能登の藩

江戸期になって、能登にはどんな藩があったのか?一般的には、加賀100万石(加賀・能登・越中)しか知られていないが、 幕藩体制が固まっていなかった江戸初期や安土桃山期には能登に3つの藩があった。それをここでは紹介する。

藩名 七尾藩(ななおはん)
歴代藩主 前田利政(まえだとしまさ)
石高 21万石
期間 ?〜1600
領地 能登全域(七尾)

 七尾藩の成立時期は明らかになっておらず、その石高も資料によっては21万石であったり24万石であったり判然としない。しかし、藩主利政は1597(慶長2)年には七尾在国がみられる。同年7月には前田(本家)藩より、15000石を分与されるなど徐々に能登の藩として体制が整っていった。また、1600(慶長5)年、兄・利長に従って大聖寺城攻略の兵を進めるなどした。しかし、関が原の合戦時に徳川家康に従わず出兵しなかった為、戦後処理で除封され、七尾藩は終焉した。その後、利政は、1614(慶長19)年大阪の陣にて豊臣方から加賀・能登2国を与える条件で誘われたが、これを拒否した。徳川方が勝利し、先の誘いに乗らなかった恩賞として家康より10万石の領地を与えられる約束をしたが、利政はこれも拒否した。


藩名 下村藩(しもむらはん)
歴代藩主 鳥居忠英(とりいただひで)
石高 1万石
期間 1689〜1695
領地 羽咋・鹿島・鳳至・珠洲

 信濃高遠藩主・鳥居忠則が1689(元禄2)年に家臣の不正に連座して蟄居し、これを恥じて自害して果てたので、高遠藩は所領没収となった。しかし、鳥居氏の先祖の勲功にたいして、忠則の次男である忠英は能登の四郡、約1万石を与えられて立藩。1695(慶長8)年には、忠英がさらに1万石の加増を得て近江水口へ転封となったので、下村藩は廃藩された。


藩名 西谷藩(にしやちはん)
歴代藩主 水野勝長(みずのかつなが)
石高 1万石
期間 1698〜1700
領地 羽咋郡西谷中心

 1698(元禄11)年に備後福山藩主・水野勝岑がわずか2歳で死去し継嗣断絶により改易となったが、その名跡を残す為と、先祖の勲功にたいして、水野家一門の勝長(父は水野勝直)が能登1万石を与えられて立藩した。1700(元禄13)年に、勝長は八千石を加増され、下総国の結城に移封となり西谷藩は2年で終焉した。


参考資料
『三百藩主人名事典 第三巻』新人物往来社

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