林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.55

第55回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集「「花」と「幽玄」(前)」

能を表現することに「幽玄の世界」という言葉がよく使われます。
「いやあ、幽玄の世界だなあ」とか「幽玄を堪能した」などといった表現です。
私はそこで聞いてみたい。貴方の言う「幽玄」の意味を聞かせてください、と。
おそらく100人中、99人は「さあ…」と言って答えられないか、「ああいう世界ですよ」と誤魔化すのではないでしょうか。
ここは猿楽能とその歴史を語る上で、とても重要な箇所で、あとあとこの言葉がボディブローのように効いてきます。

猿楽能を語る上で絶対に欠かせない書として、世阿弥の『風姿花伝』俗に言う『花伝書』が挙げられます。
世阿弥が後進に伝える書として書かれたもので、ここに書かれているものが世阿弥の能の本質と呼ばれています。
この『風姿花伝』に「幽玄」の記述があるのは10箇所程度のみです。
これらの箇所を読むことにより、「幽玄」の何たるかが、ほの見えてきます。以下、少々長いですが抜粋、意訳します。

「たとへば生得幽玄なるところあり。これ位なり。しかれども、さらに幽玄にはなき為手の、たけのあるもあり。これは、幽玄ならぬたけなり。」

例えば、生まれつき幽玄なる人がいる。これはその人の位というものである。しかし幽玄ではない演者の堂々たるさまのあるのもある。これは幽玄とは違った堂々さである。

「能の品のなきをば強きと心得、弱気をば幽玄なると批判すること、をかしきことなり。」

能の優美さにかける品のないのを強い能と心得て、弱弱しい感じの能を幽玄だと批評することは、こっけいなことである。

「時分の花・声の花・幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、そのわざより出て来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。」

演者の年齢による美しさ・声の美しさ・幽玄の美しさ、これらの事柄は、人の目にも見えるものだが、これはそれらの技術より出てくる美しさであり、花が咲くようなものであるので、やがては散ってしまう時期が来る。

「江州には幽玄の堺をとり立てて、物まねを次にして、かかりを本とす。和州には、まづ物まねをとり立てて、物数を尽くして、しかも幽玄の風体ならんとなれり。」

近江猿樂は幽玄の境地を第一にして、物真似を第二とし、姿の美しさを基本としている。わが大和猿樂では、まず物真似を第一とし、謡や舞などをつくして、それでなお幽玄の表現を行おうとしているのだ。

「しかればよき能と申すは、本説正しく、珍しき風体にて、詰めどころありて、かかり幽玄ならんを第一とすべし。」

さて、それでは良い能というものは、日本・中国などの歴史を元に正しく、なかなか見られないものであり、話の山がしっかりとあり、言葉も姿も幽玄であることを第一にしなければならない。

「一、能に、強き・幽玄・弱き・麁きを知ること、おほかたはみえたることならば、たやすきやうなれども、真実これを知らぬによりて、弱く麁き為手多し。」

ひとつ、能に強い物、幽玄な物、弱い物、粗雑な物を知ることは、たいがいは見て判ることで、簡単なようでいて、真実の幽玄を知らないために、弱弱しくまた粗雑なシテが多いものだ。

「もし強かるべきことを幽玄にせんとて、物まね似たらずは、幽玄にはなくて、これ弱きなり。」

もし強くすべきところを幽玄にしようとして、その真似が似ていなければ、これは幽玄とは言わず、弱い物というべきだ。

 「また強かるべき理すぎて強きは、ことさら麁きなり。幽玄の風体よりなほ優しくせんとせば、これ、ことさら弱きなり。この分け目をよくよく見るに、幽玄と強きと、別にあるものと心得るゆゑに迷ふなり。この二つはその物の体にあり。たとへば人においては女御・更衣、または遊女・好色・美男、草木には花のたぐひ、かやうの数々はそのかたち幽玄のものなり。」

また、強くすべきところを必要以上に強くするものは粗雑なものである。幽玄の姿かたちよりも、もっと優しさを出そうとすれば、これは弱い物となってしまう。以上の境目をよく見ると、幽玄と強い物とが別にあるものと心得るために迷うのだ。この二者の違いはそのものの姿にある。人に例えれば、女御(皇后の次位)・更衣(女御の次位)、または遊女・美女・美男、草木で言えば咲く花の類だ。これらは姿かたちとして幽玄に属するものだ。

「かやうの万物の品々をよく為似せたらんは、幽玄の物まねは幽玄になり、強きはおのづから強かるべし。」

このように全ての物事を、よく似せることができたならば、幽玄の真似は幽玄になり、強い物は当然のことながら強くなるのだ。

「また幽玄の物まねに強き理を忘るべからず。」

また、幽玄の真似には、強い意志を忘れてはならない。

以上、『世阿弥芸術論集』『風姿花伝』による。

ここでは「幽玄」に関する主なものを抜粋しましたが、世阿弥は猿楽能において、幽玄が全てではないことを述べています。
世阿弥は能において「花」を第一に考え、「幽玄」はその中の一部に過ぎないことを述べているのです。
そもそも『風姿花伝』は、能の理想とも言うべき「花」について述べたものであり、だからこそ「花」の姿を伝えた書とされているのです。
それは決して「幽玄」を伝えたものではありません。
世阿弥は猿能楽において、「花」を見せることを考え、その中での優美さ即ち「幽玄」であることを強調しているのです。
だからいろいろな種類の能を見て、それらの能を「幽玄の世界」とのみ位置づけること自体、本末転倒のことと言わざるを得ないのです。

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