林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.53

第53回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集「観阿弥と世阿弥」

さて、多くの解説書などには、猿楽「能」は足利義満が世阿弥を寵愛または贔屓したことにより、観世座を中心に盛期を迎えたとよく書かれています。
田楽好きと言われている足利尊氏の頃に比べ、確かに孫の義満の時代は猿楽「能」が表舞台に登場してきた観があります。
じっさい足利義満による庇護以来、足利将軍家が猿楽能のパトロンとなり、猿楽能諸座もそれまでの不安定な立場を脱しつつありました。

ただここで注意しておかなければならないことが2点ほどあります。
ひとつは、足利家が庇護したからといって諸座はそのまま将軍家のためにのみ演じるということはなかったし、それ以後も大衆を観客としたいろいろな場所で演じられていたということ。
もうひとつは、足利義満が世阿弥を贔屓したと喧伝されていますけれど、当時の義満は将軍として他の猿楽能や田楽能の諸座も庇護しており、それらの中の一人である世阿弥を寵愛していただけであって、世阿弥の観世座が同業の他座を圧倒していたわけでもなく、むしろ彼らとの競争の中で、自らの芸を高めていったということです。

世阿弥の父の観阿弥清次は物真似主体の大和猿楽の芸風を極めていたようで、大柄な体格だったのに舞台の上で女性を演じたときはたおやかな印象を与え、また力強い演目ではいかにも男性的な演技を行ったと言われています。
観阿弥はこのような卓越した演技力に加え、それまでメロディ主体の「謡」に、当時流行のリズミカルな曲舞(くせまい)を取り入れました。

名前こそ「舞」ですが、これは舞踊と言うよりもむしろ語りの要素が強く、ただの歌謡だった「謡」にリズムと物語性をもたらし、後の世阿弥による夢幻能の台本作りに強い影響を与えたとされています。
ちなみに織田信長が好きだったとされる「人間五十年 下天のうちを云々」の幸若舞は、この曲舞の一種です。

当時、京都の貴賎に支持された観阿弥は、ばさら大名として著名な佐々木導誉など幕閣の有力者にも支援され、そのツテが今熊野猿楽能における義満の臨席をもたらし、観阿弥・世阿弥父子の庇護に繋がったと考えられています。
ここで観阿弥は息子の世阿弥に、貴顕の好みに合うような上品な教養が備わるような教育をしたようで、それが二条良基ら京中文化人との交流につながり、美を追求するような猿楽能に発展していったのです。
特に、本来、物真似主体だった大和猿楽能の中心にありながら、歌舞に重きを置いた近江猿楽の芸風をも学んだ世阿弥は、一般庶民のみならず京中文化人の好みにも合う音曲や歌舞、そして父親が創始した物語性を兼ね備えた上品で優雅な猿楽能を創り出していきました。

これが一つの物語であるのならば、現代に続く「幽玄な」芸術的猿楽能が完成してめでたしめでたしで終わるのですが、現実はまだまだ続いていきます。
まず、芸術性が高まったとは言え、猿楽能はまだまだ単なる娯楽の域を出るものではなかったということです。

例えば、嘉吉元(1441)年の赤松邸での将軍足利義教斬殺事件は、将軍饗応のため猿楽能が赤松邸の庭先で演じられている最中に起きており、当時、宴会での娯楽の一環として行われていたことは、明らかな事実です。
どれほど上品で優雅な猿楽能であっても、当時はそのような扱いのものだったのです。
ちなみに赤松邸で演能し、大混乱の中を命からがら脱出したのは世阿弥の甥で、当時観世大夫だった音阿弥元重だったと推定されています。
また、当時の演能は足利将軍家などパトロンの屋敷内での演能だっただけでなく、大衆向けの勧進猿楽も重要な演能機会であり、猿楽座の大切な生活資金調達すなわち「渡世」の場だったことも忘れてはいけません。

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