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リアル!戦国時代 vol.64

第64回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集「加賀の猿楽と猿楽能」

加賀白山寺の加賀猿楽

加賀猿楽は、その初期の段階においては白山比盗_社所蔵の『三宮古記』『白山宮荘厳講中記録』によるほかなく、しかも『三宮古記』は下部分がほとんど欠損しているので、判読が非常に難しい史料です。

「御供□(米偏に斤)一石五斗黒米居祭時 猿楽五斗 
相摸(撲)左右ニ四斗一方二斗ツゝ 舞師仁一斗銭
(略) 猿楽ニ白三丈七ツゝ布
三社祭時ハ白山ニ猿楽、剣ニ毛馬神人、岩本ニ相
後延(宴)猿楽ニ六貫文臨時祭内用途也 紺カキ役□□
但一切ヲハ留テ五切猿楽ニハ下文 □□ 
送進 此懸物者三社平均下行之」(正和元(1312)年5月12日以前の記載)『三宮古記』

「一、臨時祭田二町九段供□(米偏に斤)引事一
得分也、後宴猿楽也、禄六貫文以下祭□□」(年次不詳)『三宮古記』

「康永四年乙酉臨時祭次第
一、御行次第
 競馬御迎参先陳(陣)、次田楽、次三宮御輿
 (略)
一、田楽三尋布八懸八人仁
一、猿楽一頭宛渡物ス
一、舞童従時略之
(略)」(康永4(1345)年記事)『三宮古記』

「貞治貮年四月ノ祭礼ノ後宴ノ猿楽、例年ハ彼岸所ノ前ナリシヲ、大講堂ノ前ヘウツサル」(貞治(1363)2年4月)『白山宮荘厳講中記録』

加賀白山寺における猿楽関連記事は以上で、特に『三宮古記』はほとんど判読できません。
わずかにわかることと言えば、まず、これらの猿楽は座猿楽ではない可能性が高いこと、また、「幽玄」や「花」を旨とした世阿弥系の猿楽能ではなく、滑稽系か物真似系の猿楽であったろうということ、つまりは宴会の余興の域を全く出るものではなかったことです。

しかしながら、康永4年の臨時祭に「渡物」とあり、これが何を指すのかはわかりませんが、少なくとも祭礼の順に入っていたことを示しています。
また、「祭礼の後宴の猿楽」ということで、恒例になっていた可能性も高く、臨時的に行われたものではなかったようです。
いずれにしても、これら初期の白山猿楽は、南北朝期という時期的に見ても、猿楽能ではなく、それ以前の滑稽物真似を主体とした猿楽だった可能性が高いと言えましょう。

これ以降、天文15(1546)年6月18日付の「菊大路文書」(『加能古文書』1324、一般的には「賀州西泉勘定状」と呼ばれる)に、

「りんじ九貫五百文注文」のうち、
「五百文        山上郷・三ヶ庄 さるがく共すゝめ」

という記事があります。
山上郷も三ヶ庄も当時の能美郡内であり、現在の能美市辰口町・寺井町に比定されています。
この古文書は、加賀一向一揆の金沢御堂建設の記事の初見史料で有名な史料ですが、この天文15年の加賀においても細々ながら在地においても猿楽能が行われたらしいことが推測できます。

これらの初期の加賀猿楽、また在地の猿楽能とは別に、冨樫氏による猿楽能の大夫育成も存在しました。
もともとは能登国諸橋郷出身の諸橋大夫は、珠洲正院の長浜八幡神社による神事猿楽の頭取を勤め、地元の猿橋稲荷神社の祭礼猿楽のほか、諸所の祭礼猿楽に出勤したらしいことがわかっています。
この諸橋大夫が天文期以降、冨樫氏によって能大夫5人の筆頭となり、冨樫氏の家紋や翁面を拝領したということです。
おそらくこの頃から、能登国を出て、加賀国小松近辺に来住したようです。
しかし彼らは座を作るまでには至っていないようです。

冨樫氏の滅亡は長享2(1488)年の高尾城合戦ではなく、元亀元(1570)年の合戦以後であり、この間、細々ながらも各地の神事猿楽に出ていた可能性があります。
あまりにも長享の高尾城合戦のイメージが強いのか、武人一辺倒のイメージがある冨樫氏ですが、歴代当主とも「馬」の絵に長けており、また音楽や芸能にも通じていた可能性が非常に高く、その意味では文化的志向も強かった守護大名だったようです。
この冨樫氏の滅亡後も、諸橋大夫は前田氏による大野湊神社の祭礼猿楽に出勤を命じられていることから、冨樫氏に代わり前田氏に仕えたものと推定されています。
前田氏は秀吉の影響もあって金春座を贔屓にしており、この前田氏の審美眼に合うように、諸橋大夫も金春系となり、大和猿楽座の「幽玄」の芸を覚え、磨いていったのでしょう。

総じて、有力な戦国大名のいなかった加賀においては、畠山氏という有力戦国大名治下の能登国に比べて猿楽能を演じる機会も少なかったのではないか、と考えています。
能登の場合は、畠山氏にとどまらず、畠山氏が集めた文化人たちも多かったことでしょうし、彼らの審美眼に叶うには猿楽大夫たちも「幽玄」に見える芸をいっそう磨いていったことでしょう。
史料上においては、天文年間の日吉大夫の能登下向など限定した史料しか出てきませんが、金春座など他の大和猿楽4座の面々も、能登畠山氏の求めに応じて能登に下向し、畠山氏治世下の能登各地で猿楽能を演じていったと考えるのが自然です。
そして在地の猿楽大夫たちも、彼らから中央の「幽玄」な猿楽能を覚えていったと考えられます。

これらの諸事情から、加賀の諸橋大夫などの弱小地方猿楽大夫は、大変に苦労して、新しい前田氏という権力者のために、新しくも厳しい「幽玄」な猿楽能を身に付けていったと思われます。


追記 「加賀宝生流」について
現在、ネットでも初学者向けの図書、また一部マスコミでも「加賀宝生流」なる用語を頻繁に見かけますが、「加賀宝生流」などという流儀は歴史的に存在せず、現在においても実在しません。
加賀藩5代綱紀の時代に、前田家では金春座から宝生座に贔屓を変え、以後、加賀では宝生座の金城湯池という意味で、「加賀宝生」と呼ばれるようになりました。
従って、「加賀宝生」という用語は歴史的にも存在していましたが、これが幼稚な誤解を生み、江戸時代の「4座1流」という用語から「能楽5流」と呼ばれるようになった明治以降、「加賀宝生流」と言い間違えることとなったのだろうと推測できます。
重ねて申しますが、「加賀宝生流」は、単純な誤解によって生じた、明らかな誤りの用語です。
この点を、明確に指摘しておきます。

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