林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.41

第41回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 諸国の紙と紙座

ここでディープな美濃紙・近江枝村ルートを離れて、他の紙座について軽く見てみようと思います。
まずは現代でも越前奉書で有名な、越前です。

もともと越前での紙の大量生産は、初めのうち、鳥の子紙の生産から始まり、その上質さから越前帰りの僧侶や荘園関係者などの土産物として珍重されたことがきっかけでした。
それが奉書紙の生産に取って代わられ、この伝統は今でも「越前和紙」の生産地として名高い今立郡五箇郷(現在の今立郡今立町一帯)に「越前和紙の里」として生きています。
特に大滝神社を中心とした大滝郷では、戦国時代以前から専門的手工業として生産が行われていたと考えられています。

そして戦国時代に突入すると、越前一国を支配した朝倉氏は、この大滝郷の紙屋衆を保護し、彼らで構成されていた紙座は生産と販売の両方を一手に扱い、独占状態を保ち続けたのです。
驚くべきことに、信長による越前征服以後、越前支配を任された柴田勝家の与力だった前田利家ら府中三人衆は、この大滝郷紙屋衆に対して、越前西半国の商業権をそのまま認め、諸役も免除して製紙の主材料のある山林伐採を禁じるなど、徹底した保護に当っており、当時いかに彼らが重要視したかが窺えます。

この越前における製紙業の特徴は、何と言っても早い段階から「専門的手工業」として1郷あげて生産販売に取り組んでいたことでしょう。
これは他の諸地域にはあまり見られない、たいへん大きな特徴です。
京都や奈良などの都市部ならともかく、一般的な農村地帯であった越前においてこのような生産が成されていたことは、特筆に価します。
ある意味、集約的かつ現代的とも言えるこの傾向は、どうも越前特有のもののようです。

なぜここまで言い切るかというと、越前には同じような事例がもう1つあるのです。
紙ではないですが、越前焼という焼き物が集約的かつ専門的に生産されていたからです。
焼き物ということで、ここで詳しくは述べませんけれど、前の時代から先行して日本海沿岸諸国に広がっていた能登の珠洲焼を追いかけ、そして珠洲焼を駆逐するような形で越前焼が急速に諸国に持ち込まれています。
特に室町後期以降、窯は大型化し、量産体制が確立されていくのです。
このことと越前奉書生産に見られる傾向は、基本的に同じです。
あまり知られていませんけれど、中世戦国時代における越前の先進性については、もう少し注目してもよいのではないかと思います。

越前ほどではなかったかもしれませんが、甲斐の甲州紙や伊豆の修善寺紙も戦国時代、領主によって保護育成されたものの1つです。
甲州紙は主に八代郡市川大門周辺で生産され、修善寺紙は伊豆の修善寺周辺で生産された雁皮紙です。
また、畿内においては大和国十市、吉野、奈良など、大和国一帯でも製紙が行われていました。

ただ、大和国の場合は文書用の紙でなく、日用品としての紙生産が主だったようです。
奈良の紙座は雑紙座と呼ばれ、都会らしく本座と新座に分かれていまし、また製造の座と販売の座にも分かれていました。
これらの雑紙は奈良雑紙と呼ばれ、大和柳原などの寄人の年貢としても扱われていました。
この雑紙は史料上「ソウカミ」と振り仮名がついていることから、当時「ぞうかみ」または「ぞうがみ」と呼ばれていたことがわかります。
また大和吉野の吉野紙は薄手の紙として珍重され、その薄さから化粧用とか塵紙として用いられたそうです。

大量消費地である京都には、このように周辺諸国から大量に紙が送られてくるようになり、必然的に紙専門の問丸も出現し、そららは「紙問丸」と呼ばれていました。
特に西国を中心に、讃岐が主産地の讃岐檀紙、備中産の備中檀紙、また播磨国多可郡荒田郷杉原谷を主産地とする杉原紙などは、西国の紙問屋によって京都に運ばれていき、京都は京都で、西国の紙を扱う専門の紙問丸までが出現しました。

京都にも朝廷の図書寮を本所とする紙漉き座はあったのですけれど、とにかく集中豪雨的に大量の紙が諸国から流れ込んでいたので、結局それらの勢いに押されてしまいました。
ただ、さすがに使用済みの反古紙も大量に出てくるので、これを専門に扱う反古商人がいて、新しい紙に漉き直したりとか裏紙として使用したりとかして、先ごろのような単純消費ではなく、リサイクル商品としての製造販売を行っていました。
資源を無駄にしないというのは、連綿と続いていた日本人の智慧なのかもしれませんね。

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