も城の中腹に移転され、以後二本松畠山氏の菩提寺になったといいます。

称念寺
 これが、「畠山公墓所」です。かなり立派なものです。説明板を読むと二本松畠山氏は畠山義継の次女から二本松氏を名乗ったそうです。1933(昭和8)年に墓所を改装し、累代の祖霊と「粟の須の戦い」で義継と運命を共にした23名の家臣の霊もまつられているそうです。五輪塔には二本松畠山氏の累代の名前と没年が刻まれていました。反対側の面には江戸時代以降現代まで続く当主の名前と没年が刻まれていました。こんな風に二本松畠山氏の墓が大切にされているというのはうれしいです。さらに二本松畠山氏の研究が進んでくれれば言うことがないんですが…。


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