林光明様著作物・継承コンテンツ
リアル!戦国時代 vol.38

第38回 中世のキーワード 「座」 シリーズ 美濃紙と座・流通(上)

今回は美濃紙と座、また流通について見てみます。
前述したように美濃紙は中濃地域の山間部で生産したと考えられており、この地域の農家の副業生産物とも考えられています。
だいたい南北朝以後になって生産が始められたようで、これらを集積する紙市場が美濃大矢田(美濃市)に設けられました。

大矢田の紙市は、3のつく日・8のつく日の、月6回開かれる六歳市が江戸時代の初めに開かれており、その100年以上前の文明年間にはすでに月6回の定期市が開かれていることから、中世戦国時代における大矢田紙市は、毎月3日・8日・13日・18日・23日・28日の延べ6日間開催されたと考えられています。
ここでの取引は卸売りであり、特に応仁の乱以後、美濃守護の土岐氏がこれを保護してからというもの、美濃紙は京都市場に大量に流れていったようです。

紙荷を運んだのは美濃大矢田紙商人や近江の枝村商人で、大矢田からいったん近江枝村の市に卸され、ここから京都に送られました。
近江枝村の場所は、仲村研氏により犬上郡豊郷町上枝・下枝に比定されています。

面白いのは、彼らが東山道(のちの中仙道)関ヶ原ルートを取らずに、遠回りする形の河川交通ルートを使っていることです。
関ヶ原ルートは美濃大矢田(美濃市)〜近江枝村(八日市市南部付近)の最短ルートで、陸上ルートです。
ところが『今堀日吉神社文書』によれば、美濃の紙商人は伊勢桑名に紙問丸や定宿を3軒持ち、ここに来る商人に紙を卸していました。

つまり美濃大矢田〜伊勢桑名〜近江枝村というルートで、美濃大矢田〜伊勢桑名間は長良川を下り、そこから鈴鹿山脈を真西に突っ切る形の八風峠越え、または千草峠越えで近江枝村まで行くというルートです。
なぜ最短ルートを使わずに、遠回りしてまで長良川ルートを使っていたのか。
これは単純に、それだけ扱う紙の量が多かったと考えてよいと思います。

「一 美濃商人桑名宿三間御座候、其へ持来候紙、彼宿仁枝村衆罷越買申候事
一 美濃衆持来紙すくなく候て、此方衆大勢罷下、紙たらす候時ハ、地下ニ買置候紙買候て、罷上候事
一 美濃衆自然路次ニ出入候て、桑名へ不罷越時も御座候、左様候時も、地下ニ買置候紙買候て、罷上候事(以下略)」
                                                枝村商人申状案『今堀日吉神社文書』188

「一つ、美濃商人、桑名に宿3軒御座候。それへ紙を持ち来たり候。かの宿に枝村の衆まかり越し、買い申し候こと。
 一つ、美濃の衆持ち来る紙、少なくそうらいて、この方の衆、大勢まかり下り、紙足らず候時は、地下(じげ)に買い置き候の
  紙買いそうらいて、まかり上り候こと。
 一つ、美濃の衆、自然路次に出入りそうらいて、桑名へまかり越さず時も御座候。さよう候時も、地下に買い置き候の
  紙買いそうらいて、まかり上り候こと。」

ここでは美濃の紙商人が伊勢桑名に定宿を3軒持ち、そこに紙を持ってくること、そして枝村の商人がその宿に行って、宿の中で仕入れ交渉を行っていたことを教えてくれています。

また、美濃の紙商人が持ってくる紙が少なければ、桑名周辺で美濃紙以外の紙を調達することも求められており、万一、美濃商人が事故などで桑名に来なかった場合、同様に桑名周辺で紙を買い集めて調達するようにとも決められています。

当時、いかに枝村の紙商人が活発に動いていたか、またそれだけの数を無理にでも揃えなければならなかったかがわかって、大変面白いものがあります。
では、なぜそこまでして枝村紙商人たちは紙を調達しなければならなかったのか。
彼らには、彼らなりの事情があったのです。
枝村商人による商品の独占ということもありますが、彼らは彼らで枝村において紙座を組織しており、また紙市をも開いていたのです。
次回はこれらのことについて、もう少し追いかけてみようと思います。

追記。
2001年12月12日づけ本掲示板で、今在家太郎左衛門殿より枝村の比定地につきご教授いただき、修正・加筆、
2002年12月17日、再修正をいたしました。

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