林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.65

第65回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集「猿楽座特集の結びに代えて」

猿楽座は、同業他座同士の交流という、他の座に見られない特徴を持っていたものでした。
彼らは芸能の座という特殊な地位にあり、そのゆえに権力者側と民衆との間を行き来していた唯一の座と言えるでしょう。
思えば、パトロンという権力者の幾度にもわたる交代や、地方権力である守護大名、そしてそれに代る戦国大名の浮沈が、彼らの生活を脅かし、現代の能楽人の想像を絶するほどの大変な苦労を経て、戦国の世を生き抜いてきた、と言えるでしょう。
彼らの伝統は、口で言うほど甘くはなかったのです。
そして、戦国時代が終焉を迎え、天下統一の時代になると、また新たな歴史が加わってきます。

戦国期における手猿楽の流行は、つまりは座衆でない一般の人々による猿楽能の流行ということであり、当時、猿楽能がいかに社会に浸透していたかを示すものです。
桃山(豊臣秀吉)期におけるその代表格は、下間少進仲孝と、秀吉の師匠の暮松新九郎と言えます。
下間少進仲孝は大坂本願寺坊官の下間少進家の一人で、大坂本願寺と信長との戦争では本願寺側の軍事指揮官として、また外交官として活躍した傍ら、金春大夫喜勝に師事して奥義を極めた人物です。
そして暮松新九郎は、金春系の手猿楽役者で、秀吉が贔屓し、手ほどきを受けた男です。

この時期、秀吉が猿楽能に耽溺し、彼の事跡の演目(豊国能)を作らせるなど、猿楽能が高度なものと、秀吉や大名が演じる、そうでないいわゆる旦那芸の2種類に分かれた可能性が高いです。
秀吉は暮松新九郎に能の手ほどきを受け、また金春大夫喜勝の後継者である、金春大夫安照を贔屓にしました。

猿楽能の演出等が、秀吉の贔屓によってまた違った形になった可能性も高いといえます。
この時期、桃山期は南蛮船など国際貿易が反映した時期に当たり、で、装束も道具も、それまでとは打って変わって、華麗なものになったと考えるのが自然です。
また、この時期には常設の能舞台も出現し、一般民衆向けの勧進猿楽の記録も少なくなっていきます。
秀吉の猿楽能に対する耽溺は、時代こそ違え、フランスブルボン王朝のルイ14世の、自分自身が太陽神アポロンに扮してバレエを演じた、俗界の最高権力者に共通するものがあり、興味深いものがあります。

猿楽能の歴史の中でこの時期は画期とされており、その一つは秀吉による猿楽4座への扶持米支給が挙げられます。
これにより、金春・観世・金剛・宝生の猿楽4座は、それまでの自由な身分から武家に従属する形になりました。
これは徳川政権にも引き継がれ、正式な制度としての「武家の式楽」の歩みを始めていきました。
家康も金春大夫安照を贔屓にし、見るのは好きでしたが、秀吉ほど猿楽能に、のめりこんではいなかったようです。
そして、これ以降、各地にあった他の猿楽座は次第に4座の中に組み込まれていき、そうでない地域色の強いものは、現在でも各地に残る「神事能」として現代に続いています。

徳川秀忠の時代に金剛座から北七太夫が喜多流として独立し、新しく「四座一流」となったことはありましたが、これらは「武家の式楽」として、正式に制度化されていきました。
これ以降、特に江戸中期以降あたりから、時代とともに演能時間も徐々に長くなり、現在に至ったと考えられています。

以上、猿楽能の歴史を見てきましたが、私は決して、現在の能楽を否定しているわけではありません。
現在の能のゆっくりした動きは、世阿弥の目指した「幽玄」とは異なる「幽玄」であることは間違いないが、世阿弥の心は伝わってくるものがあります。
しかし、私は現在の能も好きですが、世阿弥時代や戦国時代の猿楽能も、当時の様子のまま、これは舞台も狭く時間的にも短く、演出的にも公演的にも不可能かもしれませんが、ぜひ見てみたいとも思っています。
現在の能も良いのですが、足利義満や歴代足利将軍が愛し、当時の民衆たちも熱狂した、観阿弥世阿弥以降の「猿楽能」も、見てみたいのです。
これは、猿楽能の歴史を見てきた者の、因果のなせる「業」という物かもしれませんね。

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