林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.46

第46回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 藍染の座

さて、このように織物業が発達してくると、必然的に染色業も発展していきました。
紺布すなわち藍染や紫、茜、紅花、黄皮(きはだ)や纐纈(こうけつ)染など、染色技法が発展するにしたがって、染を扱う各々の座、また染物の触媒としての石灰を扱う石灰座も出てきたのです。
このうち現代でも超高級衣料として有名な纐纈染というのは、生地の一部を縛ったり縫い締めたりして、その部分に染料が染み込まないようにしてから染めるもので、絞り染めの1種です。

これら染色のほとんどは草木染めで、茜(あかね)染めは、茜という草の赤い根を灰汁につけて赤い染料を染み出させたものですし、黄皮は黄檗の樹皮のうち、内皮を染料として用い、経典などの料紙にも用いられました。
基本的に草木染めですから、藍以外の赤とか黄色は、現代のようにけばけばしくなく、日本的と称される落ち着いた色彩をしていたと思われます。

茜の場合、京都では文明年間に左兵衛府の駕輿丁が茜販売を手がけており、かれらが都における販売権を握っていたことがわかります。
また、遠江にも茜染座があり、永正年間には座員16人を数えています。
ここの茜染座は、天文年間に幕府政所の公人と繋がりを持ち、彼らは遠く室町幕府と結びついて営業をしていたらしいとされています。
もともと遠江は茜が特産品で、永禄10(1567)年、駿河今川氏は、この茜商売を御用商人の友野・松木氏を通して統制に当っており、当時の遠江における茜染座の収益が多かったことを窺わせます。

しかし染物と言えば、何と言っても藍染で、京都九条の藍座をはじめ、全国各地に藍染座が作られました。
藍染座はまた、青屋、藍染屋、紺屋、紺掻(こうかき)とも呼ばれ、糸染を手がけていたようです。
この藍染には女性職人もおり、古代中世まではそうでもなかったのですけれど、戦国時代以降、一部の人々が京都において謂れのない差別を受けたことがあります。
紺屋高尾という話の中に、紺屋職人の手が藍色に染まっているという話があり、こういう姿が当時、差別の対象とされたのかなと考えています。

ただ、藍染は全国的に存在し、現在でも著名な阿波の紺屋座、大和興福寺大乗院の紺座、石清水八幡宮門前の紺之座、甲斐中郡の紺座、加賀一向一揆最中の金沢紺屋座、長門一宮・住吉神社門前の紺屋座、九州大宰府天満宮門前の染物座などがありました。
また、越前朝倉氏遺跡をはじめ全国の中世町屋遺跡には、甕の肩口まで地面に埋めた遺構が出土しており、これらは藍染屋の跡ではないかと推測されています。

京都では九条の鴨川沿いの湿地帯を中心に藍屋が散在し、彼らは藍座として三条家に藍公事を納めて営業していました。
彼らの営業権はしかし応永3(1396)年7月、例の駕輿丁の紺持売と争論している記録があり、彼らの独占も決して平坦ではなかったことがわかります。
持売とは、おそらく店舗を持たない商人のことで、彼ら駕輿丁商人は市内あちこちでゲリラ的に販売を手がけていたのではないかと思っています。

藍は蓼藍(たであい)という植物の葉をすりつぶして水を加え、それを袋に入れて絞り、染料を取り出します。
これを甕に蓄え、触媒として石灰を加えて、その中に糸を漬けて引き上げると空気に触れて酸化し、鮮やかな藍色に染まるというしかけです。
これを何度も繰り返すことにより、色はより深く発色することになります。
石灰はアルカリ物質ですし、それに漬けた糸などを空気に触れさせて酸化させ発色させるというのは化学反応の応用以外の何物でもなく、その意味では彼らの技術や経験というものは大変に科学的だと言えるでしょう。

藍の主産地である阿波には、大量に消費する石灰を運送する灰舟座も組織されており、また京都や奈良にも石灰座がありました。
これらの石灰座は、主に貝殻などを焼いて、それを細かく砕いたもので、それは壁に塗る漆喰の原料にもなったのです。
石灰は石を焼いて砕く場合や、山から石灰そのものが採掘される場合もあり、現代では学校の白線引きのときにしか見かけませんけれど、中性の人びとにとっての石灰は、現代よりも身近な存在だったのかもしれません。

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