林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.47

第47回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 衣料の座と戦国大名

衣料・染物関係の座は、前項でも少し触れたように、諸国各地にありました。
長門一宮・住吉神社門前の市にあった紺屋座は辺り一帯の全ての染物を座衆70人で扱い、同地の細物座では呉服類商売の一切を座衆65人で取り仕切っていました。
大宰府天満宮の門前町にも染物座に細物座があり、宇佐八幡宮の門前町にも唐物座が3軒あったとされています。
この場合の唐物座は、絹織物を扱っていたと考えられています。

遠江の茜商売において今川氏が統制に乗り出したように、彼ら有力な商工業者集団は、おそらく在地領主とも関わっていたはずで、他にも甲斐中郡の紺座は武将得分の課役としても認められていました。
甲斐の紺座は武田氏の滅亡以後、新来の領主である徳川家康によって保護されており、彼らの生み出す利益とその統制には戦国大名らも腐心したことが窺えます。

同様の例は、越前においても認められています。
もともと越前は中世の全期間にわたって絹の産地として名高く、「北庄帯」と呼ばれる一種の地方ブランドさえありました。
そこで越前朝倉氏は、北庄の御用商人である橘屋に絹座と薬座の支配権を与え、統制を行っていました。
ちょっと話は横道にそれますが、この頃の薬は、はっきり言って軍需物資です。
刀傷や矢傷などの金創を治療する外科的薬品に、病気などを治療する内科的薬品となれば、戦国大名が統制・保有するのは当然のことで、これに関与していた橘屋は、朝倉氏の絶大な信頼を受けるほどの大商人であったと考えられます。

天正元(1573)年、朝倉氏を滅ぼした織田信長は、北庄の軽物座と唐人座(絹物)を橘屋に安堵し、彼を中心に強制的に座を組織させました。
しかし翌天正2年、越前一向一揆の勃発により、橘屋は越前を捨てて、いったん能登に逃れます。
おそらく北庄から九頭竜川を下って三国湊に出、海路能登に脱出したのでしょう。
そしてその翌年天正3(1575)年、越前一向一揆が鎮圧されると再び越前に戻り、その年の8月、信長は橘屋三郎左衛門あてに文書を出して彼の営業を保証するのです。

このほぼ1年後、天正4年9月に越前では楽座の制が敷かれましたけれど、軽物座と唐人座においては依然として橘屋に任されており、信長の楽座の制度が全ての座を撤廃する性質のものではなかったことがわかります。
橘屋はこれ以後、天正12(1584)年まで、絹関係を扱っていましたが、それ以後は薬品の製造販売に比重を移し、近世に至っています。

さて、現在1番使われている綿について、少し見てみます。
室町初期には、すでに京都祗園社が洛中の綿売買に関わっていました。
祗園社に属していた綿売本神人が綿の専売権を持ち、三条と四条に綿座を組織して40人以上が携わっていたということです。
彼らはまた、七条や錦小路にも店を構えていました。
応永4(1397)年には、洛中で綿の振り売りを行った綿新座64人と争ったらしいことから、当時かなりの綿の需要があったということになります。
応永4(1397)年といえば金閣が建てられた頃で、洛中での綿商売が比較的早い時期から行われていたわけで、このあたり、さすが京都だなといった感じです。

地方の綿については、さすがに遅れていて、これも応仁の乱以後とされています。
しかし永正5(1510)年には「三川木綿」の語が史料に現れ、和紙のところで出てきた『今堀日吉神社文書』にも永禄3(1560)年づけの、三河商人の木綿荷の記事があります。

この三河国が今川氏の支配を受けるようになってからは、米座を兼ねる御用商人であった例の友野氏が木綿商売をも統制し、役銭の徴収と納入にあたっていました。
元亀4(1573)年、駿河に進出した武田勝頼は、友野宗善に宛てて木綿役の安堵などを行っており、勝頼の駿河進出が一過性のものでなく、恒久的な領地とすべく考えて措置を行っていたことがわかります。
また、ここでも戦国大名が彼ら大商人を滅ぼさずに利用していたこともわかります。

しかし当時の綿はかなり高級品ですし、庶民は相変わらず麻中心の衣料でした。
ただ、彼らは防寒具の一種として和紙を使っていたようです。
厚手の和紙を糊で貼り合せ、これで衣類や夜具を作っていたものをそれぞれ紙子、衾(ふすま)と言い、丈夫なことから寺院を中心に使われていました。
庶民は庶民なりに知恵を働かせていたというところでしょうか。

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