情報は2008年8月現在

鉢形城
(埼玉県寄居町)

 車で鉢形城方面に向かうと、それらしき山が見えてきた。あれよあれよという間にその山の中に車で入ってしまう。すると、いきなり山の頂上付近で、下のような光景が広がる。

 鉢形城は1476(文明8)年に関東管領・山内上杉顕定の家臣である長尾景春によって拠点になったと言われる。景春は主君・上杉顕定に反旗を翻したが1478(文明10)年には大田道灌によって鎮圧されると、鉢形城には上杉顕定が入城した。
 その後鉢形城は、山内上杉家・後北条家・武田家などによって翻弄されるが、永禄年間には北条氏邦を城主として迎えている。現在の鉢形城史跡は、この北条氏邦の晩年頃の遺構であると思われる。



 鉢形城は、1997(平成9)年から2001(平成13)年にかけて発掘調査が行われた。さらに2002(平成14)年から2004(平成16)年にかけて鉢形城公園整備が行われ、同年10月から「鉢形城公園」として一般公開された。近年は中世史跡の復元が徐々に増えつつあるが、やはり近世城郭と比べるとその数は圧倒的に少ない。鉢形城は関東近辺で中世復元史跡を見られる貴重なスポットである。



 鉢形城の三の曲輪には、北条氏邦の時代に築かれたと思われる石積土塁がある。中世後期とは言え、石を使った土塁は珍しい。こういったものが近世になって立派な石垣になっていくんだろうなと想像できる。



 さて、鉢形城三の曲輪の復元門は四脚門が復元されているが、これは鉢形城歴史館の資料によると「洛中洛外図屏風」に描かれている細川管領邸の板屋根を意匠しているという。実際の中世の城郭の門というのはどのようなものであったのか?「伝○○城の門が○○寺に移築されている」という話は良く聞くがこれは本当なんだろうか?中世の城郭の門というと、どのようなものみなさんは想像するだろうか。

上記写真は「鉢形城歴史館」前の模擬冠木門である。このような簡単な冠木門もあったと聞く。このような質素な門が大手門では敵に簡単に突破されてしまうだろうが、小規模な砦規模ならこのような門だったのだろうか。やはり中世城郭は復元されていないので、ビジュアルに乏しい。ゆえにこういう復元城郭はありがたい。



 三の曲輪には、堀立柱建物の復元建築(休憩所になっています)もある。これは実際、柱跡が発掘されたのを元に復元している。しかし鉢形城では、礎石などが発見されず大きな建物跡がみつからなかった。これは城跡が田畑に利用されたためだと思われるが、完全再現復元は無理なのである。



 ここ三の曲輪には堀立柱建物の他に庭園跡と見られる池の跡がある。福井県の朝倉氏一乗谷史跡に行って以来どうも最近自分の庭園を見る目が変わってきた。庭園がどのように生活の中で使われたのか。建物とどのような位置関係であったのだろうか考えるようになった。そこで私も堀立柱建物(休憩所)から庭園を眺めてみたのが下の写真である。

 水草が生い茂っているのであまり眺めはよくない。が、それは置いておいて疑問がひとつ。わたしがこの建物の縁側に座って庭園を眺めながら茶(ペットボトルのお茶)でも一服しようと思っていると、何か違和感がある。やけに池との距離を感じる。そこで建物内で立ってみると、そこそこ見える状況となった。あとで鉢形城歴史館発行の『鉢形城指南』(12頁)をみてわかったことだが、やはり庭園は建物に近接して「座観」(座って眺めるべきだ)すべきものとされて、その考えに基づくと鉢形城の庭園跡はあてはまらなくなる。ひょっとすると、田畑の開発で失われた建物遺構があり、そこに近接した建物があったのかもしれないという。謎は膨らむばかりであるが、想像することが楽しい。



 さらにこの堀立柱建物の近くには井戸跡があった。建物が会所(人をもてなす場所)とすれば、必然的にお茶を出したり、食事を出す必要がある。だからこそ井戸跡があるのは当然とも言える。

(三の曲輪から二の曲輪を臨む)


(三の曲輪から荒川を臨む)

 ああ。こんな高いところに三の曲輪はあったのね。二の曲輪もよく見渡せるし、背後は荒川の斜面で敵もこないから安心♪鉢形城で一番標高が高いのがこの三の曲輪。だからこそ、広い曲輪があり、人をもてなす会所があったりするんですね。言わば生活面でいうと「ハレ」(生活の表の場)の舞台と言えるでしょうか。



(馬出の木橋)
 さて、菅谷館に続いて、鉢形城にも木橋がある。鉢形城の二の曲輪に行く前に、三の曲輪から続く「馬出」と言われる場所にかかっている。この「馬出」とは鉢形城歴史館の展示ブースによると、この「馬出」は城や曲輪の出入口をスムーズに味方が出入りするためにあるらしい。例えば、出陣するときは「馬出」で兵をそろえると狭い門に集中しなくて済む。防御の際は、虎口を守る呼び施設みたいな役割をするそうだ。なるほど「馬出」覚えておこう。



(馬出堀切)
 この三の曲輪の馬出と二の曲輪の間の堀切はすごい高低差がある。鉢形城は相当な堅固な城であったことがわかる。一枚だ。



(木柵)
 この鉢形城の三の曲輪・二の曲輪はだいたい木柵で覆われている。ここ鉢形城は一般の人向けの「公園」でもあるわけで、その意味で堀切への「落下防止」の側面があるのかもしれない。この鉢形城公園は親の立場からするととても曲輪のひとつひとつがとても広いし、しかもキレイに芝生が整備されていて、子どもを遊ばせるにはなかなかいい環境である。しかも落下防止の柵が木柵というのも、歴史ファンなら納得できる。とても良い「史跡公園」だと思う。



(荒川の写真)
 二の曲輪から舗装された道路を10分ほど下っていくと、10年前に私が訪れたところがあった。荒川の断崖絶壁を背にした場所。それは…

(伝本御殿曲輪跡)
 「伝本御殿曲輪跡」。この場所に「鉢形城本丸址」の石碑が建っており、去りし日の私は友人と一緒にここを訪れ写真を撮った。ここ「伝本御殿曲輪跡」は未だ発掘調査が行われていないので、具体的な遺構などはわかっていないという。この「伝本御殿曲輪」の東の一段下がったところに「伝御殿下曲輪」というのがあるが、ここには現在「シルバー人材センター」があって入ることはできなかった。そのような建物が建つほど広い土地があるわけなので、きっと家臣の屋敷など生活に密着した施設があったのか。



(笹曲輪)
 「伝本御殿曲輪」の北には一段下がって小さな曲輪。さらに下にいくと、県道30号線の荒川にかかる橋「正喜橋」と同じ高さになり、そこに「笹曲輪」というのがある。「笹曲輪」とは笹のような小さい曲輪のことを指すらしい。本曲輪を守るために作られた、外側の櫓のようなものかな。小さな曲輪なんてこんなものね…と思っていたらすごいものが…。

(笹曲輪石垣)
この石垣はかなり出来の良いものに見える。三の曲輪にある復元石積土塁に比べて表面の形も整えられている。ひょっとすると豊臣期の築造かもしれない。



(大型休憩所)
 さて、いよいよ鉢形城訪問の総仕上げ。「鉢形城歴史館」に参ります。資料館の前には大型の休憩所があり、しっかりのれんが北条氏の家紋になっている。

(資料館入口)
 その〜その参〜にも上記写真を掲載した、資料館の前に模擬冠木門がある。こういう質素な室町期的な門は義綱大好き。



(資料館建物)
「鉢形城歴史館」は開館時間9:00〜16:30。休館日は月曜・祝翌日・年末年始。入館料は大人200円。建物の外観を見ていただければわかるが、新しくてハイセンスな建物ではあるが、資料館にしては狭い。展示ブースに古文書などもない。ただ、建物内に復元した櫓門は見ておきたい。さらに意外と見落としなのが「鉢形城フィールドマップ」と呼ばれるパソコン検索。これを使うと鉢形城の発掘調査の詳細や現況などを詳しい説明つきでみられる。だからこそ、鉢形城に実際に行った後でこちらを訪れると知識が深められると思う。
さらに、このパソコン検索では、北条氏邦関連の古文書検索ができる。原文だけでなく活字化されたものも見れるし、解説文付き。こんなのが能登畠山家であったら3時間以上はずっと見ていてしまうシロモノだ。北条ファンはお見逃し無く。
今回の企画展は「武蔵の刀工」ということだったが、ほとんど江戸期のものなのでほとんどスルー。受付に戻って企画展の図録など刊行物を購入。「ふん。どっかの県立博物館とちがってこちらはしっかりしてるねぇ〜♪」

 今回、中世史跡の「鉢形城址」を訪問してみて思ったことは、「七尾城跡もこのように復元してほしい」と切に思った。土塁に復元木橋。木柵。門の再現だけでなく、庭園の再現。建物の再現。確かに朝倉氏一乗谷史跡の規模には及ばないが、これだけでも十分鉢形城の規模の大きさ、堅固さ、拠点としての重要さを知るには十分だった。七尾城跡にはやはり発掘調査がまだまだ足りない。そして、ぜひ史跡公園「七尾城跡」として復元整備を行ってほしいものである。
平成10年に七尾城整備計画の構想がでてきてもう早10年。あと半年で平成20年も終わり。10年前は平成20年度をめどに整備を終える予定だったのに…。果たして七尾城整備計画はどこまで進んでいるだろうか。

 さて、私は去年武藤様と旅したときにみた、朝倉一乗谷史跡の庭園跡と朽木館跡庭園をみて、戦国期の武家庭園に興味を持ちました。ここ鉢形城にも庭園跡がありますし、能登松波城にも枯山水庭園がありました。戦国期の武家屋敷や城に庭園があるのは「珍しい」、「文化水準が高い証拠」と言われますが、昭和後期〜平成にかけての発掘調査で結構な数の武家庭園が発掘されました。きっと今後も室町・戦国期の庭園跡の発掘が相次ぐと思います。庭園跡は単なる貴族趣味ならず。会所を併設した庭園は、大事な人を招く、例えば外交の一場面に利用されていたりと、武将たちの生活の一部になっていたと思われます。今後もそんな戦国期の武家庭園を私はおっかけていきたいな、と思います。


BACK


Copyright:2009 by yoshitsuna hatakeyama -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama