林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.52

第52回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 猿楽の座特集「猿楽能の伸張」

南北朝期当時、貴賎の喝采を博していた田楽能の座に対し、それを間近で見ていた畿内を中心とした諸国の猿楽座の人々は芸を磨き、それぞれ属していた寺社の膝元で徐々に実力を蓄えていきました。
特に4つの座が一堂に会する大和興福寺の薪猿楽など、同業他座と常に競い合う環境にあった大和四座の場合、芸は格段に向上していったと考えられます。
ただ、ここで注意しなければならないのは、この場合の大和四座とは、本来の翁猿楽を行っていた円満井座、坂戸座、結崎座、外山座に属していた人々ではあるものの、彼ら自身は本芸以外の物真似芸である猿楽能の技量を磨いていた人々を指しているということです。

この公式に認められた大和四座に属しつつも別の芸で人々の支持をかち得ていったグループは、それぞれの座を名乗るのでなく、猿楽能を演じていた自分たちの棟梁の個人名、つまりは演技上手の呼び名を通称として名乗っていくようになりました。
前々回で「猿楽能を演じた人々の中で演技上手とされた人は「権守(ごんのかみ)」または「大夫(たゆう)」と呼ばれ」たと述べたように、円満井座では金春権守の金春座、坂戸座では金剛権守の金剛座、結崎座は観阿弥(芸名は観世大夫)の観世座、そして外山座は宝生大夫の宝生座を通称としていきます。
日本史の教科書や参考書などで大和四座の記述の仕方が2種類あるのは、こういう事情があるからなのです。

また世阿弥の『申楽談儀』によると、この時代で興味深いのは、宝生大夫と観阿弥が兄弟だったらしいことと、鎌倉幕府の滅亡後に鎌倉から坂戸座にやって来た「松」と「竹」という2名の猿楽能役者がいたことです。
現在の桜井市山田という飛鳥に程近い場所に当時、山田猿楽という集団があり、鎌倉末期に「山田みの大夫」という役者がいました。
彼は養子を取り、その養子に男の子が3人生まれ、長男は外山座に入って宝生大夫となり、次男は生一といい、山田猿楽を継いで出合座(現橿原市出合)を立てたとされ、三男の三郎清次が結崎座(現磯城郡川西町結崎)に入った観世大夫・観阿弥です。

そして鎌倉から来た「松」と「竹」2名の猿楽能役者の存在は、土地の人間でなくても猿楽能グループに加入できたことを示唆し、観阿弥兄弟の場合は能力があれば他座に入っても猿楽能グループの棟梁となることができたことを示しています。
彼らは確かに所属する座の神事奉仕などの義務は課せられていたものの、それ以外の人的交流など、他の座には見られない自由さがありました。

さて、後の時代では金春、金剛、観世、宝生とこれらの座名が認知されていきますが、この時代はそうなる前の過渡期に当たっているため、これらの座名がそのまま使われることはあまりありません。
しかしこれらの呼び方を使わないと、以後の話にやたらと手間がかかってしまうので、この解説を期に、以後はこれら通称の座名を使っていくこととします。

旧来の猿楽座が翁猿楽をもって寺社に奉仕したのに対し、それらに協力しつつも自分たち独自の活動を繰り広げたのが猿楽能のグループでした。
彼らの活動はその性格からか史料上にはっきりと現れることは少なく、このあたり、不確定にならざるを得ません。
ただ、ここで比較的大規模なことから、「勧進猿楽」という興行形態を挙げることができます。

猿楽能の「安宅」から題材をとった歌舞伎の「勧進帳」という演目があります。
追討を受けた義経主従が加賀国安宅関を通ろうとして関守の冨樫左衛門に咎められ、弁慶が機転を利かせて「自分たちは東大寺修理の勧進を行っている」と白紙の巻物をいかにも文が書かれているかのように朗々と読み、虎口を脱すると言う有名な話です。
このときの弁慶の台詞の「勧進」とは、本来、寺社の修復などの目的で寄付を募ることを言い、今で言えば「一般募金」に当たります。
それがそのうち、人気芸能を興行させて、その入場料の一部を修復資金に当てる「勧進○○」が生まれ、猿楽能や田楽などが利用されるようになって来ました。
こちらの方は、チャリティショーによる募金の形態と言えます。

観客は入場料を支払うことで寺社や神仏に「作善」という善根を植えて、自分たちの後生を願うということになります。
彼らは、いま現在に娯楽を楽しみつつ、なおかつ自分の後生にも良い効果がある、つまりは極楽に行くとか、罪一等を減じられて地獄行きを免れるかもしれないと言うことで、勧進興行は非常に盛んになっていったのです。
そのうち、勧進元が寺社に限らない勧進なども出てきました。
前回出てきた、貞和5(1349)年6月11日の京都四条大橋再建のための勧進田楽がそれに当たります。
こちらの方は、京都の都としての社会基盤つまりはインフラ整備のための勧進ということですね。
そして最終的には演技者の生活のための、すなわち興行目的だけの勧進も行われるようになっていったのです。

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