情報は2008年11月現在

旧秀隣寺庭園(朽木氏館庭園)
(滋賀県高島市)

 足利義晴は、足利義維を擁立した細川晴元と対立し、1528年に京より逃れて朽木へ逃亡する。なぜ朽木に逃亡したのかというと、近江の朽木氏を頼ったとされる。無論それ以外にも理由はあるだろう。義晴の父、義澄もこの朽木に逃れてきており、この地で義晴は生まれている。そして、この朽木の地に来てよくわかったのが、この朽木(高島市)は琵琶湖の西側にあり京都には非常に近い位置にある。すなわちすぐに京都を奪回できる地にある。「早く京都を奪還したい」という想いがこの地を選び、朽木氏に頼った理由なのかと思われる。そういえば、15代将軍義昭は最初京都から逃亡し若狭武田氏を頼っている。若狭はこの朽木より京から遠い。それだけ、義昭にとっては“すぐに京を奪還できる情勢にない”ことがわかる。やはり現地調査は大切だ。
 亡命しているとはいえ、将軍のために作られた庭園を現代でも見ることができるというのは、その時代にタイムスリップしたような気さえする。戦国時代の文化水準を考える上でも、庭園跡をみるのは大切なことである。さらに言えば戦国時代の文化水準は、それだけの経済水準を示し、それはすなわち軍事力・政治力にも通じるものがある。ただたんなる娯楽と考えずに、どのような背景があってこのような庭園が造園されたのか考えたいものだ。


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