「九代説」と「十二代説」特集

 能登畠山氏を語るとき、能登畠山家歴代当主は資料によって九代であったり、十二代であったりする。これはどうしてか?また、どっちか正しいのかを義綱なりに分析した。では、どっちがただしいかLet's検証!

(1)九代説では十二代説と比べてどう違うか?
 九代説の当主は満慶、義忠、義統、義元、義総、義続、義綱、義隆、春王丸の九人である。(十二代説は 歴代当主とその家臣 参照)
十二代説当主と比較すると五代慶致、六代義元、十代義慶が存在しない。
十二代説では、五代慶致の在任期間が1500年から1508年までと非常に短い。また、六代義元は四代義元と同一人物である。

(2)義元と慶致
 まず、なぜ六代守護が四代義元と同じかを説明したい。そもそも、義元と慶致は兄弟である。1497年、義元は三代守護父義統の死をうけて家督を継承。歴代の当主と同じように時の将軍足利義稙に使えた。しかし、将軍義稙が管領細川政元に追放されると、将軍に使えていた義元も守護の座を降ろされた。そこで担がれたのが、義元の弟で政元派である慶致だった。慶致は五代当主となるが、能登国内には前守護の義元派と慶致派にわかれて争いが起き、畠山家は内部分裂し崩壊寸前となった。そこで、このままでは畠山家が滅亡すると思った慶致は義元と和平交渉を開始した。その結果、慶致は出家し義元に守護職を返還する。義元の後継者は慶致の嫡男義総にすることで決着した。こうして義元は再び守護に返り咲いた。
 九代説を採るものには昔の研究者の資料が多い。そのなかの系譜図では、慶致に当たる人物はすでに出家している。その中で、九代説をとる本が書かれた時代にはまだ1500年から1508年までの資料が発見されていなかったのではないか。現に、1968年発行の『七尾城の歴史』は九代説を採るが、1500年〜1508年までの資料は紹介されてない。これでは五代慶致の存在を見落とし、六代義元も、四代義元からずっと続いてると誤って考えるのは当然で、九代説に五・六代の記述が抜けているのも頷ける。

(3)十一代義隆は二本松姓?
 義隆は十二代説では九代守護義綱の次男であるが、九代説では義綱の嫡男とされている。しかし、九代説にも義綱に次男が存在する、その名は「二本松義有」である。では二本松義有とは誰であろうか。
 ここで、非常に注目したいのが、十二代説では義隆が二本松姓を名乗っているのである(何故畠山義隆が二本松義有に比定出来るのかは畠山義隆特集を参照)。十二代説の義隆は二本松姓を名乗っていたせいか、1574年に兄義慶が暗殺されたのちに義隆が家督を継いだ時、暫定的に家督を継いだとされている。また、畠山家とは全く関係ない官位伊賀守についていることも、本当に能登畠山家の嫡流かと疑ってしまう。しかし、一説によれば、義隆は二本松畠山家に養子にいったとされている。ここで共通するのが、九代説義有と十二代説義隆の二本松という点である。よって、これは二人は同一人物と見なす。では、一体何故義隆と義慶が間違えられたのか?それは戦乱時代故の記述の混乱に所以するものであると考えられる。当時、畠山家家中では重臣たちの対立が深刻化し、1574年には義慶が暗殺され、1576年には義隆が暗殺されるなど異常事態が続いた。こういった中で、ゆっくりと本を書いている暇などあまりない。それ故、のちにその時生きていた人物の記憶を頼りに本が記された可能性がある。とすれば、忘れたり、とばしたりと、記述の混乱が起こるのはやむを得ない事態だと考えられる。

義綱公式見解「十二代説が正しい。」

☆補足
 あとで、わかったことだが、十二代説が現在主流なのは、東四柳史明氏の「能登畠山氏家督について再検討」(『国学院雑誌』73巻7号、1972年)において提言されたからである。詳しくはそちらを見ていただきたいのですが、十一代の義隆についてはここで義綱独自の論を展開してみました。

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