林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.39

第39回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 美濃紙と座・流通(下)

「紙商買事、石寺新市儀者、為楽市条、不可及是非、濃州並当国中儀、座人外於令商買者、見相仁荷物押置、可致注進、一段可被仰付候由也。仍執達如件。
  天文十八年十二月十一日
                   (野寺)忠行 在判
                   (後藤)高雄 在判
  枝村惣中」 近江国守護奉行人連署奉書案 『今堀日吉神社文書』108

「紙商売のこと。石寺新市の儀は、楽市たるの条、是非に及ぶべからず。濃州ならびに当国中の儀、座人のほか商売せしむるにおいては、見合いに荷物を押し置き、注進いたすべく、一段と仰せ付けられるべく候よし也。よって執達件の如し。(以下、読下し略)」

これは信長の楽市令に先立つ、近江六角氏の楽市令文書として著名な古文書ですが、じつは紙商売の記録文書でもあるのです。
紙商買(売)としての「枝村惣中」宛にこの文書は出されており、近江国南守護である六角氏は、領国内の石寺新市での枝村惣中の特権を認めています。
「枝村惣中」とは枝村の紙本座のことで、この枝村紙本座が、この地での紙市を主催しているわけです。

そしてここで2度目の卸業務が行われ、枝村紙市から京都までは、枝村の本郷である延暦寺領得珍保(滋賀県八日市市南部)の保内紙座商人によって送られました。
以上の事柄を整理すると、以下のようになります。

中濃地域の農家→@→美濃大矢田紙市→長良川ルート(A)→伊勢桑名→鈴鹿越えルート(B)→近江枝村紙市→C→京都

このうち、@の集荷業務はおそらく美濃大矢田の紙商人たちが関わっていたはずで、月6回という市開催の頻繁さを考えると、この集荷だけで1つの仕事として成り立っていたと考えた方がいいと思います。
ですから、Aの長良川ルートを使って伊勢桑名まで運んだ美濃商人は、同じ美濃の紙商人なのですけれど、@の紙商人と別の商人集団と考えるべきでしょう。
そして伊勢桑名の定宿において近江枝村の商人との相対取引が行われ、いったん桑名の定宿に集積されていた紙荷は枝村商人によって鈴鹿山脈を越えて枝村に運ばれ、ここの紙市から、C保内紙座商人によって京都に運ばれたというわけです。

枝村惣中の紙商人は、京都の宝慈院というところを本所としていたようで、文明14(1482)年に「可専公役之由」(公役を専らにすべきの由)の文言が入った室町幕府の下知を受けています。
そして天文21(1552)年には、以下のような文書を下されています。

「美濃紙座人中、従江州枝村郷、京上之美濃紙事。
対宝慈院殿、御公用令沙汰、往古以来、帯数通証文、諸公事免除之旨、被聞食入、弥不可有相違之趣、被成奉書訖。
宜存知之由、所被仰出之状、如件。
  天文廿一
  十二月廿四日              (松田)藤頼 在判
                         (松田)盛秀 在判
   枝村 当座中」 室町幕府奉行人連署奉書案 『今堀日吉神社文書』184

「美濃紙の座人中、江州枝村郷より、京上の美濃紙の事。
宝慈院殿に対し御公用沙汰せしめ、往古以来、数通の証文を帯し、諸公事免除の旨、聞こしめ入られ、いよいよ相違有るべからずの趣、奉書に成されおわんぬ。
宜しく存知すべきの由、仰せ出ださる所の状、件の如し。(以下、読下し略)」

ここでは本所の宝慈院が枝村に対して紙商売の利益から「公用」として年貢を納めさせ、その代わりにそれ以外の諸公事すなわち他の諸年貢を免除することが記されています。
おそらく、それだけ紙商売の「公用」年貢が大きかったのだろうと思われますし、その前提としての紙商売の利益の大きさもかなりのものだったということが想像できます。

かくして大量の美濃紙は京都に定期的に流入し、枝村の紙商人も大きな利益をあげていったのです。
しかし、近江における枝村の紙商売の独占は、思わぬところからおびやかされていきました。

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