林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.45

第45回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 越後青苧と上杉謙信

史料の残存が比較的多いものですから、ついつい高級衣料中心に見てきましたが、今回は庶民の衣料と座について見ていきます。
中世の庶民衣料と言えば、やはり筆頭に挙げられるのは麻布です。
特に越後産の青苧(あおそ)は大変著名で、麻布イコール越後の青苧というイメージが定着しているほどです。
じっさい、越後の青苧は中世の全期間を通じて、越後国における最大の輸出品であり、かつ重要物資でもありました。

青苧とは、苧(カラムシ)または苧麻(チョマ)と呼ばれるイラクサ科の植物から取り出した繊維製品のことです。
もともと熱帯アジアが原産で、日本には北海道を除く全国各地に自生していました。
青苧から麻布に加工するのですけれど、この「麻」は麻薬などに使われるアサ科の大麻とは別のものです。
厳密には自生種をカラムシ、栽培種をチョマとしているようですが、ここでは苧(そ)として見ていきます。

全国各地にあった苧はしかし越後の量産により、苧と言えば越後産といったふうに完全なブランド化していったようです。
他にも信濃苧などがあったのですけれど、越後青苧の浸透力には敵いませんでした。
苧はさすがに熱帯原産の植物らしく春から夏の間に2m近くに育ち、夏場の8月中旬にこれを刈り取り、表皮を剥がすなどの加工ののち、やや青みがかった透明な繊維を取り出します。
青苧の名は、この透明な繊維の色からきていて、量の割に軽いことから、そのまま各地に輸送されたのではないかと考えられています。

この繊維を布に織り上げる前に1度、紡錘などで撚りをかけ、繊維に強度を増してから織機にかけられたようで、絵巻物や屏風絵などに都の女たちが紡錘で撚りをかけている姿が描かれたりしています。
「奈良晒(さらし)」の名前で京都にも製品化されたものが売り出されており、これなども一種のブランドと考えて良さそうです。

青苧から作られた麻布は、大変丈夫で長持ちするため、庶民の衣料はおそらくほとんどがこれだったと考えられています。
また、武士の正装の1つ、裃は麻製となっており、こういうことを考えると当時の麻の需要は非常に大きく、その意味で越後青苧というものは、戦略的物資にもなり得たのではないかと思われます。
もちろん、山中など田舎の方では木の繊維から衣料を織り出してもいたようで、木の繊維を使う衣料は戦前まで残っていたと聞いたことがあります。

麻布は布目も粗く、通気性が抜群なため、夏は非常に快適なのですが、その分、冬は大変に寒く、庶民は粗末な麻布をいくつも重ね着するなどして冬を乗り切ったことでしょう。
現在では麻織物と言うと、越後上布とか縮とか、肌触りの良い高級品を思い浮かべますけれど、当時の麻布は大変粗末で肌触りもごわごわしており、そのために肌が擦れて皮膚が破れ、そこから皮膚病などの病気を起しやすいという欠点がありました。
庶民が流行り病に罹りやすかったのは、不衛生な食事や住環境ばかりではなく、これら衣料の問題も大いに関係していたと考えるべきでしょう。

この庶民や武士の生活に欠かせなかった越後青苧は、当然のことながら座の支配を受けていました。
青苧座は、摂津天王寺の青苧座が最大のものだったようで、本所は『実隆公記』で有名な京都の三条西家です。
摂津天王寺とは大坂の四天王寺のことで、石山本願寺が築かれる前までは、ここの門前が大坂の中心地でした。
ここの門前市は四天王寺西門前の今宮浜で開かれ、明応8(1499)年の段階で、在家7千軒と称されていました。
在家7千軒ともなりますと、1軒につき夫婦と子供1人いたとして最低でも2万1千人、それに市での買い付けの人々を加えると、当時とてつもない人口を擁していたことになります。
四天王寺の西門は、聖徳太子信仰もあって一向宗が栄える前から「西方極楽浄土の入口」という信仰があり、水運の便の良さもあって、それでこれだけ栄えたのでしょう。

この攝津四天王寺前に本拠を置く天王寺青苧座は、彼ら自身が直接越後まで出向いて青苧の買い付けをしていたらしく、彼らの独占ぶりが余りにひどかったことから、地元の越後商人が反発して守護代の長尾氏と結び、天王寺商人と彼らの本所である三条西家と何度も交渉を繰り返したことが『実隆公記』に記されています。
最終的には、上杉謙信が直江津や柏崎などの重要港湾で青苧役の徴収を強化し、この頃、越後は天王寺青苧座の支配を脱したのではないかと考えられています。

上杉氏は城下町の府内に住む商人頭の蔵田五郎左衛門に越後青苧座の管理を任せ、以後、越後青苧は上杉氏の重要な財源となっていきました。
五郎左衛門は商人でありながら、謙信の留守役を務めたり関東管領就任式の調度を調達したりと、謙信にとって譜代家臣以上の働きをし、上杉氏に貢献していったのです。

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