情報は2008年11月現在

二俣城
(静岡県浜松市天竜区<旧・天竜市>)
二俣城

 浜松市天竜区(旧天竜市)にある二俣城に2000(平成12)年12月29日訪れました(訪れた当時は天竜市)。

 二俣城は遠江支配をめぐって斯波氏と今川氏が争った時に斯波氏が文亀年間(1501〜1503)に築城したと言われています(『北遠の城』(編集:浜松市生活文化部生涯学習課.2009年)。その後、二俣城は今川領となり、その被官が支配します。瀬名氏→朝比奈氏→二俣氏と短期間に支配者が変わり、桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が破れると、二俣の領主であった松井宗信が、徳川氏や武田氏の侵攻を防ぐ軍事拠点としての強化を図るため、要塞化を図ったと言います。二俣川はその三方を天竜川と二俣川で挟まれる天然の要塞、且つ交通の要所で、戦国時代には重要拠点だったと考えられます。その証拠に、二俣城の近くに、鳥羽城・笹岡城(天竜区役所近く)が築かれています。


二俣城
 標高90mの高台にある二俣城は、現在は城山公園となっていて気軽に散策できます。管理が行き届いているので、夏でも冬でも探索するには向いています。無料の駐車場もあります。


二俣城
 二俣城の遺構で一番注目されるのは、やはり天守台の石垣です。約5mも高さがあるので、一瞬「江戸時代の城なの?」って思いました。1590(天正18)年に徳川家康が豊臣秀吉の命によって関東に移封されると、浜松の領主となった堀尾吉晴でした。その堀尾氏が1600年に出雲に移封されると廃城になったと言われるので、江戸時代の遺構としては全くないのです。ということはこの天守台も1600年以前に築かれたものだと思われます。
 よくよく写真を見てみると、天守台の石垣は5mの高さはあると言っても、使われている石はゴツゴツしています。江戸時代の遺構ならばもっと強度を高めるためにしっかりと石垣に合わせて石を切ると思うので、この二俣城の石垣は中世から近世に移り変わる途中で形成されたものだと考えられます。といっても、戦国時代は石垣技術が未熟だったので、5mもの石垣を組むことは難しいので、堀尾氏時代の遺構だと考えられます。

 本丸天守台に通じる石段は2009(平成21)年の発掘調査で、さらに一段階段が地中に埋もれていることがわかりました。さらに、本丸と二の丸をつなぐ位置に門跡の礎石が発掘されるなど、徐々に二俣城の全容がわかりつつあります。


 二俣城には天守閣はありませんと書きましたが、実は一時期復活したことがありました。2009(平成21)年に浜松市で「国民文化祭」が行われ、そのイベントの一環として浜松市が「二俣城」を一夜城として期間限定復活させました。2009(平成21)年10月31日〜11月8日までの限定で作られた一夜城は意外と本格的なものだったらしく、2008(平成20)年に作られた本当の意味でのハリボテ城とは違いなかなか好評だったらしいです。好評だった2009(平成21)年の二俣一夜城でしたが、残念ながら2010(平成22)年・2011(平成23)年と復活することはなかったようで、できれば恒久的な復元もしてもらいたいな〜なんて思ったりもします。


BACK


Copyright:2009 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama