義慶奮戦記〜義綱奮戦記番外編〜
−あとがき−

 『義綱奮戦記』は2000(平成12)年に完成してネットに公開しました。その完成直後から「今度は息子の畠山義慶の生涯を書きたい」と思って勢いで『義慶奮戦記』を書き始めました。しかし、晩年の畠山家ではかなり古文書が残っている畠山義綱に対し、ほとんど古文書がない義慶。書き始めてすぐにこれは難しいと筆が止まってしまいました。しかし、途中になってしまってはと、なんとかストーリーを完成させましたが、納得のいくものではありませんでした。完成後、徐々に歴史の勉強を深めて行くうちに、最初に完成した『義綱奮戦記』をどんどん改訂していきました。歴史小説やNHK大河ドラマを見ていると、どんどん発想が沸いてきてきます。すばらしい作品を参考にすることが創作意欲をかき立てるのだとわかりました。

 そんな中、私は義慶奮戦記の可能性に気づきました。最初こそ義綱と義慶は親子なのに直接の接点が薄く、結局書くことが難しいと思っていましたが、逆に直接の接点が薄いからこそ書く視点が増えるということに気づきました。
 1つ目は御舘館でのエピソード。義綱の能登奪回計画を行っている最中に義綱は義綱方として御舘館に在陣しています。その一方で義慶(次郎)は七尾城方として敵方として描かれています。つまり、一方の視点を描いて、その舞台裏をもう一方の視点で書けるということです。義慶(次郎)は敵方でありながら、実は義綱方に駆けつけようとし、それを七尾城方が察知してなんとかさせないようにする点。御舘館に対する義綱方の退却戦略と、攻略した後の住民の対応。
 2つ目は、「義綱奮戦記」第1章での「義綱と温井総貞の会話」を、ほとんどそのまま「義慶奮戦記」後編で「義慶と温井景隆の会話」に使用したこと。これにより、時を超えても義綱の戦いは受け継がれて続いているというのを描いています。
 それに気づいて、『義慶奮戦記』の大幅な改訂を行いました。こうして物語を描いていると『義慶奮戦記』が独立した一作品としてではなく、まさに『義綱奮戦記番外編』としての機能を持ち得たのです。これを以て私は『義慶奮戦記−義綱奮戦記番外編−』の一応の完成を見たのではないかと思って「あとがき」に書きました。

 ちなみにこの番外編の物語に頻繁に出てくる「公私意に任せずに政を御成敗する」と言う言葉。これは「六角氏式目」の一説です。能登畠山家と関係が深い近江六角氏において1567(永禄10)年に制定されたもので有力な被官と大名との間に順守すべき事項を起請するという形式をもって大名専制政治を防ぐ効果があったと言います。この分国法は1563年(永禄6)年に起こった六角氏が重臣を暗殺して怒った観音寺騒動や1566(永禄9)年の六角対浅井長政との戦いに惨敗したということにより家臣が大名の専制支配を見限ったという経緯で作られている。これは、能登畠山氏の状況も似ている。そこでこの「六角氏式目」の一説を取り、能登畠山氏の内部崩壊を描きました。

 今まで作品に納得がいかなかったものを、十年以上経って納得がいく作品を完成させることができる。これがネットの良い点だと思います。今回の大幅改訂を以て『義慶奮戦記−義綱奮戦記番外編−』は一応の完成を見た訳ですが、この気づきをもし他の場面でも生かせたら。もう一度義綱と義慶のニアミスがあったら…とアイディアが生まれたら、また改訂することもあるかもしれません。そんな可能性を秘めて、あとがきとさせて頂きます。最後までご覧になって頂いた方、誠にありがとうございました。

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平成廿九年九月三日
畠山匠作源義綱(花押)


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