情報は2011年6月現在

根城
〜其の2根城の本丸その他編〜
(青森県八戸市)
根城

根城
主殿内部からでて入口に戻ってきました。主殿に隣接する建物が2つあり、板蔵と上馬屋です。上馬屋は当主が所有する馬をつないであるそうです。


根城
 さて、上馬屋かす進むと中馬屋が見えてきます。その前に柴垣があります。どうして、他のように板塀ではないのだろうと思うと、これもまた深イイ話があるんです。
 この主殿北から発掘されたのは、主殿を区切るようにあった長さ30メートル深さ5cm〜25cm程度の穴。しかし、柱穴ではなかったので、このような柴垣があったのでは?と想定されました。このように、区切るものひとつとってもしっかりと推考しているんですね。


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 ここは「中馬屋」です。中館側から入る門の近くにあり、板塀だったので、来客用の馬をつないだところと想定されました。上馬屋よりつなげる馬が多いのは、もちろん来客が多く来た時に対応するものでしょう。馬屋の図面もないので、絵巻物や現存する建物から復元したといいます。なお古文書に「馬屋で釘を使うと、馬のひづめを痛めるから使うな」という記録があるので、板敷で釘を使わなかったそうです。


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 中馬屋から西側にくると「下馬屋」があります。残念ながら平面展示になっています。馬屋兼倉庫になっていたのと、馬の世話人や番人が居たことから、上馬屋や中馬屋より広い構造になっています。しかし、どういった構造なのか不明なので復元は見送られたそうです。
 その横に建っているのは、お手洗いです。景観を損なわないように、番小屋に見立てて作られたそうです。また、消火器も景観に合うように作られています。どこにあるかわかります?


根城
 下馬屋からさらに西に行くと、「物見」があります。残念ながらこれも平面展示です。 
根城
 この写真は長野県千曲市の荒砥城の物見櫓です。根城は物見の柱が6本なので、もっと低いものと思われますが、こんなようなものがあったんでしょうか。それにしてもなぜこのような場所に物見が?西門から来る人を監視していたのでしょうか?近くに番所もありますし。物見の左奥に土塁が見えますが、ここの方が物見に適しているのでは?と思っていたら、ここは祭壇跡とされているようです。


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 これは番所です。公園内で休憩するために板塀を一部外して、木のイスを配置していました。ホントつくづく景観を生かしたうまい設計だなあと感心します。


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 番所のところから本丸外郭を眺めてみました。このように郭は高台になっており、木柵で囲まれています。木柵の柱穴も実際に発掘調査でみつかっています。が、大きな柱と小さな柱があり、一定ではなかったようです。


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 番所から南へ下がると、外郭沿いに工房があります。
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 この工房では、納屋と同じように、少し地面から掘り下げて作られています。地面に焼け跡がなかったので、鍛冶工房ではなく、鎧や弓を直した工房ではないかとされました。


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 主殿の南にあるのが「常御殿」です。ここは「当主が寝起きし、領内を治めるための仕事をしていたところです。重臣たちと協議したり、来客と接見するための広間や、寝所、従臣の詰所などがあったと考えられます。」と説明版にありました。この建物も平面展示です。建物の構造や建設費に不透明なところが多いためと言われています。日常の生活空間なので、主殿よりも「常御殿」や「奥御殿」の方が建物の規模が大きくなるので、費用面での工面が難しいのは仕方ないところです。


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 ここは「野鍛冶場」です。これは説明するより、説明版をそのまま掲載した方がわかりやすいですね。
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 地面に焼面が多く見られたことから、野鍛冶場と推定されたが、とくに鉄の成分などは発掘されたとは書いていない。これと同じような場所を見たことがある。
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 これは愛知県豊田市の足助城。南の丸腰曲輪にある「カマド小屋」の推定復元です。この場所には、木の燃えカスや炭・灰が出土し、調理のためのカマドがあった推定されています。ひょっとしたら根城も「野鍛冶場」ではなく、カマド小屋の可能性もありますね。「常御殿」や「奥御殿」に近いので、十分可能性としては考えられますね。全国の史跡を巡るとこういう比較ができて面白くなりますね。


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 工房と同じ竪穴建物の「鍛冶工房」です。ここが鍛冶工房と推定された理由は、この掘り込みを見るとわかる通り他の施設より深い。90cmもあるそうです。
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 しかも内部に強い焼かれた面があるため、刀鍛冶など火力の強い鍛冶工房ではないかとされたそうです。八戸市博物館が復元を考えた時、すぐ外にある野鍛冶場との関連が考えられた。野鍛冶場は野外なので強い火力が使えるので、鉄の製作など大きく作られ、それが鍛冶工房に持っていかれ、鉄の精製を通じて製品化されるという過程を描いて復元されたという。しかし、鍛冶工房内部の写真をよく見ると、壁から土が漏れ出してきており、深さ90cmの建物のメンテナンスの難しさを感じる。


根城
 根城本丸の郭で最大の面積を誇るのが「奥御殿」です。残念ながらここも構造上や費用面での不透明さから復元が見送られ平面展示になっています。奥御殿は「当主の家族が住んでいたところ」で実質的な生活の場であると思われます。奥御殿の奥には、一番最初に紹介した納屋が見えます。


根城
 奥御殿の近くに井戸がありました。根城は主要な建物のすぐ近くに井戸があり、本丸跡だけでも、4つ以上の井戸が復元されていました。水は人間にとってどうしても必要なもの。これだけたくさんあるという事は、たくさんの人間が本丸で生活していたことを示していますね。


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 奥御殿の南にあるのが「板蔵」です。奥御殿で使う衣類や道具などをしまっていたと思われます。その証拠に、壁板が厚さ6cmと厚めに作られて設計上丈夫になるように作られていました。それほど、大事なものがしまってあるんですね。


根城
 ここには「はさみ箱」(移動などに持っていく収納箱)、「行器」(弁当箱)、名持(衣装ケース)など生活に必要なものが復元展示されいる。また、書物箱などもあり、貴重な品がここに保存されていたことが想起されます。


 これで、根城の本丸の復原探索は終わりです。根城の入口に展示パネルがあります。それを使いながらおさらいしてみましょう。
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 現在の根城の航空写真です。主殿が真ん中に配置され、晴れの舞台であることがわかりますね。
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 根城全体図です。しかし、これだと中館や東善寺も入ってしまうので、ちょっとみずらいですかね。じゃあ本丸だけアップしますか…。
根城
 なんか、この復元図を見ていて違和感があります…。なんだろう…。この本丸想像図を見ると、本丸には随分建物が密集していたことがわかりますね。東門は一族などが入る通用門で、そのまま「奥御殿」に繋がる「ケの空間」(日常の空間)ですね。一方北門は、そのまま中馬屋に繋がり、主殿に通じています。来客用の「ハレの空間」(もてなし空間)なんですね。朝倉氏館も建物が密集していました。どこの館も同じようなものなんですね。しかし、これを見るとまだ2つの疑問点があります。


 ひとつは、根城本丸内部は、主殿という来客をもてなす施設があるのに、庭園はなかったのでしょうか?本丸想像図をみると、主殿L字の内側に池のようなものがありますが、ここに池があったのでしょうか?あったのならばなぜ復元しないのでしょうか?う〜ん謎。


 もうひとつの疑問はこれです。
こちらは根城主殿を後ろからみた写真です。
根城
これと、この写真を比べてもらいます。
根城
こちらは、福井県福井市の一乗谷朝倉氏史跡の朝倉氏館跡の写真です。すべて平面展示になっていますが、根城との違いがわかりますか…。

はい、シンキングタイム…。



シンキングタイム終了…。


 答え…礎石がない。よく見ると根城の建物は主殿に限らずすべての建物に礎石がありません。礎石がないのに。このような大きな建物を建てることができるんですかね…。
 しかし、過去の史跡を見るとすべての史跡で礎石があったわけではないんですよね。八王子城や一乗谷朝倉史跡、勝沼氏館、東氏館、足助城、平城宮跡では礎石がありました。でもよく考えたら、江馬氏館や、飛山城などでは見かけなかったような気がします。礎石がなくても大きな建物は建てることができたんでしょうか。ちょっと気になるところです。


次は八戸市博物館に行ってみよ〜。

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